148 熔けちゃった!?右手の枷!?
最初に変わったのは、歩調だった。
水底を進んでいた魔物たちの列が、ほんのわずかに、間延びする。きっちり揃っていたはずの足並みが、揺れた。
「……?」
僕は、目を凝らす。鱗を引きずる音。触手が水を裂く音。それらが――噛み合わなくなっている。
まるで、誰かが裏からテンポをずらしたみたいに。
次の瞬間だった。
水底に、軽い弾みが生まれる。
トン。
トン、トン。
床を叩く音が、規則ではなく、リズムに変わった。
「……音楽?」
いや、違う。音楽が鳴っているわけじゃない。けれど――歌に呼応している。セリアンとミラの歌が、水の層を通して、パレードの“意味”に触れたのだ。
魔物のひとりが、首を傾げる。複数の目を持つ魔物が、左右で違うものを見始める。触手が、鎖ではなく、くるりと宙を舞った。
「……あれ?」
誰かが、そう呟いた気がした。
恐怖を煽るための整列だったはずの列が、行進に変わり、行進が、いつの間にか――パレードになっていた。
水が、きらきらと弾く。装飾の水晶が、淡い光を強める。誰も命じていないのに、色が増える。
魔物たちは、まだ魔物のままだ。牙も、鱗も、異形の影も消えていない。
それでも。
彼らの動きに、余白が生まれた。楽しそう、とまでは言えない。だが――重苦しさが、ほどけている。
生贄として縛られていたはずの青鮎記録師たちの水鎖が、わずかに、ゆるむ。
締めつけるための形だった水が、支えるための流れに、変質していく。
「……なんだ、これ……」
僕の胸に、困惑と同時に、理解が落ちてくる。
これは、破壊じゃない。停止でもない。
再解釈だ。
オラクルパレードという“未来を示す儀式”が、「死を運ぶ行進」から、「選択肢を示す行進」へと、書き換えられている。
水底で、誰かが笑った。
高らかな笑いではない。くすぐったそうな、戸惑い混じりの笑い。
魔物のひとりが、くるりと回る。別のひとりが、それを真似る。意味のない動き。
――だからこそ、儀式から逸脱した動き。
パレードは、まだ続いている。
けれどそれはもう、誰かを未来へ“運ぶ”ためだけの列じゃない。
歌に触れ、意志に触れ、選択の可能性に触れてしまった――陽気で、危うく、まだ不完全なパレードだった。
僕は、檻の中で、それを見つめながら息を吸う。
「……まだ、止められる」
そう確信した瞬間、水底で、パレードは一拍だけ、楽しげに跳ねた。
まるで――次の“選択”を、待っているみたいに。
鎖は、外れきらなかった。いや――外れたのに、消えなかった。
熔けていたはずの青白い鎖の光が、青鮎記録師たちの胸元へと、静かに吸い込まれていく。金属ではない。重さも、冷たさもない。それでも確かに、そこに在るとわかる感触。
「……え?」
誰かが、戸惑いの声を漏らした。
手首を見下ろす。何もない。自由だ。けれど、胸の奥が――きゅっと、締まる。
「鎖が……中に……?」
驚きのささやきが広がる。逃げ場は、もうない。だがそれは、恐怖ではなかった。忘れないための重さだった。
「……これは……!」
僕は、静かに胸へ手を当てた。鼓動の奥で、何かが脈打っている。
記憶だ。恐怖も、無力も、歌に救われた瞬間も――全部。
檻の外からではない。誰かに課されたものでもない。自分で刻んだ枷。
「この刻印は僕たち……青鮎記録師の戒め、だ」
セオトの声は、低く、しかし澄んでいた。
周囲の青鮎たちが、はっとして彼を見る。
「鎖を失くしたんじゃない」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「忘れないように……中にしまったんだ」
一人、また一人と、理解が灯る。
「……記録、か」
「俺たちが……背負うもの……」
誰かが、震える息で言った。
「……もう、奪われるだけじゃ……ない」
水が、静かに揺れる。先ほどまでのざわめきはない。そこにあるのは、選んだ沈黙。
「記録師は……見なかったことにできない」
僕は、視線を上げる。遠く、歌の残響がまだ水を渡っている。
胸の内の枷が、確かに重くなる。だが、折れない。
「怖かったことも。間違えたことも。誰かを救えなかったことも」
言葉は、祈りのように続く。
「全部、記録する」
「……次に繋ぐために」
青鮎記録師たちは、互いに顔を見合わせる。泣いている者もいる。それでも、誰一人、目を逸らさなかった。
「……戒めとして」
誰かが、静かに言った。
「……誓いとして」
別の声が、重なる。
その瞬間、水底水族館を満たしていた淡い光が、すっと落ち着いた。暴れることも、縛ることもない。ただ、記録されるべき静けさだけが残る。
僕は、胸の奥の枷を、確かに感じながら、息を整えた。
(忘れない)
(書き残す)
(祝福も、恐怖も――全部)
それが、青鮎記録師として生き延びた者たちの、新しい鎖であり、翼だった。
そして僕は悟っていた。いや――きっと、皆も同じことを感じていた。
この枷は――外されるためのものじゃない。
記録の大切さを、二度と失わないために刻まれたものなのだ、と。
僕は気がついたことがある。
左手――何もない。最初から、繋がれていなかった。
水の中で、指をゆっくりと開く。抵抗はない。冷たい鎖の感触も、重さもない。
「……自由だ」
遅れて、右手に残る感覚が、はっきりと輪郭を持った。青白く、淡く、しかし確かな存在感。熔けたはずの鎖が、右手首の内側に、刻印のように残っている。
握ろうとすると、わずかに重い。
振り払おうとすれば、胸の奥が締まる。
「……左は……」
誰かが、呟いた。
「最初から……自由、だった……?」
青鮎記録師たちが、自分の手を見る。左手は、皆同じだ。何も縛られていない。何も刻まれていない。
そして――右手だけが、違う。
「……そうか」
セオトは、ゆっくりと理解した。右手を胸元へ引き寄せる。
「これは……罰じゃない」
声は、自然と落ち着いていた。
「自由を、奪われたわけでもない」
左手を、そっと持ち上げる。
「僕たちは……最初から、選べた」
視線が集まる。誰も遮らない。誰も笑わない。
「見ないことも」
「書かないことも」
「黙ることも」
一つずつ、言葉を並べる。
「全部、できたはずなんだ」
右手に、わずかに熱が宿る。鎖の名残が、脈打つように応える。
「それでも……」
僕は、はっきりと言った。
「それでも記録する、と選んだ」
誰かが、静かに息を呑む。僕は、開いた左手を見つめた。
「だからこれは……戒めだ。自由は、左手にある。でも……右手は、責任だ」
右手を、そっと握る。逃げなかった証。忘れないと決めた証。
青鮎記録師の一人が、震える声で言った。
「……重い、な」
「うん、重いよ」
僕は、否定しない。でも、と続ける。
「この重さがあるから、自由は……軽くならない」
沈黙が、水底に落ちる。けれどそれは、押しつぶす沈黙ではなかった。
一人、また一人と、右手を胸に当てる。誰かは涙を流し、誰かは歯を食いしばる。
「……忘れない」
「……繰り返さない」
「……記録する」
言葉は小さい。だが、揃っていた。左手は、未来へ伸ばすために。右手は、過去を抱え続けるために。
檻は、まだそこにあった。水で形作られた枠組みも、透明な壁も、壊れてはいない。
――だが。
「……出られるな」
誰かが、恐る恐る呟いた。青鮎記録師のひとりが、一歩、前に出る。水の壁に触れる。抵抗は、なかった。
「……あ」
驚きの声が、連鎖する。別の者が、続く。さらに、またひとり。
誰も、急がなかった。逃げるような動きは、ひとつもない。
「檻が……」
「いや……」
僕は、静かに首を振った。
「違う」
自分の声が、思ったよりも澄んでいた。
「檻が消えたんじゃない……僕たちが、檻を必要としなくなったんだ」
右手を、少しだけ持ち上げる。淡い光が、脈打つ。
沈黙。だが、それは恐怖の間ではなかった。
青鮎記録師が、深く息を吸う。
「拘束は、外にあるうちは檻になる。だが、選んで抱えたものは――支えにもなる……だな」
他の者たちも、そっと笑う。ぽつりと。
「……檻に閉じ込められてたのはさ。身体じゃなくて、覚悟のほうだったんだな」
誰も、否定しなかった。青鮎記録師たちは、互いの右手を見た。同じ場所に、同じ重み。だが、刻まれ方は、少しずつ違う。
それぞれが見てきたもの。それぞれが、記録してしまったもの。
「忘れない」
誰かが言う。
「忘れないから……選べる」
「記録は――俺たちを縛るためじゃない」
別の声が続く。
「進むための……足場だ」
僕は、ゆっくりと頷いた。
檻は、もう意味をもたなかった。ここはもはや牢獄ではない。通過点だ。
アクア・プリズン。
兄たちも、きっと枷を刻印にして、ここを通ってきた。
だから――僕は、前を見る。背筋を伸ばし、まっすぐに立つ。
(自由は、ある。だからこそ――)
右手の重みを、確かに感じながら。
(記録は、裏切らない)
それは、命令でも、教義でもない。生き残った者たちが、自分で選び取った誓い。
水が、静かに道をひらく。オラクルパレードは、さらに奥へと進みはじめた。
――檻の外へ、ではない。未来の内側へ。




