123 動き出しちゃった!?兄の影!?
「ここは、いい村だ」
そう呟いた声は、夜明け前の空気に溶け、音もなく消えた。
メリフル村へ到着したのは、空が白みはじめる少し前だった。家々はまだ眠り、窓という窓に灯りはない。水路を流れる水音だけが、規則正しく時を刻んでいる。
町長としての一日が始まる、その直前――拙にとっては、肩書きを纏う前の、わずかな“素”の時間だ。
「……影が、濃いな」
足が、自然と止まった。建物の隙間。水路の縁。屋根から落ちる闇。いつもなら光と溶け合い、ただの背景になるはずの影が、今日は妙に“形”を持っている。寄り集まり、潜み、息をひそめているような――そんな感覚。
影狩りとして培ってきた感覚が、静かに警鐘を鳴らす。
(……気のせい、ではない)
そう判断した瞬間だった。
背後――いや、正確には。自分の足元に重なっているはずの影から、わずかな違和感が走った。
ぞわり、と背筋が冷える。
「……誰だ」
問いかけは、低く。脅しでもなく、探りでもない。ただの確認だ。
「……兄者?」
思わず、口をついた。返事はない。だが――影は、確かに動いた。
建物の影が、わずかに隆起する。地面に貼りついていた闇が、人の形に“なりかけて”、すぐに霧散する。刃を抜くほどでもない。だが、見逃すには――近すぎる。
何より。
こちらを、見ている。その気配だけが、はっきりと残っていた。
拙は、一歩も動かなかった。追えば、追える距離だった。影狩りとしてなら、十分に。
だが――追わなかった。
(……兄ではない)
直感が、そう告げていた。兄の影は、もっと静かだ。もっと――重い。
今のそれは、似ているが、違う。影を使う者。だが、影に“慣れていない”動き。別の誰か。兄の背をなぞるように歩く、別の存在。
「……カルマか……」
名前を口にした途端、影がすっと薄くなる。まるで、聞かれたこと自体が目的だったかのように。
屋根の向こうから、夜明けの光が差し込む。闇は、役目を終えたように、元の場所へと引いていった。
拙は、ゆっくりと息を吐く。
(……動き出した、か)
兄の影か。それとも、兄を名乗る影か。
どちらにせよ――メリフル村は、もう“無関係”ではいられない。
拙は再び歩き出す。町長としての顔を作りながら、心の奥で影に告げる。
(次は――逃がさない)
夜は明ける。だが、影は。確実に、村へと入り込んでいた。
そのときだった。
――ポカ、ポカ。
胸元を、小さな拳が叩く感触。
「……っ?」
反射的に視線を落とすと、そこにいたのはリウラだった。普段は胸元で静かにしている彼女が、珍しく両手で拙の服を掴んでいる。
「ツバネの……バカ!」
ポカポカ、と遠慮のない連打。
「セオトには仲間を頼れって言ったくせに!」
「どうして自分は、ぜんぶ一人で背負おうとするのよ!」
思ったより、力がこもっていた。痛みよりも、その必死さが胸に刺さる。
「……リウラ」
「聞いてる!?」
声は、震えていた。
「影が動いてるの、気づいたでしょ。カナエさんの影かもしれない、他の裏記録師かもしれない……それなのに!」
ポカ。
ポカ。
「町長だから?影狩りだから?」
「それとも、“弟”だから!?」
最後の言葉で、拳が止まる。
夜明け前の静けさの中で、水路の音だけが、やけに大きく響いた。
すぐに言葉を返せなかった。返せる言葉が、見つからなかった。
「……頼ったら……巻き込む」
ようやく、低く口を開く。リウラの目が、はっと見開かれる。
「危険に、引きずり込む。町も、セオトも、タリクも……全部だ」
影狩りとして、兄の背を追ってきた頃から、変わらない癖だった。
「だから、拙が……」
言い切る前に。
「それは、逃げですわ」
ぴしり、と。小さな声なのに、はっきりと言い切られた。
「一人で抱え込むのが、強さだって思ってる。でもそれは、仲間を信じてないのと同じですわ」
拳を握りしめたまま、リウラはまっすぐ拙を見る。
「セオトは、ちゃんと仲間を頼りましたわ!タリクも、ゲルも、ミラさんも、セリアンも、ちゃんと支え合ってますわ!」
「……なのにツバネだけ……いつも“最後の影”に立とうとする」
胸の奥が、ぎしりと鳴った。
「……拙は」
影狩りだ。
町長だ。
兄の弟だ。
そうやって自分に役割を重ねるたびに、誰にも手を伸ばさない理由を増やしてきた。
「……怖いだけ、かもしれんな」
ぽつりと漏れた本音に、自分でも驚く。
リウラの手が、止まった。
「失うのが、怖い。兄の影を追って……また、同じ道になるのが」
言葉にした瞬間、肩の力が抜けた。
リウラは、小さく息を吸ってから、ぎゅっと服を掴み直す。
「……だったら、なおさらですわ」
声は、もう怒っていなかった。
「一人で行かないで。みんなに、選ばせてあげて。あなたが信じる仲間たちは……ちゃんと、影ごと受け止めますわ」
胸元に伝わる温度。殴られていたはずの場所が、今は不思議とあたたかい。
「……ずるいな、リウラは」
「ええ!知ってますわ」
彼女は、少しだけ胸を張った。
「記録師のそばにいる精霊だもの」
拙は、空が白みきった村を見渡す。
影は、確かに動き出している。だが――それに立ち向かうのは、拙一人でなくてもいい。
「……拙は」
小さく、決意を口にする。
「……仲間を頼ろうと思う」
リウラは、ようやく満足そうに微笑んだ。
「最初から、そう言えばいいのに」
夜が明ける。影は後から重なる。
だが今は――その影に、差し出せる手があることを、拙ははっきりと知っていた。




