140 朝がきちゃった!?トロワルの祝祭の日!?
(ね、ねむい……こんなことなら、鐘まで散歩しておけばよかった……)
セリアンは、半分閉じた目のまま、ゆっくりと身を起こした。
祝祭の朝がやってきた。窓の外は、もう明るい。朝の光がカーテン越しに差し込み、金色の埃を空中に浮かび上がらせている。丘を渡る風は冷たさを失い、どこか甘い匂いを運んできた。
パンが焼ける匂いだ。
それに混じって、人の声。笑い声。足音。町が、目を覚ましつつある。
「……もう朝……だと……」
喉から、情けない声が漏れた。ソファの上で、身体をひねる。毛布はいつの間にか床に落ちていた。首も肩も、微妙に痛い。
「……うぅ……」
ぼんやりと視線を上げると、ベッドの方はすでに空だった。
「……師匠?」
返事はない。代わりに、部屋の隅から小さな物音がした。
ちゃり。
金属が触れ合う音。セリアンは、はっとして振り向く。
机の上に置いたはずの鍵――スマイル豚が、朝の光を浴びて、やけに輝いていた。
……気のせい、か。そう思った瞬間。
「おはよう」
背後から、すっきりとした声。
「うわっ!?」
セリアンは思わず飛び上がった。振り返ると、ミラが戸口に立っていた。もう外出の支度を済ませている。髪はきちんと結われ、いつもより少しだけ、町の祝祭に溶け込む装いだ。
「し、師匠……早くないですか」
「祝祭の日はね、朝が勝負なんだよ」
楽しげに言いながら、ミラは部屋を見渡す。
「ちゃんと寝られた?」
「……それ、聞きます?」
セリアンは目をこすり、ため息をついた。
「鐘の音も聞こえなかったし、夢も見ないし……変な夜でした」
「ふふ。そういう夜ほど、あとで効いてくる」
「効いてくる?」
「記憶とか、流れとか」
意味深な言い方だった。
外では、すでに飾り付けが始まっている。色布が風にはためき、通りには花びらが撒かれていた。遠くから、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。
「今日は鐘が鳴る」
ミラは窓を開ける。朝の風が、一気に部屋へ流れ込んだ。
「鳴れば、笑いと実りが来る日だ」
セリアンは、無意識に胸に手を当てた。
……鳴る。あの鐘が。そして――泉も。
理由はわからない。ただ、確信だけがあった。
「……行きましょう、師匠」
思ったより、声はしっかり出た。
「うん」
ミラはにっこり笑う。
「まずは朝ごはん。そのあと、町を一周だ」
「一周ですか?」
「祝祭の空気に、ちゃんと触れておかないとね」
セリアンは立ち上がり、鍵をポケットに入れた。スマイル豚は、今朝も変わらず笑っている。だが、その重みは、昨日より少しだけ増した気がした。
トロワルの朝は、もう動き出している。――笑いと実りの音が、鳴る前に。
朝市は、にぎやかな音から始まっていた。
鍋を叩く音。パンを切る音。笑い声と呼び声が、風に乗って交差する。
「焼きたてだよー!」
「風占いはどうだい、今日は大当たりさ!」
「鐘が鳴る前に、果実酒を一本どうだ!」
通りに一歩足を踏み入れた瞬間、セリアンは目を見開いた。
「……すごい活気ですね。さすが祝祭の朝だ」
「でしょ」
ミラは楽しそうに歩きながら言う。
「この町はね、祝祭の日になると“心配”を全部外に出すんだ。だから、音も匂いも、こんなに賑やかになる」
露店には、色とりどりのパン、干し肉、蜂蜜漬けの果実、風車の形をした飾り物。子どもたちは豚の仮面をかぶり、走り回っている。
――どこもかしこも、笑顔だ。
それなのに。
セリアンの胸の奥では、水面がわずかに揺れていた。
「……ねえ、師匠」
「うん?」
「この町、元気なのに……静かじゃないですか」
ミラは足を止め、セリアンを見る。
「いいところに気づいたね」
そう言って、露店の一角を指さした。
そこには、小さな木の台があり、古い鐘の欠片が布の上に並べられていた。売り物というより、供え物のようだ。
「この町の人たちはね、“全部は笑わない”」
「……?」
「笑えない日があったことを、忘れないために」
その言葉が、胸に残る。
遠くで、低く――
ゴォン……。
風に触れた鐘楼から、かすかな音が流れてきた。
「……今の」
「試し鳴らしだね」
ミラは空を見上げる。
「行こう。鐘楼へ」
鐘楼へ続く道は、町の中心からゆるやかな坂になっていた。
丘を登るにつれ、音が変わる。市場の賑わいは背後に遠ざかり、代わりに風の音が前に出てくる。
草をなでる音。布を揺らす音。そして、金属が呼吸するような、重たい気配。
「……でかっ」
思わず、セリアンが呟く。鐘楼は、想像以上だった。
石造りの塔の中央に、吊られた巨大な豚の鐘。金属でできたその姿は、陽を浴びて鈍く輝いている。丸い腹、短い脚、そして――確かに、笑っている顔。
「なんだこのブタ!?」
思わず吹き出す。
「ははっ、そう来ると思った」
ミラも笑う。
だが、次の瞬間。
――ゴォン。
空気が、震えた。
鐘が鳴ったわけではない。ただ、風が鐘の縁を撫でただけ。それなのに、音は深く、長く、胸の奥まで届いた。
セリアンは、息を呑む。笑えなくなった。
「……すごいな」
隣を見ると、ミラの表情が、やわらかく緩んでいる。目を閉じ、音を受け止めるように。
「……音って、不思議ですね」
セリアンは、静かに言った。
「水みたいに……心を洗ってくれる」
ミラは、ゆっくりとうなずく。
そのとき。
「そうさね」
背後から、しゃがれた声。振り向くと、鐘楼の脇に腰掛けた老女がいた。手には、小さな鈴。
「この鐘はね、絶望した人の耳には“泣いてるように聞こえる”のさ」
「……泣いてる?」
「そうじゃ。じゃがな」
老女は、にっと笑う。
「泣き声に聞こえるうちは、まだ大丈夫。何も聞こえなくなったら……それが一番怖い」
セリアンは、無意識に鍵を握りしめていた。スマイル豚が、手の中で冷たい。
「……しっかり受け止めました。ありがとうございます」
頭を下げると、老女はもう鐘を見上げていた。その背中が、やけに小さく見えた。
鐘楼を離れ、丘の裏手へ回る。人の気配が、急に薄れる。
「……こっち、ですか」
「うん」
ミラの声も、自然と低くなる。
草を踏み分け、岩場を越え、風の音だけが残る場所へ。
そこに――あった。円形の石組み。ひび割れた縁。水は、ない。
だが、底には――きらり。
朝の光を受け、いくつもの金貨が静かに横たわっていた。
「……金貨の泉」
喉が、ひりつく。水音はしない。けれど、確かに“流れ”はあった。見えない水が、記憶の奥を撫でる。
「……呼ばれてる気がします」
セリアンは、一歩、前へ出た。
「忘れたいのに……忘れられない。ここに、置いてきた記録がある」
ミラは、止めなかった。ただ、少しだけ距離を取る。
「ここから先は、君の流れだ」
風が吹いた。金貨が、わずかに音を立てる。その音は、鐘とも、水とも違う。
――数えられる音。
記録されるはずのなかった、記録の始まり。トロワルの祝祭は、まだ始まったばかりだった。




