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岩陰の語り部 4

 激しい水飛沫を顔面に受け、地獄の現に立ち戻った。

 朝だった。 

 軍服を来た二人の男が、己の両脇を掴んで、小屋の外に引っ張り出す。

 何度目だろうか。

 両手の指では足りなくなってから、数えることをやめてしまった。


「よく見ておけ。これが逃げ出した者が辿る末路だ」


 そう言いながら、男が己の膝の間に直径十センチはあろう木棒を差し込む。

 もうすでに、足の形は歪んでいた。

 膝の間に差した棒の両端を、軍服の男二人が同時に乗る。

 見せしめの拷問である。

 はじめは助けを請うために叫んでいた。

 しかし、あるとき、それが無駄であると悟った。

 いまとなっては早く眠らせてくれと叫ぶ。

 ただ、叫ぶ。


 小屋は現場のすぐわきに建てられ、労働者たちが出勤するたびに、拷問される己を見せつける。

 見物人は、己を憐みとも蔑みとも読める視線を寄こすだけであった。

 後悔はなかった。

 地獄のような生活から抜け出せただけよかったとも思えた。

 現状がより良いとは思えないが、奴隷同然の労働といまの拷問の日々を比べると、現状の方が生きているという実感が湧くとも思えた。

 痛みで視界がおぼやけ、己の悲鳴が徐々に遠のく。

 気を失った。


 なんとしても帰らなければならなかった。

 妻と幼い娘を、故郷に残してきた。

 小作人の子として生まれた己は、地主のもとに働きに出ていた。

 地主の娘を嫁に迎えたのは、十九の時だった。

 幸運だった。

 器量がよく、部落一美しいと言われていた女だった。

 幸せだった。

 己ほどの果報者はいないのではないかと思えるほど、結婚生活は円満で穏やかなものだった。

 しかし、年々増える作物の供出で生活が苦しくなっていき、百姓をしているだけでは生きていけなくなった。


 官斡旋の徴用の話が村役人からもたらされたのは、新たな稼ぎを探しているときだった。


「半年も行けば戻ってこられる。しかも、賃金も悪くない。どうだ。戦争に勝つために働いて稼げるのだから、悪くない話だろう」


 役人に説得され、生まれたばかりの娘と妻を残して、徴用に応じることにした。

 内心では、お国の為と言うが数十年前までは違う歴史を持った国だったではないか、何故己が国の為に働かなければならない、と思っていた。

 口に出せるわけがなかった。

 お国の為ならば国民を犠牲にする国に仕える役人である。

 胸の内を言葉にすれば、何をされるか分からなかった。

 それに、稼ぐためでもあった。


 船と列車に運ばれて着いた土地の名は、松代というらしい。

 象山という山に、日本一の地下倉庫を掘ると聞かされていた。

 食事も生活も労働も辛かった。

 ろくに食べないから現場に出ても、まともに体が動かない。

 寝床も三角兵舎と呼ばれるバラックに粗末な布団。

 飯場に風呂場などなく、町に一つある風呂屋にひと月に一回行く程度。

 飯場脇の川に浸かって汗を流すのが日常だった。

 許可なく松代の町を出ることは許されない。

 駅には見張りの役人が常に目を光らせているからである。

 夜、用を足しに三角兵舎の外へ出ると、世話焼きと呼ばれる監視の者が飯場の周囲を巡回している。

 監視に見つかると、逃走を企てているのではないかと、常備している棒で殴られる。

 簡単には逃げられないようになっているのだ。


 それは、ほとんど衝動的であった。

 夜、凍える寒さと便意で目が覚めた。

 どうにも我慢できそうにない。

 隣の人を起こさないように静かに布団から抜け出すと、三角兵舎の扉を開け放ち、外の様子を窺った。

 誰もいない。

 肌を刺すような寒風に身を晒しながら、あたりに気を配る。

 飯場と飯場の中間に位置する便所へと、警戒しながら歩を進めた。

 用を足すと急いていた気が緩み、ふと、逃げられるのではないかという甘美な希望が脳裏を過った。

 同時に、妻と娘の愛しい姿が思い出された。

 曇っているらしく、月や星の明かりは天上に見えない。

 明かりといえば、僅かに霞んで見える眼下の民家から漏れ出ている光だけであった。

 民家の明かりは、南北に流れる川沿いに点々と南北に続いている。

 まるで故郷への道標に見えた。

 ここからは、無心であった。

 ただただ、体が動いた。

 気が付くと飯場の区画から外れた畔道に立っていた。

 川沿いの大通りへと通じている道である。

 一歩一歩、足を前に出すごとに、胸の中の誘惑が大きくなっていく。


「おい。お前、どこへ行く」


 心臓が破裂せんばかりに打った。

 己の背を、ライトの光が照らすと同時に、地獄へと引きずり戻す悪魔の声。

 間髪入れずに駆けだす。


「待て!」


 無我夢中で駆けた。

 世界中の音が掻き消えて、追う者の足音と己の息遣いだけが耳朶に響く。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 あの地獄には、戻りたくない。

 何度も地面の凹凸に足を取られながらも、必死で駆けた。

 畔道が途切れる手前、肩を掴まれ激しく転倒した。

 男が倒れた己を上から押さえつける。


「妻に、娘に会わせてくれ。なぜだ。なぜ、お前らは俺から全て奪っていくんだ。国も富も名前も言葉さえも奪い、挙句の果てには自由をも奪うのか。妻と娘に会わせてくれ」


 喚く己に、男は、


「何を言っているのかさっぱり分からん。日本語で話せ」


 冷酷に言い放つと、腰に差した棒切れを振り上げた。

 頭に鈍痛が走り、意識が飛んだ。



 目が覚めると、格子窓から三日月が夜空に浮かんでいた。

 歪に曲がった膝が傷んだが、無力感が身を起させない。

 涙は、すでに枯れ果てていた。

 眺めていた月が、突然、何かに覆われて見えなくなった。


「おい、生きてるか」


 代わりに表れたのは、催本という男の顔だった。

 催本は、二十歳そこそこの穴掘り技術者で、飯場が同じことから懇意の仲となっていた。

 捕らわれの身となる以前は、酌をしあいながら故郷の話をすることがしばしばあった。


「催本か。まだ、死んでない」


「何とか、方法を考えて、お前を逃がしてやる。だから、それまで死ぬんじゃないぞ」


 囁くような小声だったが、穏やかで力強い声だった。


「こんなところにいるのが見られたら、お前もただじゃ済まないぞ。俺のことはいいから、ほっとけ」


「そうはいくか。明日だ。明日、この小屋の鍵を盗んできてやる。そしたら、お前を背負って、この山を越えた、上田っちゅうとこ行く。そこなら、監視の目はねえ。列車に乗って海に出るんだ。船に乗りゃあ故郷に帰れるぞ。だから、絶対に死ぬなよ」


 それだけ言い残した催本は、己の返事も聞かずにその場を立ち去って行った。

 静かになった。

 幽閉されてから初めて、震えるようなどうしようもない切なさを感じた。

 喉が締め付けられる感覚に襲われ、嗚咽が零れ出た。

 涙が出たのは、いつ以来だろうか。


 次の日、気が付くと己は、誰かに背負われていた。

 背負う男は、山の斜面を登っているようだった。

 その背中は冷たく、催本のものではないことだけは確かだった。

 ある程度は登ってきたのだろう。

 無言でその男は、己を無造作に地面に転がした。

 この時、己はようやく地獄から抜け出せるのだということと、妻と娘に会えるのはもう少し先になるのだということを、はっきり悟った。


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