147 恐怖を裏返しちゃった!?届く希望の歌!?
活動報告に書かせていただきましたが、こちらでも。
更新をしばらくお休みさせていただきます。
楽しみにしてくださる方、申し訳ありません。
ご理解いただければ幸いです。
水底に沈んだ巨大なガラスドームが、ゆらゆらと歪んで見えていた。
色褪せた看板には、かろうじて文字が残っている。
――《水底水族館》。
割れた外壁の隙間から、淡い光が漏れていた。
耳を澄ませば、水を通して届く音がある。鈴のような音、太鼓のような低音、そして――歌。
「……なんだかさ」
カゲミは、呆然としたまま言った。
「廃墟のわりに、にぎやかすぎない? いろんな音が聞こえてる……」
「ええ。複数のリズムが重なってるわ。自然発生じゃない……誰かが“演出”してるわね」
エイミは目を細め、音の流れを読むように指を立てる。
「ってことは――当たりってことだホンね!」
ホンホンが胸を張る。エイミが勢いよく頷いた。
「行くわよ~! ワントゥアタックだわ!」
言い終わる前に、もう前に出ている。
「正面突破だホーン!」
「おいおい」
低く、落ち着いた声が割り込む。森の記録師、マモリだった。周囲の水草が、彼の気配に合わせて静かに揺れる。
「まずは様子を見たほうがいい」
視線は、水族館の割れたドーム窓に向けられている。そこから流れ込む水が、かすかに震えていた。
「この音は……歓迎の音じゃない。悲しみを“呼んでる”音だ」
「悲しみを……呼んでる?」
カゲミが、きょとんと首をかしげる。
「そうだ」
マモリは肯き、そっと掌を水へ沈めた。
――ぴくり。
水脈が、生き物のように反応した。一瞬遅れて、水底を走る細い振動が、皆の足元をかすめる。
「ここはもう、“施設”じゃない」
マモリの声が、わずかに低くなる。
「水に棲むものと……記録に残されたものが、混ざってる」
混ざっている。その言葉が落ちた瞬間――
ドームの奥で、ひときわ明るい音が弾けた。高く、軽やかで――まるで笑い声のよう。けれど、その残響の底には、確かに別のものが絡んでいる。
引きつった息。水を呑む音。呼ばれて、応えてしまった声。
「……っ」
誰かが、息を詰めた。
カゲミが、思わず一歩前に出る。闇色の気配が、彼女の周囲に静かに満ちていった。
「悲しまないで……安らかに――」
小さく、けれどはっきりとした声で闇巫女の祈りが、紡がれはじめる。
その瞬間。水族館全体が、わずかに軋んだ。
――それは、慰めを待っていたものが、気づいてしまった音だった。
ぎい、と音を立てて、水族館の扉が自ら開く。
にぎやかな音は、さらに近づいてくる。
まるで、彼らの到着を祝うように。
「……?」
僕は、思わず顔を上げた。
水の層の奥――アクア・プリズンのさらに外側から、微かな振動が伝わってきた。
音ではない。波でもない。意味を持った揺らぎだった。
水が、震えている。鎖ではない。檻でもない。この場所そのものが、呼吸するみたいに、わずかに緩んでいた。
――歌だ。
そう、直感した。
旋律は聞こえない。言葉もない。それなのに、胸の奥が、温かくなってきゅっと掴まれる。
すごく遠いんだ。だけど、確かに――知っている気配だった。
澄んだ流れのような声と、寄り添うもうひとつの響き。支えるようで、導くようで、決して押しつけない。
「……セリアン……ミラさん……?」
二人の名を口にした瞬間、喉の奥が、じんと熱を帯びた。胸の奥で、何かがほどける。
水の鎖が、かすかに揺らぐ。締めつけが消えたわけじゃない。重さも、冷たさも、まだそこにある。
けれど――“永遠”みたいに感じていたその圧が、ほんの一瞬だけ、時間の中に引き戻された。
息が、できる。
(前を向こう……何度でも)
僕は、大きく息を吸い込んだ。肺いっぱいに、水と歌の名残を取り込む。
ここにいるすべての青鮎記録師に届くように。水の底に沈んだ声を、無理やり引き上げるように。
「今――歌が、届きませんでしたか!?」
叫びは、水を震わせた。音ではなく、意志として広がる。
伏せられていた視線が、ひとつ、またひとつと持ち上がる。鎖に繋がれたままの身体が、わずかにこちらを向く。
「僕の仲間の歌です!」
言葉に、確かな熱を込める。水底が、ざわざわと揺れはじめた。
「ここまで、ちゃんと――届いた!」
「……俺にも……」
かすれた声。
「――届いたぞ!」
別の檻から、驚いたような息。さらに、重なる声。
「聞こえた……確かに……」
「歌、だった……」
一拍。
「僕たちは、生贄なんかじゃない!」
胸が痛むほど、叫ぶ。喉が裂けそうでも、構わなかった。
「僕たちは――祝われている!」
一瞬の静寂。
そして――
「おおおお――!!」
歓声とも、叫びともつかない声が、水底に溢れた。恐怖の裏返しだった感情が、ようやく出口を見つけたように。
水が、わずかに明るさを取り戻す。鎖は、まだある。檻も、開いてはいない。
それでも――歌は、確かにここに来た。
その事実だけが、絶望の底に、ひとつの足場を作っていた。崩れ落ちるしかなかった心に、「立ってもいい場所」を。
まだ戦いは終わっていない。
だがもう――誰も、ひとりではなかった。
――そして、パレードが始まった。
だが、それは――僕が夢で見たものとは、決定的に違っていた。
低く、重かった水の流れが、ふっとほどける。一定だった脈動が崩れ、代わりに、拍子が生まれた。
どこからともなく、音が鳴る。打楽器のような水音。泡が弾ける軽やかなリズム。
「……あれ?」
誰かが、戸惑ったように声を漏らす。
魔物たちが、動き出した。だが――整列ではない。命令でも、強制でもない。
鱗を持つ者は、くるりと身を翻し、触手を持つ者は、水を叩いて拍子を取る。複数の目を持つ魔物は、目を瞬かせながら、周囲を見回していた。
「……並ばなくて、いいのか?」
戸惑いが、笑いに変わる。
水の中に、旋律が流れ込んだ。
セリアンとミラの歌だ。水を媒介に、何層にも反響しながら、ここまで届いている。
「はは……なんだこれ」
「……足が、勝手に……」
誰かが一歩、踏み出す。それは、檻の中の青鮎記録師だった。鎖は、まだ外れていない。だが、足取りは――軽い。
魔物と、囚われた者。
本来なら、交わらないはずの存在が、同じリズムに揺れはじめる。
水が、光を帯びる。暗かった天井に、揺れる反射が踊りだす。
「……祭り、だ」
誰かが、そう呟いた。
生贄を運ぶための行進ではない。意味を消費するための儀式でもない。
生きている者が、生きているまま、進むためのパレード。
水底水族館は、今この瞬間、“鑑賞水槽”から――舞台へと、姿を変えつつあった。
そしてその中心で、誰よりも戸惑い、誰よりも強くその変化を感じ取っている者がいた。
――裏記録師、カルマ。
彼は、黒トンボの羽音を背に、そっと呟く。
「……書き換わった、か。風はこっちにも吹きはじめたね」
それはまだ、完全な勝利ではない。
だが確かに――世界は、別の可能性へと歩き出していた。




