144 演出しちゃった!?クロムの独り舞台!?
紫のレリーフが、鳴った。
それは、音ではなかった。振動でもなかった。まるで――拍手の“直前”だけを切り取ったような気配だった。
次の瞬間、壁一面に刻まれていた紫の渦模様が、ゆっくりと逆回転を始めた。彫刻だったはずの曲線が、ぬるりと浮き上がり、重なり、ほどけていった。
「ほええ、壁……溶けてきてるホン!?」
「溶けてない溶けてない。これ多分……演出よ」
エイミが息を潜めるように笑む。マモリは、短くため息をついた。
ふと気づくと――窓が、なかった。
「あれ?」
エイミが足を止める。
「……さっきまで、ここに窓があったわよね」
答える間もなく、ロビーの明かりがすべて落ちた。
――闇。
「ちょ、ちょっと真っ暗だホーン!」
ホンホンの声が、暗闇に弾む。床も壁も、天井すらも溶けたように感じる、完全な暗転。自分の指先さえ見えない。
そのとき。
カチリ。
舞台照明のスイッチが入るような音がした。闇の中に、ひとつだけ窓が出現する。
「……窓?」
マモリが目を凝らす。全員の視線が、そこに吸い寄せられた。
次の瞬間。
その窓から差し込んだ光が、異様なほど強く、鋭く弾けた。
「ま、まぶしい!」
「め、目つぶしだホンホン!」
「犯人はお前か!?」
光は一直線に、ロビー中央を照らし出す。それはもはや採光ではなく、完全なスポットライトだった。
照らされた空間の中心で、壁と床が、きしむように音を立てる。
紫のレリーフが、光の中で浮き上がった。
「ク……フフ。私を呼んだかい?」
レリーフから、笑い声。拍手が始まる直前の、あの“間”をたっぷりと取って、語りかけてくる。
「暗転からのスポット――いい反応だね」
光の中で、レリーフがほどける。
「スタンディングオベーションの出迎え、ご苦労。ようこそ、我が劇場へ。――ああ、拍手はいらない。まだ“途中”だからね」
石が剥がれ、影が肉を得ていく。“登場のポーズ”だけを完璧に決めた男が、そこに立っていた。
「改めて――」
男は、深々と一礼する。
「我が名はクロム・リーフ。当劇場の支配人であり、ファントムでもあり、そして!……少々、壁と一体化しすぎた元・記録者だっ!」
紫の装飾が、歓声のように脈打った。
「なんだこれ……うざ……」
カゲミが、心底うんざりした声で言う。
「フフ、最高の褒め言葉だ」
クロムは満足げに微笑んだ。
「カゲミちゃん、これは演出なのよ。だいじょぶ、次第に慣れてくるからね」
「エイミ……慣れるのは無理だ」
スポットライトは消えない。まるで、彼がそこに立つ限り、幕は下りないと言わんばかりに。
「おじさん、気が済んだ?」
その声は、スポットライトの外――空間の“奥”から、にじむように響いた。
「しばらくぶり! 禁書とタクミくんの両親! それから……闇巫女は、はじめてだね!」
紫の光とは別の、淡い水色の揺らぎが空中に滲み出す。
やがてそれは、人の形を結び――不気味な笑顔を浮かべたまま、フレクシアが姿を現した。
……ただし。
足元が、床と重なっていない。身体の輪郭が、向こう側の景色を透かしている。
「え? フレクシアちゃん……透けてない?」
一歩近づき、慌てた声を上げたエイミが目を瞬かせる。
「どうしちゃったの!?」
「よくぞ聞いてくれました!」
フレクシアは胸を張る――が、その動きもどこか現実感がない。
「シオマにやられちゃってね!今はもう、アクア・スパイラルの一部みたいなもんになってる? かな?」
「えええええ!? かな?じゃないホン!!」
ホンホンの悲鳴が、ロビーに響いた。
「なんか……さらっと重いこと言うね」
カゲミがこめかみを押さえる。
そのとき。
「登場シーンに水を差すな」
クロムが、ぴしりと言い放った。スポットライトの中央で、腕を組み、不満げに睨む。
「それと――」
一拍。
「おじさんと呼ぶな」
一同、ポカーン。
「えー? はいはい」
フレクシアは首を傾げ、くすりと笑う。
「じゃあ、“壁と一体化しすぎた元記録者さん”? 長い?」
「長いわ!」
エイミが即座に突っ込んだ。
紫と水色の光が、ロビーで交錯する。主役が増えた――どころではない。
空間そのものが、舞台装置になり始めていた。
「クロム、単刀直入に言う」
マモリが一歩前に出る。スポットライトの縁に立ち、真正面からクロムを見据えた。
「セオトが、何者かに攫われた」
一拍。
「お前、居場所に心当たりがあるだろう」
ロビーの空気が、ぴたりと張りつめる。
クロムは、すぐには答えなかった。大げさに顎に手を当て、首を傾げる。
「はて……?」
その声は、どこまでも軽い。だが次の瞬間、床に走る紫の模様が、きゅ、と締まった。
「小魚くんを捕らえるとするならば……!」
クロムの目が、愉快そうに細められる。両腕を広げ、観客に問いかけるように声を張った。
「舞台はどこがふさわしいか。 誰が、主役で。誰が、裏方で――」
「うわ……始まった」
カゲミが小さく呟く。
照明が、わずかに明滅する。紫と水色の光が絡み合い、ロビーは完全に“舞台”の顔を見せ始めていた。
ああ――クロム劇場が、始まる。
「んもう! さっさと教えなさい!」
ビシッ!
鋭い水の気配が走り、エイミの一声がクロムの動きを完全に止めた。紫のスポットライトが、ぴたりと静止する。
「……」
クロムは一瞬、言葉を失った。水巫女、つよ……!
「クッ……クライマックスまで時間がかかるから、先に教えよう」
咳払いひとつ。さっきまでの芝居がかった調子が、少しだけ剥がれる。
「今は使われていない水底水族館だな。青鮎たちを閉じこめるなら、あの檻がふさわしい……」
ロビーに、短い沈黙が落ちた。
「あら、そうなの」
エイミがあっさりと言う。
「じゃ、またね~」
くるりと踵を返し、手をひらひら振る。
「行きましょ!」
その一言で、全員が動いた。誰ひとり、クロムを振り返らない。
「え、ちょ、ちょっと!?エイミ! 第一幕、まだ途中なのだぞ!?」
背後からクロムの抗議が飛ぶ。
だが、スポットライトは追いかけてこない。
こうして――クロム劇場は、最速で幕を下ろされた。




