139 泊まっちゃった!?金の豚部屋!?
「食事の前に、部屋を見てこようよ」
ミラが楽しげに言い、カウンターを指でとん、と叩いた。
「はいよ。二階の突き当たりだ。――『金の豚』の部屋」
宿の親父は、にやりと笑って鍵を差し出す。
「いい鍵だろ? なくすんじゃねえぞ」
受け取ったセリアンは、思わず手元を覗き込んだ。鍵の持ち手は、にこりと笑う豚の顔。丸みのある金色の意匠が、ずっしりと指に馴染む。
「……親父さん。この意匠は?」
「この町の職人さ」
恰幅のいい腹を誇らしげに突き出し、親父は語る。
「鐘は代々伝わってきたもんだがな、伝統の鋳造所があってよ。そこの特注品だ。泊まるなら、ちっとは縁起を担がねえとな」
「なるほど……」
セリアンは鍵を見つめ、なぜか胸の奥が小さくざわめくのを感じた。
――金の豚、か。
二階の廊下を進むと、床板がきしりと鳴る。突き当たりの扉には、木彫りの豚がぶら下がっていた。やはり、笑っている。
「ここだね」
ミラが鍵を回す。
扉が開いた、その瞬間。
「……な、な、な……!?」
思わず声が裏返る。
部屋の中央に、堂々と鎮座していたのは―― ベッドが、ひとつ。
一瞬の沈黙。 窓から差し込む夕陽が、金色の寝具をやけにまぶしく照らしていた。
「……あ」
ミラが一拍置いて、くすっと笑う。
「相部屋って、こういう意味だったんだね」
セリアンは、鍵を握ったまま固まっていた。スマイル豚が、やけに楽しそうに見えた。
「親父! ベッドがひとつなんだが!?」
階下へ駆け下り、セリアンは思わず声を張り上げた。
「ガハハハ!」
宿の親父は腹を揺らして豪快に笑う。
「悪ぃな! 祝祭前で満室なんだ。予備の寝具も全部使っちまってよ」
大きな手をひらひらさせる。
「ひとつあれば、十分だろ?」
……。
言葉が、喉の奥で詰まった。祝祭前、満室、予備なし。理屈はわかる。わかるが――
「よ、よくない!!」
セリアンは真っ赤になって食い下がる。
「せめてソファでいいから! 俺、床でも――!」
「床ァ?」
親父は目を丸くしてから、また笑った。
「はっはっは! この町じゃ、床寝は縁起が悪ぃんだ。明日は『希望の鐘』の日だぞ?」
「縁起……?」
「そうだ。寝床を分けると、運も割れちまうってな」
セリアンは、がくりと肩を落とした。
「……そんな迷信まで……」
その背後で、ミラは口元に手を当て、くすくすと笑いをこらえている。
「ふふ、大丈夫だよ。鐘が笑ってくれる町なんだし」
セリアンは振り返り、弱々しく抗議した。
「師匠、笑ってる場合じゃ――」
「さ、夕飯が冷めるぞ!」
親父の一声が、会話をばっさり切る。
「金の豚部屋は人気なんだ。ありがたく使いな!」
逃げ場は、なかった。階段を上りながら、セリアンは思う。
――この町、やけに試練が多くないか?
ポケットのスマイル豚の鍵が、からんと小さく鳴った。
夕食を終え、二人は「金の豚」部屋へ戻った。
木の床には、昼間のぬくもりがまだ残っている。窓を開けると、草原を渡ってきた風が、町の匂いと一緒に流れ込んだ。焼きたてのパン、乾いた木、どこか甘い果実酒の気配。
「……やっぱり、俺はソファでいいです」
セリアンは、ほとんど反射的に言った。
「そう?」
ミラは特に驚いた様子もなく、ベッドの端に腰を下ろす。
「じゃあ、毛布取ってくるね」
「い、いえ! 自分でやりますから!」
「ふふ、相変わらずだなぁ」
(師匠……もう子供じゃないんだけど、俺!)
宿の親父にからかわれながら毛布を一枚借り、部屋に戻ると、ミラはすでに静かな寝息を立てていた。
……思わず天を仰いで、小さくため息をつく。
「おやすみなさい……」
灯りを落とすと、部屋は一気に夜に沈んだ。遠くで、風が丘を越える音がする。町は眠りにつきつつあった。
……はずだった。
――カァン……。
微かに、金属が鳴った気がした。
セリアンは、ぱちりと目を開ける。
鐘楼の方角だ。はっきりした音ではない。試し打ちなのか、風に触れただけなのか、それとも――。
「……起きてる?」
暗闇の向こうから、ミラの声。
「……はい。今、音が」
「うん。聞こえた」
しばし、二人は言葉を交わさずに耳を澄ませた。だが、次の音は来ない。
「この町の鐘ね」
ミラが、布団の中で小さく続ける。
「不思議なんだ。元気な人には、ただ賑やかに聞こえるのに……」
「……?」
「迷ってる人には、考えごとみたいに聞こえる」
セリアンは、ソファに横になったまま、天井を見つめた。鐘の音が、水の波紋みたいに胸に広がっていた。
「……音って、不思議ですね」
「うん?」
「水みたいだ。形はないのに……残る」
ミラは、くすっと笑った気配を滲ませる。
「吟遊詩人みたいなこと言うじゃないか」
「師匠のせいです」
「それは光栄」
そのまま、言葉は途切れ、静寂が戻った。やがて、ミラの呼吸がゆっくりと整っていくのがわかる。
(相変わらず、寝つきが良すぎ!)
――だが、セリアンは眠れなかった。
窓の外。月明かりに照らされた丘の向こうを、無意識に探してしまう。
金貨の泉。
見えるはずもないのに、そこに“在る”気がした。水音はしない。金属音もない。それでも――呼ばれている。
(……忘れたいのに)
胸の奥で、何かが静かに数えられている。記録されていないはずの、記録。
その夜、鐘は鳴らなかった。だがセリアンは確信していた。
明日、あの泉は語りはじめる。そう思いながら、ようやく目を閉じる。
トロワルの夜は、やさしく、そして逃がさない。




