138 行き先変更しちゃった!?金貨の泉へ!?
村を出て草の香りを運ぶ風が、セリアンとミラをなでるように吹き抜けていた。
ミラソムへ続く道の先を見つめていたセリアンは、ふっと足を止める。
「……師匠。ミラソムへ行くのは……カゲミに任せたいんです」
振り返ると、ミラが穏やかな表情でこちらを見ていた。急かすでも、問い詰めるでもない。ただ、待つ目だ。
「行きたい場所があります」
言葉を選びながら、セリアンは続けた。ミラの眉が、わずかに動く。
「どこだい?」
一瞬、息を吸う。
「ルミアとフレクシアが持ち込んだ、“キュリシアの世界”で……俺がいた場所です」
風が草を揺らし、ざわりと音を立てる。
「金貨の泉へ」
その名を口にした瞬間、胸の奥に冷たい水が落ちた気がした。懐かしさでも、恐怖でもない。ただ、置き去りにしたままの何かが、確かにそこにある感覚。
「あそこに立った時の感覚……。忘れたいのに……忘れられないんです」
声が、少しだけ揺れた。
「きっと、何かある。まだ、流れきっていない記録が……」
ミラはすぐには答えなかった。代わりに、セリアンの横に並び、同じ方向を見つめる。
「そこに行かないと、俺は前に進めない気がするんです」
沈黙。
やがてミラは、小さく息を吐き、微笑んだ。
「いいね……あの泉、私も気になっていたよ。行こう。君の流れを、確かめに」
軽く肩をすくめてから、優しく言う。
「トロワルの町だ。月祭りに当たると最高なんだ」
「最高?」
「ああ。『鳴れば、笑いと実りが来る』祝祭さ。トロワルには、毎月“希望”がある」
「それは……最高だ、師匠」
こうして、セリアンとミラは進路を変える。
金貨の泉は、まだ何も語らない。
だが確かに――彼らを、待っていた。
――広大な風の草原地帯の北のはずれ。
ゆるやかな丘に抱かれるように広がる町、トロワル。
丘を越えた瞬間、風の匂いが変わった。乾いた草の香りに、焼き菓子と家畜の体温が混じる。
「懐かしいなあ。全然変わってないよ」
ミラは周囲を見渡し、子どものように目を輝かせた。
「ね、早く鐘を見たいな!」
「そんなにすごいのか、その鐘……」
セリアンが半信半疑で言うと、
「すごいよ。だって――」
ミラは前を指さす。
町の中心にそびえる鐘楼。そこには、金属でできた巨大な“豚”が吊られていた。
「……ぶ、豚?」
「そう。金の豚さ」
丸みを帯びた体、どこかとぼけた顔。けれどその口元は、確かに笑っている。
「『希望の鐘』って呼ばれてるんだ」
ミラは誇らしげに言った。
鐘楼のまわりには食べ物の市場が広がり、焼きたてのパン、干し肉、果実酒の匂いが風に乗る。手作りの雑貨屋が軒を連ね、木彫りの風車や布細工が揺れていた。
「のんびりしてる町だな……」
「農民も羊飼いも、風を読む気象占い師もいるよ」
「気象占い師?」
「風向きと音で、明日の天気を当てるんだって」
すれ違う人々は、誰もが穏やかな顔をしていた。笑い声が途切れることなく、町に流れている。
「ここではね」
ミラが少し声を落とす。
「誰かが落ち込むと、こう言うんだよ」
「……?」
「『鐘を見に行こうか』って」
セリアンは、思わず鐘楼を見上げた。
「昔、この町はとても貧しかったらしい」
ミラは歩きながら語る。
「そんな時、“黄金の豚”が現れて、食べ物と笑顔を運んだって民話が残ってるんだ」
「ずいぶん、都合のいい話だな」
「ふふ、そうかもね。でも――」
ミラは立ち止まり、鐘を見つめた。
「『鳴れば、笑いと実りが来る』って、みんな信じてる」
「信じてる、か」
「うん。だから毎月一度、町をあげて鐘を鳴らす祝祭があるんだ」
風が吹き、鐘楼の金属がかすかに鳴った気がした。
セリアンは、胸の奥がゆっくりとほどけていくのを感じる。
「……不思議だな」
「なにが?」
「まだ鳴ってないのに、もう少し楽になった」
ミラは、優しく笑った。
「それがトロワルだよ」
そして、そっと言葉を添える。
「絶望してる人の耳には、この鐘は“泣いてる”ように聞こえるらしいけどね」
セリアンは、もう一度、金の豚を見上げた。笑っているようで、泣いているようでもある、その顔を。
――金貨の泉へ向かう前に、彼らはまず、この町の“音”に触れることになる。
石畳を抜けた先、風車の影がゆらゆら揺れる通りに、木造二階建ての宿があった。看板には、丸みのある文字でこう書かれている。
――トロワル亭。
扉を開けると、香ばしいシチューの匂いと、薪のはぜる音が迎えてくれた。
「いらっしゃい。旅の方かい?」
恰幅のいい宿の主人が、帳場から顔を上げる。
「明日、月に一度の祝祭があるんだよ」
にこにこと言いながら、帳面をぱらりとめくった。
「運がいいねぇ。……ただし」
指が止まる。
「部屋は一つしか空いてなくてね。相部屋になるが、それでもいいかい?」
「……え」
セリアンの心臓が、どくん、と音を立てた。
相部屋。
頭の中で、その言葉だけが反響する。
(ま、まずい……師匠と……?)
喉が、ひくりと鳴る。ちらり、と横を見ると、ミラは状況を理解しているのかいないのか、暖炉の前で壁に掛けられた風見鶏の飾りを眺めていた。
「へえ、かわいいね。この宿」
……気づいていない。いや、気づいていて気にしていないのかもしれない。
「セリアン?」
振り返ったミラが、首をかしげる。
「どうする?」
「え、あ、あの……」
声が、思ったより裏返った。
宿の主人は悪気なく、追い打ちをかける。
「若い旅人さんたちなら、まあ大丈夫だろう?」
「だ、大丈夫……?」
胸の奥が、きゅっと縮む。だが、祝祭の日。他の宿は満室。選択肢はほぼない。
セリアンは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……お願いします」
精一杯、平静を装って言う。
「はい、決まりだね!」
主人は満足そうに頷いた。
「祝祭の夜は鐘もよく見える部屋だよ。きっと、いい夢が見られる」
鍵を受け取る手が、わずかに震えた。
「大丈夫かい?」
階段を上りながら、ミラがくすっと笑う。
「顔、真っ赤だよ」
「な、なってません!」
「ふふ。祝祭前夜って、誰でも落ち着かなくなるものさ」
その言葉が、余計に心臓に悪い。
――トロワル亭。
希望の鐘の町で、セリアンの心は、別の意味でも大きく鳴り始めていた。




