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岩陰の語り部 3

 諦めた。

 生きて故郷に帰り、再び家族に会うことは叶わないだろう。


 三角兵舎の粗末な寝床から起き上がれなくなってから、二日が経つ。

 諦念が頭の中をじわじわと占領しはじめていた。

 いや、故郷からここに連れてこられる時からすでに予感はあった。


 突然家に押しかけてきた野郎どもは、十七になったばかりの息子を強引に連れて行こうとした。

 それだけは、絶対に許せなかった。

 わたしから土地を奪い、名前と言葉を奪っただけでなく、息子までも奪おうとするなんて。

 だから、息子の腕を引っ張っていこうとする男の前に立ち塞がり、代わりにわたしを連れていけと言ったのは、奪われる苦しみからわたし自身を守りたかったからだ。

 この時から、故郷には再び戻ってはこられないだろうと覚悟を決めていた。


 松代に来たとき、仕事場だと告げられた象山の麓は、一面、白銀の雪で覆われていた。

 そこには、山に穴を掘るためだけに集められた、何千という労働者たちが暮らしていた。

 暮らしというにはあまりにも貧相で惨めな生活が待っていた。

 三角に組まれた宿舎はあちこち隙間だらけで、寒くてまともに寝られたことなどなかった。

 布団も中の綿が端に寄ってしまい、ほとんど布一枚。

 しかも、蚤がそこら中を這いまわっていた。


 仕事は、砕いた岩をトロッコに積み込み外へ運んでは捨てることを繰り返す作業で、穴掘りの技術もなく、体力のないわたしのような年寄りが担当した。

 それでも力仕事には変わりなく、栄養のある飯を食べなければ倒れてしまう。

 松代に来てから四か月ばかりが経つが、飯はコウリャン米に大豆かすを炊いたご飯が一杯。

 それに具のほとんど入っていない薄い味噌汁。

 肉や魚が出たためしなどほとんどない。

 食事は口に合わず、体がそれを受け付けなかった。

 下痢が続き、仕事に出ても体に力が入らず、二月も経つと下腹がどんどん膨れてきた。


「じいさん、わしの分もいるかい」


 はじめてご飯の上に、ちょこんと一口大のホッケが出た夕餉のことだった。

 声をかけてきたのは、同じ飯場の催本という男だった。

 以前から働きに来ていた技術者で、監督さんからも重宝されている二十歳そこそこの若者だった。

 松代に来るまでに、様々な職に就きながら各地の現場を渡り歩いてきたらしい。

 穴堀の技術も巧みで、わたしら仕事に慣れない者たちにも、的確に指示をくれた。

 天井の落盤が起きそうな箇所を正確に見極めることができ、催本くんが枠入れの位置を決めた穴で落盤事故が起きたことがなかった。

 催本くんは、息子より二つか三つ年上に見えた。

 普段は無口で不愛想だが、時々わたしの体調を気に掛けてくれるような思いやりを持つ青年である。

 四か月間、ともに過ごすなかで、しだいに催本くんに息子の面影を重ねていた。


「腹が減っているのは、お互い様だろ。わたしは、どうせ長くないのだから、気を遣わんでくれ」


 魚の切れ端を渡そうとする彼を押しとどめる。

 傍から見ても、わたしはよほどやつれて見えるのだろう。

 しかし、大半は己自身が生きていくので精一杯で他人の心配など誰もしない。

 そんな中で催本くんの言動は異質であった。


「じいさん、家族は故郷かい」


 押し返したホッケを咀嚼しながら、催本くんは尋ねた。


「女房と息子を残してきた。息子の代わりに徴用を受けたが、その判断は正しかったよ。わたしに似て息子は体が丈夫ではないからな」


 天窓の外をふと見上げた。


「生きて帰ってやんねえとな」


 催本くんも、同じように外に視線を向けた。


「君も待っている人がいるんじゃないのか」


「いや、末っ子だから両親の面倒はほかの兄弟が見てくれているさ。わしは実家の貧乏が嫌でこっちに逃げてきたようなもんだから、誰も待ってやいないさ」


 夕餉を終えた催本くんは、ゴールデンバットに火を点けながら続ける。


「小作人の家に生まれたから、学校に行く金もねえ。地主のとこで働くのが嫌になって、十六で故郷を飛び出してこっちに来ちまった。戻っても、どんな顔して両親に会えばいいか、分かんねえのさ」


 そう言う催本くんの横顔は、寂し気に見えた。


「じいさん、あんたは違うんだろ」


 短くなったゴールデンバットを、年季の入った地下足袋の踵で踏みにじると、催本くんは飯場の外へと立ち去って行った。


 それから一月ほど経っただろうか。

 あれ以来、肉はおろか、魚すら食膳に出ることはなかった。

 朝、目が覚めると、頭ががんがんと痛み、息をするのも苦しかった。

 腕を持ち上げようとしても力が入らず、全身が己でない物質にでもなったかのように重かった。

 周りに人の気配はなかった。

 おそらく、すでに現場に出たのだろう。

 恐ろしいほど静かだった。 

 わたしも行かねばならない。

 さもなければ殺されてしまう。

 そう思うが、高熱を発する体は動かなかった。


 そこへ、ずかずかと靴音を鳴らしながら、誰かが三角兵舎に入ってきた。

 次の瞬間、布切れ同然の布団が、荒々しくめくられた。


「お前、いつまで休んでるんだ。早く現場に出てこい」


 地から腰あたりまではあろう棒を、激しく床に叩きつけながら、男が怒鳴った。


「監督さん、体がだるくて動かんのです」


 辛うじて動いた口で告げるも、男は聞く耳を持たない。


「軍命令の仕事に出ないとは、お前は国賊か」


 男は棒を振り上げ、己を打擲しようと構えた。


「監督さん、待ってくれ。わしが代わりに出ますから、その人は一日だけ休ませてやってください」


 入口から真っ黒になった顔を覗かせながら、催本くんが言った。


「催本か。お前は朝番で働いてきたんじゃないのか」


 振り上げていた棒を下ろしつつ、催本くんの方を向きながら監督さんが言う。 

 徴用で連れてこられたわたしとは違い、穴掘りの技術者である催本くんに対しては、いくらか態度が柔和になった。


「催本くん……」


 かまうなと首を横に振るわたしを無視して、催本くんは、


「わしは大丈夫ですから、そのじいさんは休ませてあげてください」


 そう言い残すと、催本くんは、再び小屋の外へと向かった。 

 監督さんもわたしを一瞥すると、その場から立ち去った。

 悔しかった。

 惰弱な己の体を恨み、病人を無理やり仕事に繰り出そうとする監督さんを憎み、巨大な穴を掘らねばならない戦争とやらを呪った。

 それから、視界が靄のかかったように霞みはじめ、徐々に意識が遠のいていった。


 夢を見た。

 四方を山に囲まれた田園風景が広がっている。

 わたしは畔道に立って、風の吹き渡る長閑な故郷の景色を眺めていた。

 水の張った田んぼに息子が、額の汗をぬぐいながら稲をひとつひとつ丁寧に植えている。

 ふと顔を上げた息子が、わたしのほうに気がついた。

 口角が上がり柔和な笑みが、息子の顔に浮かんだ。

 わたしは衝動的に走り出していた。

 沼に足を取られ、笑顔を向ける息子に近づくことができない。

 藻掻くわたしを嘲笑うかのように、一陣の風が吹き抜けた。

 再び顔を上げると、息子がいたところにその姿はなく、代わりに催本くんが立っていた。

 おかえり。

 催本くんの口は、そう言ったように見えた。

 わたしは安堵した。

 夢の中で、さらに深い眠りに落ちていくのに、わたしは身を任せていった。


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