145 発狂しちゃった!?水底の悪夢!?
そして――カゲミたちの気配は、すべて遠ざかった。
足音も、声も、笑いも消え、劇場には再び静寂だけが残る。紫の壁飾りは息をひそめ、スポットライトもいつの間にか落ちていた。
クロムは、ひとり舞台の中央に立ったまま、誰もいない客席を見渡す。
「……青鮎たちを閉じこめるなら、あの檻がふさわしい……か……」
呟いた直後、言葉がふっと宙に落ちた。紫の装飾が、ほんの一瞬だけ――脈打ちを止める。
クロムは、それに気づいたようで、気づかなかったふりをした。
「……まあ」
喉を鳴らし、軽く肩をすくめる。
「私が下見に行ったくらいの檻だ。“ふさわしい”だろう」
独り言のように、そう付け足す。
「ん?」
一拍。
「なぜ、あの場所の“歴史”を知っていたんだったかな……?」
指先が、紫の壁に触れる。答えは、壁の向こうに沈んだままだ。
「……まあいい」
クロムは、笑った。
「今は独り舞台の構成が先だ――第一幕は、もう終わったのだからね」
いつもの調子。いつもの芝居がかった声音。だが、劇場は拍手を返さない。
紫の装飾は静まり返り、誰もいない舞台に、クロムの影だけが長く落ちていた。
「つまんないーっ!」
フレクシアが頬を膨らませ、紫の壁の縁をふわりと漂う。
「どうして素直に教えちゃったの、おじさん! もっと引っぱれるでしょ?」
その声に、クロムは一度だけ目を伏せた。
「素直、だと?」
口元に浮かべかけた笑みが、途中で止まる。
「小魚く……」
言いかけて、飲み込む。
「……いや。セオトは、記録者だ」
肩をすくめる仕草は、いつもと同じ――だが、声の調子だけが、微かに違っていた。
「私はね、“記録しなかった側”だからさ」
軽く言ったつもりの言葉が、劇場の空気に沈む。
「見て、知って、舞台にして」
指先で、虚空に線を描く。
「それで――救われなかったものを、山ほど抱えたまま……」
笑っている。
だが、その視線は、誰もいない客席のさらに奥を見ていた。
ふっと、息を吐く。
「……まあ」
言いかけて、首を振る。
「今さら語る話でもないか」
一拍置いて、いつもの調子が戻る。
「それから――」
クロムは、ぴしりと指を立てた。
「おじさんと呼ぶな」
「えー?じゃあ、なんて呼べばいいの?」
フレクシアが楽しそうに目を細める。
「“支配人”でいい」
即答だった。
紫の劇場に、また芝居がかった空気が戻る。
だが、さっき漏れた言葉だけは、舞台袖に残ったままだった。
それは、祭りの準備だった。
水底の広間に、淡い光が灯る。
天井から垂れ下がる水晶状の装飾が、ゆっくりと回転し、波紋のような影を床に落としている。
音楽はない。代わりに、水が脈打つ音だけが、一定の間隔で響いている。
その中央に――青鮎記録師たちが、並べられていた。
一本一本、置かれた位置は違う。
だが全員が、同じように水の鎖で繋がれている。手首、足首、胸元。鎖は金属ではない。水そのものが形を持ち、彼らを縛っていた。
「……っ」
僕の喉から、声にならない音が漏れた。
彼らは、生きている。目は開いている。呼吸もある。だが、その視線は――どこも見ていなかった。
「や……めろ……」
足が、勝手に前へ出そうになる。だが、アクア・プリズンの水が、それを許さない。
青鮎記録師のひとりが、かすかに身じろぎした。その瞬間、水の鎖が、きゅ、と締まる。
「っ……!」
声が、潰れた。
――それを合図にしたかのように。広間の奥で、水が盛り上がる。
魔物たちが、現れた。
鱗を持つもの。触手を揺らすもの。複数の目で、同じ一点を見つめるもの。
彼らは、何の感情も示さず、整然と並び始める。それは、明らかに――パレードだった。
「……生贄……?」
言葉が、頭の中で割れる。
水の流れが、変わる。
青鮎記録師たちを繋ぐ鎖が、一本の大きな円を描き始めた。まるで、舞台の中央に“意味”を集めるかのように。
「やめろ……やめろやめろやめろ……!」
声が震え、裏返る。
記録者の目は、見てしまう。見たものを、繋げてしまう。意味を、因果を、未来を――勝手に。
これは、儀式だ。
これは、消費だ。
これは――記録される前提の死だ。
「違う……っ」
僕は頭を抱えた。
「こんなの……記録じゃない……!」
青鮎記録師のひとりが、ゆっくりと僕の方を向いた。その目に、一瞬だけ焦点が戻る。
口が、動いた。
――たす、け……
それだけだった。次の瞬間、水の鎖が強く光り、声は波に溶けた。
「ぁ……あ……」
僕の視界が、歪む。光がにじみ、音が遠のく。
記録したくない。だが、忘れられない。逃げたいのに、目が逸らせない。
「やめろ……!」
叫びは、水に吸われる。
「見るなって言うなら……! 記録するなって言うなら……!」
膝が、崩れ落ちた。発狂する――その寸前。
水底で、パレードは静かに進行する。誰にも祝われず、誰にも止められず。生贄を、未来へ運ぶために。
「おい新米、しっかりしろ! 俺たちは終わっちゃいねぇぞ!」
水が、弾けた。
――違う。
弾けたのは、水ではなく、意識だった。
「……っ!」
僕は、息を吸い込んだ。強く、乱暴に。肺が痛むほど。
視界が白く揺れ、次いで、淡い青に戻る。
檻の中。水の層。アクア・プリズン。
水の鎖も、魔物も、祭りの広間も――すべて、消えていた。
「……は……?」
声が、掠れる。左手で胸元に手を当てる。心臓が、早鐘のように打っていた。額から、冷たい汗が伝い落ちる。
「……夢……?」
そう口にした瞬間、否定が胸に突き刺さる。
夢にしては、重すぎる。細部が、はっきりしすぎている。水の鎖の冷たさ。「助けて」と動いた口元。あの視線。
「寝ぼけてんじゃねぇ!兄ちゃん! 夢も希望もあるんだろ!」
どうやら隣の檻から怒鳴られていたらしい。その声で、現実の感覚が戻ってきた。
僕は、ゆっくりと周囲を見渡す。
同じように囚われている青鮎記録師たち。みんな、それぞれの絶望と、必死に戦っている。
床に、薄い波紋が残っていた。
「……ただの、悪夢だ……」
自分に言い聞かせるように呟く。
だが、夢の最後に掴んだ“理解”だけが、頭から離れない。
――これは儀式だ。
――記録される前提の死だ。
僕は目を閉じた。
記録者の夢は、ただの幻想ではない。未来の可能性が、形を取ることがある。
水の向こうで、何かが、静かに脈打つ。
まだ、起きていない。だが――起き得る。
僕は、震える指を握りしめた。
「……二度と……」
小さく、しかし確かに、言い切った。
「絶対に……あんな記録は、させない……」




