116 儀式はじまっちゃった!?イヤーカフの非常事態!?
時を同じくして ――アクア・スパイラル研究塔、最深部。
円形の祭壇を囲むように、古い文様が床一面に刻まれていた。それは記録でも、正史でもない。削られ、隠され、それでも残った――“闇の系譜”。
中央で、装置が低く唸りを上げる。
古き闇の力が、黒い靄となって吸い寄せられていく。螺旋状の水路を逆流するように、闇は集まり、圧縮されていた。
「……美しい」
研究者のひとりが、恍惚とした声を漏らす。
「これが、アクア・スパイラルの本来の回転か」
「水と闇は、元より同じ流れに属している……」
祭壇の外縁に立つクルヴは、腕を組み、冷ややかにその様子を見下ろしていた。
「記録師が、少ないようだが?」
不安を隠しきれない声が問う。
「この規模の闇……制御できるのかね?」
クルヴは、鼻で笑った。
「制御など、必要ない……犠牲は裏記録師で十分なはずだ」
祭壇の端。影の中で、数人の人影が膝をついている。顔は伏せられ、声もない。だが、その身体から、確かに“力”が吸い上げられていた。
「……足りなければ?」
研究者が、慎重に言葉を選ぶ。
クルヴは、迷いなく答えた。
「フレクシアも使え。記録としては、あれは“事故死”で通る」
一瞬の沈黙。
やがて、くぐもった笑い声が上がった。
「フフフ……そうきたか」
別の研究者が、愉快そうに肩をすくめる。
「あれに手を出せば、ミラソムは消滅するだろうが」
「構わん」
クルヴの声は、冷たい。
「都市など、いくらでも作り直せる」
そのとき。
――ぐうん。
装置が、大きく脈打った。
床の文様が光り、闇が“形”を持ちはじめる。水と闇が絡み合い、巨大な渦となって祭壇の上に立ち上がった。
「……共鳴、開始」
「動力炉、第二段階へ!」
誰かが叫ぶ。
「数値が跳ねてる!想定より――」
言葉は、最後まで届かなかった。
――ちり。
空気が、裂ける音。
研究塔の一角――外界から切り離された小部屋。
厚い扉の向こうでは、低く響く振動音が絶え間なく続いている。何かが動き、何かが削られていく音だ。
薄暗い部屋の壁際に、カルマは腰を下ろしていた。その周囲を、黒い羽根を持つ小さな魔物――黒トンボたちが、音もなく漂っている。
彼らは喋らない。ただ、カルマの気配に寄り添うように、静かに、静かに。
「……魔物が、安心して暮らせる村を作る夢のために……か……」
独り言は、ひどく小さかった。
頭に浮かぶのは、笑っていたセオトの顔。無邪気に走り回っていた魔物たちの姿。
――守りたいものは、確かにあった。
けれど。
カルマは、ここで何が行われているのか、その全てを知らされてはいない。知っているのは、「必要な仕事」だということと、「名前に残らない役目」だということだけ。
いつの間にか、彼は“裏の仕事”を任されるようになっていた。
黒トンボの一匹が、カルマの肩にとまる。羽根が、かすかに震えた。
「……大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように、カルマは微笑んだ。
「これが、誰かの安心につながるなら……」
その言葉を、彼自身が一番信じきれていないことを、黒トンボたちは、黙って知っていた。
やがて――小部屋の奥で、合図の灯りが、ひとつ点る。待機は、終わりを告げようとしていた。
室内に、短い静寂が落ちた。扉を開けると、その静けさを破るように、廊下の向こうから足音が近づいてくる。現れたのは、公演を見届けたばかりのクロム・リーフだった。
――顔色が、明らかに悪い。余裕たっぷりの笑みは影を潜め、頬は青ざめ、額にはうっすら汗が浮かんでいる。
「……ふう」
思わず漏れた息を、黒トンボが見逃さなかった。
「おじさん、顔色わるいけど大丈夫?」
カルマのその一言に――
「んなっ!?」
クロムは勢いよく顔を上げる。
「お、おじさんではない! 支配人と呼ぶように!」
語気は強いが、どこか切羽詰まっていた。
「支配人でも顔色わるいのは変わらないけど」
「これはだな……芸術的緊張の余韻というやつだ!」
胸を張ろうとして、クロムはわずかによろめく。黒トンボたちは、無言でそれを見ていた。
そのとき。
クロムの耳元。光を吸い込むような、異質な装飾――黒銀のイヤーカフ。
(……あれは)
闇に敏感な存在だからこそ、わかる。微弱だが、確かに――“流れ”がある。黒トンボは、カルマへテレパシーを送った。
「……それ、ただの飾りじゃない」
クロムの指が、ぴくりと動く。無意識の仕草で、イヤーカフを覆い隠すように耳に触れた。
「な、何を見ている。舞台衣装の一部だ。芸術家の嗜みだとも」
早口だった。
カルマは、それ以上は追及しなかった。だが、黒トンボは視線を外さない。
クロムは咳払いをひとつした。
「では私はこれで――」
踵を返そうとした、その瞬間。
――ちり、と。
微かな音が、空気を裂いた。
「……?」
黒トンボの羽が、一斉に止まる。
クロムの耳元で、イヤーカフが淡く光った。黒銀の縁を伝うように、闇色の紋様が浮かび上がり、すぐに消える。遅れて、鈍い鼓動のような振動。
「っ……!」
クロムは思わず耳を押さえ、よろめいた。
「支配人?」
「……な、何でもない!」
声が、わずかに震えている。
だが、黒トンボには見えていた。イヤーカフから、細い“糸”のようなものが伸び、虚空へ溶けていくのを。
――儀式は、すでに動き出している。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
時間切れで、余韻なしです。




