146 警告しちゃった!?葛藤のカルマ!?
視界に、細かな波紋が差し込んだ。水の向こうで、何かが――静かに、だが確かに脈打っている。
床に残っていた波紋と、同じ……?
僕がまばたきをした、その刹那だった。
「……やっと、気づいた?」
声は耳に届かなかった。水圧でも、振動でもない。記録の“裏側”から、直接思考を撫でるような響き。
「……誰だ……」
僕が顔を上げると檻の外で、水の層が紙をめくるみたいに、すっとずれた。
そこに立っていたのは――少年だった。
青鮎記録師の装束によく似ている。
けれど、決定的に違う。輪郭が、わずかに滲んでいる。存在が、水に固定されていない。
それでも、その笑顔だけは――やけに見覚えがあった。
「ひどいなぁ」
少年は、肩をすくめて笑う。
「その夢、ちゃんと最後まで見てくれた?」
「カルマ……お前が……見せたのか……?」
名を呼んだ瞬間、少年の目が、ほんの一拍だけ細くなった。
肯定とも否定ともつかない沈黙。
次の瞬間、彼は少し照れたように、はにかむ。
「うん」
あまりにも自然な肯定。胸の奥で、何かがきしりと鳴った。
「安心して、セオト兄ちゃん」
水が、ざわりと揺れる。鎖が、わずかに軋んだ。
カルマは、檻の外から、軽く手を振る。
「まだ“本番”じゃないから。さっきのは――予告編」
軽い口調。だが、その背後で、水底が不気味にうねる。彼の周囲を、黒トンボが幾匹も舞っていた。羽音は小さいのに、思考だけを鋭く切り分けてくる。
「……セオト兄ちゃんと離れてさ」
カルマは視線を逸らす。その瞬間、瞳の奥に、別の色が滲んだ。
「ぐらついてた時があってさ。正直――」
黒トンボが一匹、彼の肩に止まる。何も告げない。ただ、そこにいる。
「こいつらがいなかったら、今ごろ……とっくに青鮎を“喰ってた”と思う」
喉が、わずかに鳴る。
「魔物ってさ」
カルマは笑おうとして、うまくいかなかった。
「怖い未来とか、壊れる可能性とか……そういうのが、甘い匂いに感じるんだよ。近づいて、触って、確かめたくなる」
指先が、無意識に水を掴もうとする。水が、形を持ちかけ――黒トンボの羽音が、それを断ち切った。
「……でも」
一歩、近づく。その瞬間、彼の足元が、現実から半分だけ消えた。
「兄ちゃんが壊れるところなんて、見たくない」
声が、少しだけ低くなる。
「それも……ぼくの本心」
魔物の衝動と、兄を慕う感情。どちらも嘘じゃない。だからこそ、苦しい。
「だから――」
カルマは、にっと笑った。その笑顔は、どこか必死だった。
「ちゃんと“選んで”よ。記録するか、しないか」
水が、重く脈打つ。
「次はさ……夢じゃないから」
「待って――!」
僕が手を伸ばした瞬間、カルマの姿は、水の裏側へと溶けた。残ったのは、胸の奥に焼き付いた理解だけ。
――あの悪夢は、警告だった。
――そして、それを見せたのは……。
「……カルマ……」
名前を呼んでも、返事はない。ただ、水の層の向こうで、裏側の記録が静かにページをめくった音だけがした。
……やっぱり、兄ちゃんは優しすぎる。
水の裏側。現実でも夢でもない、記録の“余白”。カルマはひとり、膝を抱えていた。
見せたのは、ほんの一部だ。本当は、もっと先まで知っている。もっと壊れて、もっと救えなくなる未来まで。
「全部見せたらさ……兄ちゃん、選べなくなるもんね」
小さく、笑う。裏記録師は、真実を隠す。優しさからではない。選択を成立させるために。
カルマは指先で水を弾く。そこに映るのは、未来の断片。檻。儀式。記録されるはずだった死。
「記録師協会の連中は、記録しなかった」
呟きは、どこか棘を含む。
「兄ちゃんは……たぶん、記録しすぎる」
だからこそ。
「間に立つ役が、必要なんだよ」
水の向こうで、セオト兄ちゃんが息を整える気配がする。まだ折れていない。まだ、選べる。
「大丈夫。兄ちゃんが壊れる前には――ちゃんと、もう一回会いに行く」
その時は、夢じゃない。檻の外でも、裏側でもない。
同じ“舞台”の上で。
そう、自分に言い聞かせるように、カルマは小さく息を吐いた。
裏側の記録が、静かに閉じられる。水の余白に、ページを伏せる音だけが残った。
次にページが開くとき――それは、選択の記録になる。
魔物としての衝動を耐えて、共存の世界を選ぶ。口にすれば簡単だ。だが、現実はそうはいかない。
恐怖。絶望。壊れかけた心。それらは魔物にとって、甘い匂いを放つ。喰えば、楽になれる。取り込めば、理解した気になれる。カルマは、それを知りすぎていた。
「……はあ」
喉の奥で、獣じみた息を押し殺す。
「簡単にできるなら……苦労しないんだよ」
黒トンボが、ゆっくりと円を描くように飛ぶ。その羽音が、衝動の縁をなぞるたび、カルマの意識は現実へ引き戻された。
拳を握りしめる。爪が、掌に食い込む。
「……それでもさ」
声は、震えそうになるのを必死に堪えていた。
「チャンスは、まだある」
誰に向けるでもない言葉。それでも、確かに“誓い”だった。
「あきらめちゃ……それまでだ」
水面に、一粒、雫が落ちる。
それは衝動の滴でも、魔物の餌でもない。選ぶことをやめなかった証――カルマの涙だった。
波紋は小さく、しかし確かに広がっていく。まるで、まだ壊れていない未来が、そこにあると示すように。
カルマは顔を上げる。
「……ぼく、みんなを守るよ。セオト兄ちゃん」
その声は、弱くない。迷いを抱えたまま、それでも前を向く声だった。
同じ“舞台”の上で。
次に開かれるページに、逃げないと決めた者の名が刻まれるまで。




