135 何も知らなかった!?甘ちゃんの僕!?
「記録師の誇りを……信じましょう」
ざわめきの残る檻の中で、僕は仲間たちを見渡しながら言った。
自分でも、少しだけ震えているのがわかる。それでも、言葉にしなければ、この場の流れに呑まれてしまいそうだった。
「……何も知らない甘ちゃんだな、兄ちゃん」
返ってきたのは、低く乾いた声。怒りでも嘲りでもない。ただ、長い時間を水底で擦り減らした石のように、感情の起伏を失った響きだった。
「記録師の誇りって、何だ?」
年老いた記録師は、こちらを見ようともしない。視線は檻の影の向こう、水のない水底をなぞっている。
「それで――」
一拍、息を置く。
「それで、自分の命が助かるのか?」
その言葉は刃ではなかった。けれど、だからこそ胸に沈む。反論の言葉が浮かぶ前に、重たい静けさが、檻の中を満たしていった。
言葉が、胸に沈んだ。反論しようとして、喉の奥で止まる。この檻の中では、理想論はあまりにも軽い。
「青鮎の前世をもつ記録師――」
男は、そこでようやく視線を上げた。
「俺たちが、生きてきた歴史さ」
錆びた檻の影に、男の指先が伸びる。鉄格子をなぞるでもなく、影そのものを撫でるように、ゆっくりと。
その仕草を見た瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。まるで、水の流れを確かめるみたいな動き。無意識に、流れの強さや向きを測る、魚の癖。
――あまりにも、自然で。
ここが檻だということを、一瞬だけ忘れそうになるほど。
「川魚の中でも、ちょっと変わった前世だ。ただ流されるだけじゃない。変異した鮎――青鮎ってやつでな」
男の声に合わせて、水のないはずの水底に、揺らぎが重なる気がした。速い流れ。冷たい石。陽にきらめく川面。僕の知らないはずの景色なのに、どこか懐かしい。
「知恵もつくし、生き残るコツも、頭じゃなくて体でわかっちまった。どこが危なくて、どこに餌があって、いつ逆らえば流れに勝てるか……」
男は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「だから俺たちは、何年も生きられた。普通の川魚なら、途中で消えてるはずの流れを、泳ぎきっちまったんだよ」
誇らしさと同時に、疲れがにじむ声音。長く生きた、という言葉の重さが、檻の中に沈んでいく。
「……それが、狙われた理由でもあった」
その一言で、胸の奥が冷えた。生き延びたこと自体が、罪みたいに。
水底で、壊れかけの檻がきしりと鳴った。祝福だったはずの記録が、いつのまにか鎖に変わっていた。
「ここはな……今はこんなにさびれちまったが、水族館だった」
男は錆びた鉄格子を軽く叩く。乾いた音が、水のない空間に虚しく響いた。
「アクア・プリズン。名目上は展示施設、実態は檻だ」
薄暗い空間を見回すその目に、かつての光景が映っている気がした。
「俺たちは“鑑賞”されてたんだぜ」
その言い方が、やけに静かで、余計につらい。
「珍しい前世を持つ記録師。長く生き、記憶を溜め込み、水と親和性の高い存在……ってな」
割れた水槽の向こう。そこに立っていた“人の影”を、俺も想像してしまった。
「ガラス越しに見られて、『美しい』『貴重だ』なんて言葉を投げられてよ」
男は鼻で笑った。
「だがな。見世物にされてる間、俺たちはここから一歩も出られなかった」
沈黙。檻の中で重なる影が、当時の視線の重さをそのまま残しているみたいだった。
「流れの中で生き延びた魚が、最後は水槽の底で眺められるだけ――」
低く落とされた声に、俺は思わず息を止める。
「皮肉な話だな」
鉄格子の影が、男の頬を斜めに切り取った。
「俺たちのことが気に入らねえくせに」
握りしめられた拳が、わずかに震える。
「命も、力も、記録も……搾り取ろうとしやがる」
怒りを叩きつけるでもなく、ただ吐き出すように息をつくその姿が、余計に重かった。
「この先の水底でな……」
男は視線を落とし、暗闇の奥を見据える。
「魔物どもが“オラクルパレード”を開く」
その言葉で、檻の中の空気が一段冷えたのがわかった。
「予言と祝祭の名を借りた、儀式だ」
年老いた記録師は、淡々と告げた。
「選ばれるのは、いつも同じ」
一拍。
水音すら、止まった気がした。
「青鮎は――生贄だ」
誰かが、息を呑む。水のない水底で、流れを知る者たちの沈黙だけが、重く沈んでいく。
「……魔物の、いけにえ……そんな……」
思わず零れた声は、檻に吸われて消えた。
「兄ちゃん」
隣の檻から、くぐもった声が返る。
「知らなかったのか。おめでたい鮎だ」
笑っているようで、笑っていない声音。諦めと皮肉が、絡み合った響き。
――その瞬間。胸の奥で、何かが静かに、逆流しはじめていた。
流れに身を任せてきたはずの心が、初めて、はっきりと抗いを覚えた。




