130 消えちゃった!?メリフル村の名前!?
ツバネは、立ち尽くしていた。
村は救われた。皆の声も戻り、混乱はあれど、確かに“生きている”状態へ戻っている。
――それでも。
(村長として……俺は、守れなかった)
胸の奥に、鈍い痛みが残っている。
異変に最初に気づいたのはセオトたちだった。自分は、村長としてそこにいただけで、何も決められなかった。
拳を、ぎゅっと握る。
そして、もうひとつの可能性が、頭から離れない。
(……兄さんの、策略だったとしたら)
あのやり方。誰も傷つけず、誰も悲しまないように見せかけて、選択そのものを奪うやり口。思い出したくないほど、兄の考え方に似ていた。
「……くそ」
小さく、吐き捨てる。村を守りたかった。兄を疑いたくなかった。どちらも本音だ。
けれど――。
「迷ってる場合じゃない、か」
ツバネは顔を上げる。村長として。弟として。
そして、セオトの隣に立つ者として。
選ばなければならない時が、もう来ている。そのことを、はっきりと自覚していた。
「村長! なんて顔してんだ!」
畑仕事帰りの男が、少し乱暴なくらいの声で笑った。
「先のことなんかわからしねぇんだよ」
「村が助かった。それだけで、十分じゃねぇか」
その声に呼応するように、周りの村人たちがうなずく。
「そうそう。難しいことは記録師さんたちに任せりゃいい」
「村長は、ここにいてくれりゃそれでいいんだ」
責める声は、ひとつもなかった。あるのは、肩の力が抜けたような、素朴で不器用な優しさだけ。
ツバネは、思わず目を伏せる。胸の奥に溜まっていたものが、じわりと滲んだ。
(……守れなかった、なんて)
(俺が決めることじゃなかったのかもしれないな)
「拙も、記録師なんだがな」
ぽつりと零れた独り言は、誰に向けたものでもない。
それでも、不思議と胸に引っかからず、静かに落ちていった。
村人たちの声が、背中越しに届く。
責めるでもなく、持ち上げるでもなく、ただそこにある生活の音。
――ああ。
みんな、ちゃんと生きている。
そう思った瞬間、口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
顔を上げると、そこには、いつも通りの村があった。
泣いて、笑って、怒って――それでも前へ進もうとする人たち。
「……ありがとう」
短い言葉だった。
けれど、その声は、さっきまでよりも、わずかに軽くなっていた。
「……相変わらず甘いな。弟よ」
低く、乾いた声が、影の奥から零れ落ちた。
夕暮れの光が届かない建物の裏。そこに、黒服に身を包んだ男が立っている。風に揺れる外套は、まるで闇そのものをまとっているかのようだった。
男は、こちらを見ていない。それでも確かに――“弟”と呼んだ。
「選ばせたつもりか。委ねたつもりか」
口元だけが、わずかに歪む。
「だがな。世界は、そんなに優しくできていない」
影が、ゆっくりと男の足元に溶け込む。そこに残ったのは、嘲笑とも諦観ともつかない気配だけだった。
――それが、次の一手の予告だと、まだ誰も気づいていなかった。
「メリフル村か……ここは、いいところだな」
丘の上で、ルミアはそう呟いた。風が髪を揺らし、外套の裾を静かに鳴らす。
眼下にはメリフル村。
さっきまでの騒ぎが嘘のように、人の声が戻り、生活の音がゆっくりと重なっていく。
畑を見回る者、家の前で言葉を交わす者、泣きながらも歩き出す者。
混乱も、不安も、きっとこれからだ。それでも――村は、ちゃんと息をしている。
「完璧じゃない。先も見えない……でも、だからいい」
誰に言うでもなく、ルミアは続けた。
壊れかけて、戻ってきて。
選ばされず、選び直した場所。
丘の上から見下ろすその村を、ルミアはしばらく黙って見つめていた。
「――大変だホン!」
ホンホンの声が、空気を切り裂いた。
「地図から……メリフル村の名前が、消えたホン!」
「どういうこと!?」
反射的に声が出る。僕は慌ててノートを開き、いつものように記そうとした。
――メリフル村。
そう書いた、はずだった。
けれど、インクが定着しない。文字の輪郭が揺れ、にじみ、まるで水に溶けるみたいに崩れていく。
「……書けない?」
喉の奥が、ひやりと冷えた。
ページの上には、意味を失った線だけが残る。
地図からも、記録からも――村が、滑り落ちていく感覚。
「これは……“消された”んじゃないホン」
ホンホンが、震える声で言う。
「“まだ、確定してない”んだホン」
僕はノートを握りしめる。
助けたはずの村が、世界に定着していない。選び直したはずの未来が、まだ名前を持てずにいる。
――試練は、終わっていなかった。
メリフル村は、助かったはずだった。
――なのに。
ざわめきは、時間が経つほど大きくなっていく。
「地図から……村の名前が消えたって……?」
「じゃあ、俺たちは……どこにいるんだ?」
「また、ああなるんじゃないだろうな……」
救われた直後だからこそ、不安は鋭く、広がるのも早かった。
誰かが声を荒らげれば、別の誰かが俯く。怒りと恐れが、村の空気を濁らせていく。
その中心で、ツバネは言葉を失っていた。
村長として、守れなかったこと。
そして、守られた“代償”が、まだ終わっていないこと。
――そのとき。
ひとつの音が、空気を切り裂いた。
澄んだ旋律。
不安の隙間に、そっと差し込むような、やわらかな音。
セリアンだった。
彼は何も言わず、ただ歌う。
言葉を持たない歌が、村のざわめきを包み込み、少しずつほどいていく。
怖がっていた子どもが、はっと顔を上げる。
怒りを抱えていた大人の肩が、わずかに下がる。
音は、感情の輪郭をなぞるように流れた。
――怖かったな。
――不安だったな。
――それでも、ここにいる。
そこへ、もうひとつの音が重なる。
ミラが、静かに楽器を構えた。
低く、確かな旋律。
揺れる心を地面につなぎ止める、現実の音。
「……大丈夫だよ」
音の合間に、ミラがぽつりと呟く。
「名前が消えても、村は消えてない」
「選んだ記憶も、歩いた道も――ここにある」
歌と旋律が、重なり合う。
それは“答え”じゃない。
でも、“立ち止まっていい場所”を、村に与えていた。
ざわめきは、やがて囁きに変わり、囁きは、静かな呼吸に戻っていく。
誰かが、涙を拭った。
誰かが、隣の肩に手を置いた。
ツバネは、その光景を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。
「……ありがとう」
その声は、歌には混ざらない。
けれど確かに、音楽の中に、受け止められていた。
混乱は、完全には消えない。
不安も、問いも、まだ残る。
それでも――。
この村は今、再び“自分たちの音”を、取り戻しつつあった。




