132 捕縛されちゃった!?青鮎の記録師たち!?
その頃、僕は眠れずにいた。村の外れで、一人、水路を見つめている。
――止めてしまった流れ。自分の判断が、残した結果。
「……正しかったのに」
声にすると、ひどく空虚だった。
正しかった。けれど、足りなかった。
世界は、教えよりも広く、村は、理論よりも生きている。
背後で、足音がして、思考が止まった。
「……セオト」
振り返ると、カゲミがいた。いたわるような声音だ。
「今日はさ、もう十分だよ」
責めるでもなく、慰めるでもない。ただ、隣に立つ声だった。
「失敗したってことはさ。ちゃんと、選んだってことだから」
すぐに声が出なかった。胸の奥で言葉がまとまってから、僕は口を開いた。
「……次は、止めない」
「うん」
「ノートリアに正解はないのかもしれない。流れごと、考えるよ」
カゲミは、小さく笑った。
「そう、それでいいよ。前を向こうぜ、セオト。きっとうまくいくから」
夜の水路に、かすかな音が戻る。誰も気づかないほど、小さな流れ。
だが――。この失敗は、確かに未来へと続いていた。
夜更け。
村長の執務室に灯されたランプの明かりが、机の上の地図を照らしていた。外では、水を運ぶ足音がまだ途切れない。
ツバネは腕を組み、地図を見下ろしている。そこに、タリクが静かに腰を下ろした。
「……セオトの件か」
先に口を開いたのは、タリクだった。
「お前は見てなかったんだろう。止めた流れも、村の空気も」
ツバネは、短く息を吐く。
「ああ。そこを突かれた。あの封印は拙が見ても……」
言葉が途切れる。責める言葉も、慰める言葉も、意味を持たない沈黙だった。
「――正しい判断だった」
ツバネが、ぽつりと言う。
「教えに従えばな」
タリクは、地図の上に指を置いた。
「だが、村は教本じゃない。水は、理屈で流れてるわけじゃない」
「わかってる」
ツバネの声は低い。
「……お主も気をつけるんだ。狙われてるのは、セオトだけじゃない」
タリクは、わずかに目を細めた。
「そうか……記録師そのものが、ターゲットか……」
「……ああ。あの時に拙が対処していれば、罠にかかっていたのは拙だ」
ツバネは、ゆっくりと視線を上げる。
「セオトは、責任を引き受けた。逃げなかった。それは、強さだ。……同時に、危うさでもある」
タリクは、低く唸る。
「メリフル村に何が起こっているんだ……」
ツバネが、地図の端を指で叩いた。
「……ラグ・ノートリア村。歪みの起点は、この方角だ。そんな偶然があるか?……罠だろう」
「なるほど。お前とワイをセオトから引き離す罠か。ありえるな」
タリクは、拳を握る。
「拙は、村を立て直す。信頼が崩れきる前に」
そして、低く付け加えた。
「セオトが戻れる場所を、残す」
タリクは立ち上がる。ランプの炎が揺れた。
「よっしゃ。罠だとしても……ワイは動く。ラグ・ノートリア村を守る!」
二人は、地図を挟んで向かい合う。
「間に合うと思うか?」
「間に合わせる」
守るために。流れを、取り戻すために。
次の日の朝。
空は、驚くほど澄んでいた。昨夜の不安が嘘のように、やさしい光が村を包んでいる。
僕は、歪みの残る水路へ向かった。カゲミは、じっと黙って隣を歩いている。
「……まだ、だね」
歪みは、直っていなかった。封じられたままの水路。止まった流れ。村は、まだ息を詰めたままだ。
(今日は、流れを“ほどく”)
昨夜、決めたことだった。止めない。切らない。流れごと、考える。
その瞬間だった。
――声が、した。
『――確認完了』
低く、響く。水の底からでも、空の向こうからでもない。記録そのものが、喋ったような声。
「……なに? この声」
背筋が、凍る。僕の足元の地面に、黒い光が走った。歪みの中心から、円環が広がる。
――黒き魔法陣。
水でも、土でもない。記録を削るための、冷たい文様。
「カゲミ、離れて――!」
言い終わる前に、魔法陣が完成する。
『対象確認』
文字が浮かび上がった。
『――青鮎の前世を持つ記録師』
胸が強く締めつけられた。
「……まさか」
『捕縛命令――発動』
魔法陣が回転する。
「やめろ!!」
叫んだ瞬間、足が地面に縫い止められた。水の記憶が逆流する。
――流される感覚。
息が、できない。
脳裏に、よぎる。
川。
冷たい流れ。
必死に泳いだ、あの頃。
(……ああ。僕は、青鮎だった)
抗うより早く、世界が裏返る。
「セオト――!!」
カゲミの声が、遠ざかる。黒い光が、視界を覆った。
――次の瞬間。
僕は、歪みの前から消えていた。
同時刻。
キュリシア各地で、異変が起こる。
封印を行った記録師たち。歪みの前に立っていた者。流れを止めた者。
――一斉に、姿を消した。
「え……?」
「人が……消えた……?」
「今、ここに……!」
残されたのは、封じられた歪みと、動かない水と、説明のつかない空白だけ。
「セオトが消えただと!?」
報せを受けて、駆けつけたツバネだった。
いつもなら、耳の奥に残るはずの水の気配がない。
流れのない水路は、ただの溝のように冷たく、村の朝は異様なほど静かだった。
歪みの前に、人々は立ち尽くしている。誰も声を出さない。出せない。
さっきまで、ここにいたはずの存在が――消えた。
「……セオトは?」
村人に問うが返事はない。
「カゲミがいたはずだ。影巫女はどこへ?」
「影巫女さまはノートリアさまを探しに行かれた……」
黒い魔法陣は、すでに跡形もなく消えていた。
残っているのは、歪みと、止まった水と、説明のつかない空白だけ。
そのとき。
――声が、割り込んだ。
『さあ』
どこからともなく。
上でも、下でもない。
村そのものの内側に、直接落とされる声。
『世界は、堕ちた』
空気が、ひりつく。誰かが息を呑む音だけが、やけに大きく響いた。
『新たな、はじまりだ』
その声には、怒りも、歓喜もない。ただ、結果を読み上げるような冷たさがあった。
「……誰だ」
ツバネが、歯を食いしばって呟く。剣に手をかけながら、歪みを睨む。
『名乗る必要はない』
声は、淡々と続く。
『選ばれた記録は、すでに回収された。流れを止めた者は、役目を終えた』
村人の中から、嗚咽が漏れる。
「……返せ」
「返してくれ……!」
だが、声はそれすら記録するかのように、平坦だった。
『嘆きは無効。抵抗は、未定義』
歪みが、わずかに脈打つ。止まった水路の底で、黒い影が揺れた。
『ここからは、試行段階に入る』
その言葉に、ツバネの背筋が強張る。
「……試行、だと」
『失敗は、想定内。犠牲は、計測可能』
まるで、世界を実験台にする宣言だった。
『さあ、世界は堕ちた』
声が、最後にふたたび響く。
『新たな、はじまりだ』
次の瞬間、声は途切れた。
あとに残ったのは、瀬音を失った村と、戻らない流れと、取り残された人々の呼吸だけ。
ツバネは、拳を握りしめる。
「……必ず、取り戻す」
それは、誰に向けた言葉でもなかった。だが確かに、歪みの向こうへと投げられた誓いだった。
静寂の中で、メリフル村は、音のない朝を迎えていた。




