117 持ち主わかっちゃった!?裏切りのイヤーカフ!?
闇と水を集めたアクア・スパイラルの儀式。
それは本来、選ばれた者だけが踏み入る――神域に等しい舞台だった。
だが今、クロム・リーフはそこにいた。望んだわけでも、理解したわけでもない。ただ――押し出されたのだ。見えない力が背を押す。一歩。また一歩。
床下から伝わる脈動が、靴底を通して身体に食い込んでくる。鼓動に似ているが、決定的に違う。これは世界の心音だ。
――ぐうん。
耳元で、イヤーカフが低く鳴った。
「……なるほど」
クロムは息を整え、いつもの笑みを作る。恐怖を覆い隠すためではない。恐怖すら、舞台装置に変えるために。
「ええ。ここが私の見せ場ですね、わかります」
指先で、黒銀のイヤーカフに触れる。
「妖しく光って見せましょう」
その瞬間――
――ぱあっ。
闇を裂くように、イヤーカフが輝いた。黒と水色が絡み合い、渦となって広がる。照明のようでいて、照明ではない。これは起動の光だ。
笑みを保ったまま、クロムの喉が小さく鳴る。
(……冗談では、済まなそうだな)
床の文様が応じるように発光し、儀式の歯車が噛み合う。観客はいない。幕もない。
だが――舞台は、完全に閉じた。
耳元で、イヤーカフが脈打つ。
――こん、こん、と。
それは鼓動に似ていたが、決定的に違う。彼の心臓ではない。“別の何か”のリズムだ。
「……おや」
足が、止まった。命令でも、拘束でもない。“立て”と、世界が言っているのだ。
自分の意思とは無関係に、足が止まる。
床の文様が、それに応じるように淡く発光した。
指先が、自然とイヤーカフに伸びる。触れた瞬間――じわり。
「これはこれは……」
脳裏に、映像が流れ込んだ。水路。逆巻く螺旋。記録から削られた儀式の断片。そして、“立つべき位置”を示す、舞台中央の印。
「……案内係つき、とは聞いていませんが」
軽口とは裏腹に、喉がわずかに渇く。理解した。このイヤーカフは飾りではない。儀式の起動鍵なのだ。闇を感知し、適合者を選び、舞台へ導く制御装置。
クロムが一歩踏み出すたび、イヤーカフが光る。鳴る。導く。
――ここだ。
――立て。
――演じろ。
「……なるほど。脚本は、もう書かれているわけですか」
誰にともなく呟きながら、クロムは祭壇の中央へと進み出た。クロムの視界の端で、黒銀の装飾が紫を帯びて輝く。舞台照明に似た色だが、あれは光ではない。記録の発信色だ。
「……はは」
クロムは、乾いた笑みを浮かべた。
「そうでしたか。これは私の小道具ではなく――あなたの目、だったわけですね」
かつて、セオトから奪ったもの、イヤーカフは否定しない。ただ、淡々と“今”を送っている。それは音ではなく、応答だった。遠く、確実に――“誰か”へ届くための。
――アクア・スパイラル研究塔、上層。
汐真は、静かな部屋で水晶盤を見下ろしていた。盤面に映るのは、祭壇、渦、そして中央に立つクロム・リーフ。
「……順調」
感情の起伏はない。それは決断ではなく、選択済みの結果だった。
「クロム・リーフは適合している。闇と水、両方に反応した」
「この儀式を完成させるには――彼で足りる」
側にいた記録師が、わずかに息を呑む。
「……犠牲に、するのですか」
「“犠牲”ではない」
汐真は顔を上げなかった。
「記録に残るか、残らず消えるか。その違いだ」
指先が、水晶盤に触れる。
「続行」
その一言で、ファントムの灯火は秤から外された。
――研究塔、最深部。
イヤーカフが、熱を持つ。クロムの耳元で、囁きが生まれた。
――終幕だ。
――役目を果たせ。
――消えろ。
「……おやおや」
クロムは、肩をすくめる。
「それは困りますね。私はまだ、幕引きの挨拶をしていない」
祭壇の紫の文様が脈打つ。あの色を、クロムは知っている。生きることも、死ぬことも諦められなかった者の色。
「紫、か……」
彼は、ゆっくりと思考を巡らせた。劇場のモニュメント。装飾。記憶を宿す“形”。
「消えるくらいなら――役を変えましょう」
イヤーカフが警告するように強く光る。だが、もう遅い。
クロムは、舞台人だった。“場”と“象徴”を、誰よりも知っている。
「主役が消えるなら」
彼は、アクア・スパイラルをすり抜け、劇場の扉の紫のモチーフへと飛び立った。
「舞台そのものに、憑いてしまえばいい」
――ばきり。
イヤーカフに走った亀裂。情報の流れが、乱れる。
「なっ……?」
上層で、汐真が初めて顔を上げた。
水晶盤の映像が歪む。クロムの輪郭が、紫の光に溶け消えていく。
「ここから逃げた……だと……!?」
それは想定外。“犠牲”は消えるはずだった。
だがクロムは――執着が強い男だ。消える役を拒んだ。
『あはっ!舞台はね――最後まで何が起きるかわからないから、面白いんですよ』
最深部の空間に残響だけが残された。儀式は完成へ向かいながら、制御を失っていく。
紫の光が、ゆっくりと沈静していく。
暴れていた闇の渦は、次第に形を整え、装置の中心へと収束していった。
軋み、悲鳴を上げていた文様は、まるで最初からそう描かれていたかのように、静かに脈動を続けている。
「……数値、安定」
研究者の声が、震えながら響いた。
「動力炉、完全起動を確認」
「アクア・スパイラル……回転を開始しました」
一瞬の沈黙。そして――
「成功、だな」
クルヴが、淡々と告げた。儀式が成功した理由は、別にあった。
祭壇の外縁。誰にも注目されず、名も呼ばれぬ位置で、カルマは、膝をついていた。
黒トンボたちが、彼の周囲を取り囲み、羽音を殺して輪を描く。その中心で、カルマの胸元が、淡く光っていた。
「……っ」
体の奥から、何かが抜けていく。クロムの魔力だけでは足りなかった。最後の媒介――それが、カルマだった。
黒トンボたちは、闇の流れを整え、噛み砕き、循環させていた。魔物としての本能。記録されない存在だからこそ可能な、危うい均衡。
「……これで」
震える声で言った。
「終わる、んですよね……?」
返事はない。
ただ、装置は確かに安定していた。
汐真の水晶盤に、結果が映し出される。
「――成功」
記録師協会にとっては、それだけで十分だった。
カルマの名は呼ばれない。黒トンボも、記録されない。勝利でも、失敗でもない。犠牲を含めて、成功してしまった儀式。
カルマは、胸の奥の違和感を言葉にできずにいた。
――この成功は、本当に「守りたい未来」へ繋がっているのか。




