142 許されちゃった!?金の豚の祝福!?
「俺は――」
言葉が、喉で一度とまった。泉の底で、金貨が静かに触れ合う音がする。数えられる音。待っている音。
セリアンは、ミラをじっと見つめた。
迷いも、焦りも、全部そこにあった。でも――できることは、ひとつしかない。
ミラは何も言わず、ただ小さくうなずいた。それだけで、十分だった。
「俺は――歌うよ」
声は思ったよりもはっきりしていた。
「歌うことで、世界を記録する」
一歩、泉の前へ出る。
「願いを数にしない。沈めない。流れとして残すんだ」
息を吸う。草原の風。町の気配。遠くの鐘楼。
「変えるんだ。この世界を」
最初の音は、静かだった。セリアンの歌声が、泉の上に落ちる。水ではない“水面”に、波紋が広がる。
続いて、ミラが声を重ねた。導くように、包むように。
旋律は絡まり、ひとつの流れになる。
――ちゃり。
金貨の音が、変わった。数える音ではない。拍だ。リズムだ。
泉の底で、金貨がゆっくりと揺れる。沈んだままなのに、重さがほどけていく。
光が金色でも銀色でもない色に、にじむ。
丘の向こうで、金の豚の鐘が朝日を受けた。笑っているその顔が、いっそうやわらかく見える。鳴らされていないのに――確かに、響いていた。
コトノは、泉の縁に腰掛けたまま動かなかった。
いつもなら、指先は自然と動き、唇は数を刻む。――けれど今は、どちらも止まっている。
初めてだった。
数を数えずに、ただ耳を澄ませている。
歌が、流れていく。泉の上を、丘を越え、町へ向かって。
かつて願いだったものが、物語になる。沈められた声が、ひとつひとつ拾われ、旋律として編まれていく。
「……ありがとう、吟遊詩人さんたち」
コトノの声は、数えるときの響きではなかった。名を呼ぶための、声だった。
「純粋な願いだわ」
言葉が終わるより先に、雫が落ちた。金でも、水でもない。数にできないものが、頬を伝い、泉の縁に落ちる。
――ちゃり。
金貨が鳴った。けれどそれは、もう数える音ではない。歌に、応える音だった。
風が戻る。草原がざわめき、遠くで町の音が重なり合う。
世界が、ゆっくりと息を吹き返していく。
――それは、合図だった。
願いを沈める世界が終わり、歌で記録される世界が、動き出す。
この世界が、明るく変わりはじめる――その、最初の瞬間に変わったのは、重さだった。
泉の底で、金貨がもう沈もうとしなくなった。触れ合っても、数える音を立てない。代わりに――水のように、揺れる。
ちゃり、ではない。
ごと、でもない。
しゃらん……。流れが、息をする音。
コトノは、思わず胸に手を当てた。
「……ああ」
それは、彼女が何百年も聞けなかった音だった。数に変わる前の、気持ちのままの音。
金貨が、ひとつ、またひとつ、淡く光る。――いや、光っているのは、金ではない。
内側に閉じ込められていた“欲”が、ほどけていく。欲望は、消えていなかった。ただ、癒されていた。
泉の水が、確かに戻る。金は、水へ。欲は、祈りへ。
――声が、重なる。
誰の声でもない。それでも、はっきりと伝わる。
「助けたい」
「助けなきゃ、じゃない」
「生きてるだけで、もう十分だった」
セリアンは、喉の奥が熱くなるのを感じていた。
歌っているのは、自分たちのはずなのに――世界のほうが、先に声を出していた。
ミラが、静かに歌を重ねる。祝詞でも、命令でもない旋律。
すると、泉が答える。
「青鮎の意識を持つことは、悪じゃない」
「ただ生まれた。流れた。生き抜いただけ」
水の中で、金貨が完全に溶ける。形は残っている。だが、それはもう“数えるもの”ではなかった。
祝福の粒だった。
コトノの頬を、涙が伝う。
「……欲は、罪じゃなかったのね」
彼女の足元で、水が跳ねる。
「欲は、向きが迷っただけ」
「流れを思い出せば、祝福になる」
その瞬間――泉の中心から、ひときわ強い流れが立ち上がった。
金でも水でもない。運だ。奪う運ではない。
分け与える運。
祝祭の町トロワルから、水路を辿り、地下を巡り、記録の網を越えて――遠く、水底水族館へ。
囚われた青鮎記録師たちのいるアクア・プリズンの底で、水が澄む。
苦しみは消えない。戦いも終わらない。それでも――
「戦ってる記録師たちを、祝おう」
水が、そう振る舞った。
「……たくさんの想いが祝福を届けてくれてる」
囚われた左手に、流れが集まる。青鮎の記録が、拒絶されずに、肯定される感覚。
それは救出ではない。だが、僕たちにとって確かに救いの水だった。
泉の前で、セリアンとミラの歌が、最後の和音を結ぶ。
金の豚の鐘が、陽を受けて輝く。
相変わらず、間の抜けた顔で――だが今は、欲張りな笑顔ではなかった。
金貨の泉には、もう金貨は無い。澄んだ水だけが、静かにたたえられている。
欲望は、癒された。金は、水へ戻った。世界は、祝うことを思い出した。
祝祭の昼。
色布が風に揺れ、人々は集まっていた。笑っている。踊っている。杯も回っている。
それなのに――鐘楼の前だけが、静かだった。誰も、綱に手をかけない。
トロワルでは、昔からそうだった。金の豚の鐘は「鳴らすもの」ではない。鳴ってしまうものだった。
セリアンは、群衆の中で立ち止まる。胸の奥で、水が満ちる感覚がした。
「……師匠」
ミラは、すでに鐘を見上げていた。
「うん。来てるね」
鐘楼の上。
巨大な金属の豚は、陽を受けて輝いている。丸い腹。短い脚。間の抜けた笑顔。
――けれど今、その笑顔は。
もう欲しがっていない。セリアンは、気づいた。
この鐘は、金を求めていない。願いを集めてもいない。
もう――充分に足りている。
風が、吹いた。草原から。泉のあった丘から。
流れが、ひとつになる。
ミラが、歌い出した。声は低く、深く、土に近い。
セリアンが重ねる。ミラの流れをなぞる歌を。
言葉はない。命令もない。あるのは、ただ――祝う音。
最初に鳴ったのは、鐘ではなかった。一人ひとりの胸だった。
誰かが、涙を拭う。
誰かが、隣の手を取る。
誰かが、黙って空を見上げる。
「……もう、許されていいんだな」
誰かが、そう呟いた。
その瞬間。
――カン。
鐘楼が、震える。綱は、誰も引いていない。金の豚が、初めて完全に鳴った。
ゴォォォン――。
重い。深い。だが、どこまでもやさしい音。音は、空へ上がらない。地面へも沈まない。
世界に、響きながら染み込む。
欲しかったもの。守れなかったもの。間違えた選択。数えきれない後悔。すべてを否定せず、すべてを肯定もしない。
金の豚の笑顔が、わずかに変わる。欲張りな笑みではない。誇らしげでもない。満腹の笑顔だった。
町の子どもが、声を上げる。
「鐘が……鳴ったね」
年老いた羊飼いが、帽子を取る。
「初めてだ……祝いの鐘の音は」
鐘の余韻が、遠くへ広がる。
ミラが、セリアンの肩に手を置く。
「これでいい。セリアン、お手柄だよ」
「師匠のおかげです。これで――流れは変わる」
セリアンは、うなずく。
金の豚の鐘は、もう欲しがらない。泉は、数えない。世界は、祝うことを思い出した。
そしてこの祝祭は、勝利の鐘ではなく――満ちた音として、記録されることになる。




