141 願っちゃダメだった!?金貨の泉のコトノ!?
泉の縁に立つと、風の音が急に遠のいた。草原のざわめきも、町の気配も、ここまでは届かない。
円形の石組みの底に、金貨が沈んでいる。数え切れないほど――いや、「数えられる」ほど、きちんと。
ミラが、泉を見下ろしたまま口を開いた。
「どうして金貨の泉が、寂れてしまったのかわかるかい?」
セリアンは、首を振る。喉が、うまく鳴らなかった。
「ここはね、旧巡礼路だったんだ」
指先が泉の縁をなぞるミラの声は穏やかだった。
「旅人が祈り、立ち止まり、また歩き出す場所」
「金貨を水に浮かべて願い事をすると……」
一拍、間を置く。
「対価として、その金貨が沈む」
セリアンは、息を吸った。
「……願いと引き換えに」
「そう」
ミラはうなずく。
「水は、願いを運ぶ。記録は、それを留める」
泉の底で、金貨が微かに触れ合う。
――こつ。
ミラの声が、わずかに低くなる。
「でもね。ここは――水と記録が、近すぎた」
セリアンは、胸に冷たいものが落ちるのを感じた。
「欲望は、果てしない。願いは、尽きない。それなのに――」
ミラは、泉を見つめたまま続けた。
「対価を払うのを、拒んだ者たちがいた」
風が、ひと吹き。だが、泉の水面は揺れない。
「願いは欲しい。でも、沈むものは惜しい。 流れず、手放さず、数だけを増やした」
静かに、結論を置く。
「……その結果が、これだ。……彼らは、ここに眠っている」
セリアンの背筋を、ぞくりと何かが走った。
眠っている――金貨の形で。
ミラが、振り返った。
「君は、すごろくとはいえ……ここに、金貨を大量に積んだ」
セリアンは、無意識に拳を握りしめる。
「見てごらん、この金貨たちを」
ミラは、泉の底を示した。
朝の光を受けて、金属が鈍く輝く。どれも、整然と沈んでいる。まるで――順番を待つように。
「これは、富じゃない。救われなかった願いの、残骸だ。ここは“助けて”を、数に変えて記録する場所だ」
「……だったら!この泉に――セオトを助けてって願えば……!」
泉に一歩、近づく。思わず、声が大きくなる。
――こつ。
言い切る前に、金貨がひとつ鳴った。
セリアンは、凍りついた。ミラはすぐには答えない。ただ、セリアンの肩に手を置く。
「……願えるよ。この泉は、今でも願いを聞く」
静かな声。そして、はっきりと言った。
「でもね、セリアン。ここは“助けて”を、数に変える場所だ。多くの者が金貨になったよ」
――こつ。また、ひとつ。
「助けたい気持ちを。焦りを。恐れを。 ――忘れるな」
泉は、黙って待っていた。水でもなく、声でもなく。セリアンの前で。
風が止む。草原のざわめきが、一歩引いたように消えた。
――こつ。
泉の底で、金貨が動く。水水のない水面が、ゆっくりと波打った。
「……何も言ってないのに!?」
波紋の中心から、淡い光が滲み出す。金色でも、銀色でもない。夕暮れと朝のあいだのような、名前のない色。それは、形を持たないまま立ち上がる。
やがて――子どもの背丈ほどの、細い影が、泉の縁に腰掛けた。
人のようで、人ではない。輪郭は揺らぎ、足元は金貨のきらめきに溶けている。
「忘れられた泉へようこそ。吟遊詩人さんたち」
声は、耳ではなく――数を数えるときの感覚に近かった。
「あなたたちは、願うの?」
影が、首をかしげる。
「この泉に――」
セリアンは、言葉を失った。喉が、乾く。
「……精霊?」
かろうじて絞り出した声に、影はくすりと笑う。
「そう呼ぶ人もいるね。ここでは、“数え役”とか、“沈め役”とか……」
精霊は、ひと呼吸おいて続けた。
「言葉が、数になる前の名は――コトノ」
コトノは、泉を見下ろした。
「わたしは、この泉に住まうもの。沈んだ願いを、忘れないもの」
――こつ、こつ。
彼女の動きに合わせて、金貨が応える。
「ここはね。願いを叶える場所じゃない」
ミラが、静かに口を開いた。
「……この泉は、流れを止めた場所だ。だから、声ではなく、数で聞く」
コトノは、うなずく。
「そのとおり。水だったころは、流せたもの。でも、金になった瞬間、流れは止まったのよ」
――こつ、こつ。
風もないのに、泉の底で金貨がわずかに触れ合う。
セリアンは、喉を鳴らし、隣に立つミラを見上げた。
「……師匠。どうすればいいんでしょう」
声は、思ったより静かだった。
願いを口にすれば沈み、黙れば数えられる――そんな場所で、答えを急ぐこと自体が、もう間違いな気がしていた。
ミラはすぐには泉を見なかった。代わりに、丘の向こう――鐘楼のある方向へ、顎をしゃくる。
「あの、金の豚の鐘の文様……見たかい?」
「はい」
思い出す。丸く間の抜けた姿。その内側の、異様なまでの精緻さ。
「細かい細工が、びっしり施されていました」
「でも……反射光に飲まれない。ただ、光を抱えてるみたいで」
ミラは、満足そうに目を細めた。
「そう。それだ」
「古代の成金が作ったにしては、ずいぶん凝っているよ」
ひとつ、指を立てる。
「だがね――金が好きなのは、はっきり伝わる」
コトノが、すこしだけ首をかしげた。
「……続けて」
ミラは、泉へ視線を戻す。
「あの鐘はね」
静かに、確かめるように言った。
「鳴らしちゃいけない鐘なんじゃないのかな?」
空気が、ぴんと張りつめる。
「願いを集めるためでも、希望を増やすためでもない――満ちたら、止めるための鐘だ」
セリアンは、息を呑んだ。
「……止める?」
「そう」
ミラは、泉と鐘を見比べる。
「これ以上、金を積ませないために。これ以上、願いを沈めさせないために」
――こつ、こつ。
肯定の数え音。
コトノが、静かに拍手するように指を鳴らす。
「ご明察です。あの鐘は、『もう十分だ』と告げるための鐘なの」
微笑むが、どこか疲れた表情で。きっぱりと言った。
「願いは、止まります。金は、増えない。数える音も、終わり」
ミラは、静かに息を吐いた」。
「だから、町では“祝祭の鐘”としてしか鳴らさない。欲ではなく感謝で満たすだけ」
コトノは、泉を見下ろす。
「欲深い者なら鳴らす勇気はないでしょう。どうなったのか、知っているから……」
セリアンは、無意識に拳を握った。コトノは、そんな彼を見つめて、やさしく告げた。
「吟遊詩人さん、この泉も、あの鐘も。君の“選択”を数える場所」
風が吹いた。丘の向こうで、金の豚が、太陽を受けて――相変わらず、笑っていた。
「――俺は……」




