【第一話】「おじさん、始めました」
――美少女だった私が、ある日突然「おじさん」になった。
誰にも理解されない異世界転生ならぬ“同一世界転生”だ。
鏡に映る知らない顔、響く低い声、重い体。
戸惑いと違和感にまみれた日々の始まり。
“美少女”の仮面を脱ぎ捨て、今度は“おじさん”として生きていく。
周囲のオジサン友達とのゆるくも熱い日常。
そして、おじさんならではの苦悩や過去の闇に触れながら、私の新たな人生が幕を開ける――
さあ、あなたもこの奇妙で切ないおじさん転生劇を覗いてみませんか?
「……んが……あ、あれ?」
目が覚めた瞬間、違和感が全身を包んだ。
まずベッドじゃない。固い。腰が痛い。
そして、何より――喉から出た声が低い。野太い。おっさんボイス。
「うわっ!? だ、誰の声これ!? ……って、私!?」
ガバッと上半身を起こす。
そこは狭いワンルームの部屋。カーテンは日焼けして色あせ、窓のサッシには黒いカビがポツポツ。
壁際にはコンビニ袋が山盛り。何袋かはカップ麺やおにぎりの空き袋でパンパンだ。
「……何これ、めっちゃ生活感……いや、生活感じゃなくて生活の敗北感……?」
喉がやたら乾く。
立ち上がると、膝が「ミシッ」と鳴った。体が重い。腰回りの肉が揺れる。
ふらふら歩いて全身鏡をのぞくと――
「お、おじさん……!? って、誰この……え、私!?」
映っていたのは見知らぬ中年男性。
額は広く、ヒゲは青く、目の下にはくっきりクマ。
寝ぐせが後頭部で爆発していて、パジャマ代わりのスウェットには醤油みたいなシミがある。
「いやいやいや、ちょっと待って、昨日まで私、“白雪 碧”っていう美少女JKだったんですけど!? どこ行った私の二重まぶたとサラサラ髪!?」
鏡の中のおじさんが同じリアクションをしている。
いや、それ私だ。今、完全にこのおじさんの体に入っている。
慌てて部屋を見回すと、机の上に免許証があった。
名前は「中谷 修一」。年齢は38歳。
「38歳……アラフォー……! お父さん世代じゃん……」
息が上がって、鏡の前で座り込む。
何がどうなってこうなったのかは、さっぱりわからない。
でも、とにかく喉が渇いた。
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冷蔵庫を開けると、ペットボトルの麦茶と、期限切れの卵、謎のタッパー。
タッパーの中身は……茶色い液体に浸かった謎の物体。
「うわ、何これ……怖っ……あ、麦茶は生きてる」
コップに麦茶を注ぎ、一気に飲み干す。
喉を通る冷たさは最高だが、なんだか胃にズンとくる。前の体の時よりも内臓の主張が強い。
「……あー……うん、でもなんか……自由だな」
ふと、前世のことを思い出す。
美少女として生きていた私は、常に“見られる存在”だった。
言葉づかい、座り方、食べ方、笑い方――全部が「女の子らしくあらねば」っていう縛り。
でも今は、口から出る言葉が多少汚くても、誰も文句言わないはずだ。
「これ……もしかして、いいかも……?」
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玄関から外に出ると、廊下で隣のおじさんと鉢合わせた。
スウェット姿、頭頂部は寂しく、手には缶コーヒー。
「お、修ちゃんじゃん。珍しいな、朝から外出か?」
「……あ、あー……そうっすね」
“修ちゃん”。多分、この体のあだ名。
口に出した瞬間、妙に自然に出る低音にまたビビる。
「この前は……まあ、無理すんなよ」
おじさんはそれだけ言って去っていった。
“この前”ってなんだ。まさか、この体の持ち主が――
(……いやいや、考えすぎか)
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コンビニに寄る。
前世ならスイーツコーナーで可愛いケーキを選んでいたが、今はなぜかおにぎりコーナーがやけに魅力的だ。
そして――
「……ブラック無糖500ml缶……デカいけど……まあ、いいか」
会計を済ませて、缶を開ける。
一口飲んだ瞬間、舌に広がる苦味と香ばしさ。
「うぇっ」となりつつも、なんだかクセになる。
「……うん……悪くない」
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帰宅後、机の上のパソコンを開くと、ブラウザには借金整理のサイトや転職情報。
メールボックスには「返答がない場合は法的措置も……」という文面。
そして――「ごめんな」というタイトルの下書きメール。
(……まさか、この体の人って……)
胸がざわつく。
でも今はまだ、そのファイルを開ける勇気はなかった。
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夕方、再び廊下に出ると、先ほどのおじさんとまた遭遇。
今度は自然に話しかけてみる。
「仕事っすか?」
「いや、今日は休み。修ちゃんは?」
「……まあ、そんなとこ」
「そっか。じゃあ後で飲むか?」
「……え、いいんすか?」
その瞬間、胸の奥が少し温かくなった。
おじさんになった私は、初めて“おじさん同士の気楽な付き合い”というものを知ることになる。
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「おう、修ちゃん、遅えぞ!」
隣の部屋のドアがガチャリと開き、スーツ姿の中年男性が顔を出した。
「田辺さん……あ、ども……」と返すと、ドアの前にずらりとおじさんたちが集まっている。
「今日はな、飲み会だ。仕事の愚痴でも吐き出せよ!」
修ちゃん――つまり私――は戸惑いながらも、誘われるままに彼らの部屋へ入った。
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ソファに腰掛けると、隣の佐藤さんが缶ビールを差し出してくる。
「初めてなのに気負うなよ。ここは肩の力抜ける場所だ。」
「ありがとうございます……」
乾杯の音とともに、少しずつ体が緩んでいくのを感じた。
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「ところで修ちゃん、あのさ……」
田辺さんがちょっとためらいながら話を切り出す。
「前にさ、なんか……あまり良くないことがあったみたいだが……」
「それは……」口ごもる私。
田辺さんは察したように、「まあ、無理に言わなくていい。みんな色々抱えてるからな」と優しく続けた。
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夜も更けて、私は知らないうちに深い眠りに落ちた。
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翌朝。起き上がると、体があちこち痛い。腰はギクッとし、腕もなんだか重い。
「これが……おじさんの筋肉痛か……!」
部屋の鏡の前で変な声を出してしまう。
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机の上には、昨日の飲み会で貰った名刺や、メモ用紙が散らばっていた。
その中の一枚に目が止まる。小さく折りたたまれた紙切れ。
「修一、借金の件、すぐに連絡してくれ。遅れるなよ。」
そう書かれていた。
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胸が締め付けられる。
「この体の持ち主は……何を背負っていたんだろう……」
スマホの画面に表示された未読メッセージの数が、増えているのを見て、私は呟いた。
「……なんとかしなきゃ。」
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昼間、パソコンの前で転職サイトを眺める。
「ふーん、工場のラインかぁ……」
「時給1000円、週5日、残業月20時間……うーん……」
隣の部屋から田辺さんの声が聞こえる。
「修ちゃん、今日は面接行くのか?」
「うん、予約取ったんだ……」
「じゃあ遅刻すんなよ。おじさんの世界は甘くないからな。」
面接の日。スーツを着て鏡を見た。
「……これ、似合うのか?」
緊張しながらも、ドアを出る。
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面接官は50代の男性。
「中谷さん、これまでのご経験は?」
「はい、……まあ、その……未経験なので……」
「未経験か……うーん、そうか。」
結果はまだわからないが、終了後の帰り道、ふと足を止めた。
「自分、この体でちゃんとやっていけるのか?」
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ある日、部屋の机の奥から一冊のノートが見つかる。
「日記……?」
開くと、元の修一の字で、苦しみと孤独が綴られていた。
「借金が返せない。もう限界かもしれない……」
「誰か助けてくれ……」
涙がこぼれそうになる。
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飲み会で、みんなで笑いながら過ごす時間。
「修ちゃん、元気出せよ!」
「ありがとう……」
でも、夜中に一人になると、ノートの言葉が頭をよぎる。
「元の修一は、何を失ってしまったんだろう……」
そんな時、隣の部屋の田辺さんが優しく声をかけてくれた。
「辛いこともあるけど、俺たちがいるからな。」
涙が止まらなかった。
【第一話・完】
おじさんとしての第一歩は、決して華やかでも楽でもない。
それでも、肩の力を抜いた会話の中に、少しずつ温もりが生まれる。
重い体と痛む筋肉、曇った過去。
けれど、そのすべてを受け入れて歩き出すことで、前世の私が背負っていた縛りから解放されていく。
これから何度も転び、何度も笑い、時に涙するだろう。
だけど、それが“おじさん”という新しい私のリアルなのだ。
さあ、次回もどうぞお楽しみに――。