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岩陰の語り部 2

 薄暗い。

 五歩先にいる仲間の顔さえもはっきりと見えない。

 声を掛け合わなければ、そこにいるのが誰であるかも判別できない。

 足元の岩石を、頭上に引っ掛けたカンテラの淡い灯りが照らし出していた。

 弱く頼りない灯りだが、穴の中ではそれだけが己の立っている場所を示してくれる光だった。

 不快な湿気が全身にまとわりつき、汗が滝のように噴き出してくる。

 腕の筋肉が悲鳴を上げる。

 それでも鶴嘴を振り上げなければならない。

 鶴嘴を振り上げる。

 降ろすときはそれほど力を入れない。

 岩に当たる瞬間に、真っすぐに力が加わるように調整する。

 細かくした岩は、他の仲間がスコップでトロッコへ積み、穴の外へと捨てに行く。

 流れ作業の中でひとりひとりが動いている。

 一か所でも遅れるとほかの作業も遅延してしまう。

 疲れたからと言って手を止めようものなら、監督さんの棒が飛んでくる。

 監督さんは、軍の命令に従えないというのか、国の命令に従わない者は非国民である、と言って我々を容赦なく打擲するのである。 


 掘り進めている山の名は象山というらしく、日本一の倉庫として使用されるらしい。

 それ以外のことは、知らされていなかった。

 雇われた労働者たちは、軍部からの命令で土木会社が請け負った仕事を従順にこなすだけだった。


 喉が渇いた。

 眩暈がする。

 しかし、休むことはできない。

 殺されてしまうからだ。

 賃金のためでもあったが、生きるには手を止めることは許されなかった。


 今日、常にも増して体調が悪いのには理由があった。

 昨日の夜勤終わりに、飯場で仲間と共に濁酒を呑み過ごしたのがいけなかった。

 仲間の大半は、己と同じく徴用で連れて来られた者だった。


 徴用は突然の出来事だった。

 軍属や炭鉱への徴用が行われていることは知っていたが、あまりにも唐突だった。

 警察官であろう二人の男が、家に押しかけ強引に己をトラックの荷台に詰め込んだのである。

 まるで資材でも運ぶような手荒さであった。

 トラックから船へ、それから列車に乗り換え、着いたのが松代駅であった。

 再びトラックに乗り、象山の飯場に連れてこられたのだ。


 それから三月ばかりが経とうとしていた。

 着いた初日から現場で働かされた。

 地獄に来たか、と思った。

 鶴嘴を振る手を止めれば殴られ、故郷の言葉で話をすると蹴られた。

 飯場の三角兵舎と呼ばれるバラックは粗末な造りで、隙間風がやたらと吹き入り、疲れているにも関わらず凍えてろくに眠れない。

 夜、用を足しに外へ出ると、監視の者がいて、見つかると脱走を疑われて殴られた。

 一番辛いのは、食事である。

 コウリャン米に沢庵ひとつ、それに塩で味付けした具のない薄い味噌汁が一日三食であった。

 同じ飯場には、栄養失調になり寝たきりになってしまった老人もいた。

 米はなくても濁酒と砂糖だけは余るほど支給された。

 それでも濁酒が足りなくなれば、近隣の住民に頼んで砂糖と交換して分けてもらう。

 地獄である。

 呑まなければやっていられない。

 だから、翌日の仕事に支障をきたすと分かっていても、なかばやけっぱちで呑む。

 そして、苦しい現実から少しでも目を背けたかった。


 昨日はいつにもまして量が多かった。

 目が覚めると頭が弾けんばかりに痛んだ。

 飯場から現場に向かう道中、胃に出すものもないのにえずきが止まらない。


「よお、今から現場かい。ふらついてるが大丈夫か」


 正面から来た、仕事終わりの男が、こちらに声をかけてきた。


「兄さん、朝番だったのですね。昨日は飲みすぎてしまいまして。でも、休めないですから」


 出身が隣村で、子供のころは頻繁に遊んでもらっていた兄のような存在の男だった。

 今では催本と名乗っているらしい。

 松代に来るまで、すっかり兄さんのことなど忘れていたのだが、まさか故郷から遠く離れた僻地で再び邂逅しようとは夢にも思わなかった。

 兄さんは、己が働いている穴の隣を担当していた。


「お前、そんなに酔っぱらってちゃ辛かろうから、今日は休めよ。お前の代わりにわしが現場に出てやる。監督さんにはわしから話しとくから」


 汗と土と油で真っ黒に汚れた顔を和らげながら、兄さんは言った。


「そんなことしたら兄さんが倒れちまう。それに飲み過ぎたから休んだなんて監督さんに知れたら、殺されちまう」


 決して比喩ではなかった。

 そのことは兄さんも知っているから、


「自分から言うのが嫌ならわしが頼んでやる。そんなにふらついてちゃ、現場じゃ命取りになるぞ」


 兄さんは優しくも威厳の籠った声で言った。

 しかし、掘削作業は二十四時間ぶっ通しで働けるほど生易しいものではない。

 少しの気の緩みでも大怪我に繋がりかねないのは、己より腕の立つ兄さんも同じだろう。


「いや、兄さんには迷惑かけられねえ」


 行く手を遮るのを振り払って、現場に向かう己に、


「駄目だ、お前は飯場に戻って休め」


 それだけ言い残すと、兄さんはこちらに背を向けて監督さんのもとへ駆け出して行ってしまった。

 故郷にいた頃から親しい仲だったが、松代に来てからはより一層、己の面倒をよく見てくれるようになった。

 先にこちらへ稼ぎに来て現場で働く苦しさを経験し、同じ境遇に落ちた己に同情してくれているのだろう。

 だからこそ、迷惑をかけるわけにはいかなかった。

 兄さんが己に代わって現場に出たことが監督さんに知れれば、暴力を振るわれるのは己だけではない。


 遠のいていた意識を目の前の岩に集中させる。

 鶴嘴を振り下ろし、岩を細かく砕く。

 しばらくすると、後方から空になったであろうトロッコが、こちらに近づいてくる音が聞こえてきた。


「少しどいてくれ、ジャッキを設置する」


 一服から戻ってきた二人の男のうちの一人が、トロッコからジャッキを下ろしながら言った。

 二人はドリルで岩壁に穴を穿つ熟練の技術者である。

 ドリルを扱う作業は、松代に来るまでにほかの現場で経験を積んできた労働者の仕事だった。

 兄さんもこれまでに何年も危険な現場で働き、穴掘りの技を身につけてきた技術者の一人だった。

 二人の男に場所を譲りながら腕を揉む。

 隣の現場からドリルの騒音が聞こえてきた。


「隣はもう穴もみをはじめてやがる。こちらも急ぐぞ」


 ジャッキのハンドルを回しながら、カンテラに照らされた男が誰に言うでもなく言った。

 ドリルは二人がかりで支えながら持ち、戦端のノミで岩壁に穴を空けていく。

 その穴にダイナマイトを仕掛けて爆発させて、隧道を掘っていくのだ。

 ドリルに空気を送るコンプレッサーの重低音が洞に轟く。

 次の瞬間には、ノミが穴をこじ開ける鋭い音が覆いかぶさった。

 砂埃が暗い地の底に揺蕩う。


「ぼけっとしてないで、手を動かせ」


 いつの間にか背後に立っていた監督さんが、周囲の騒音に負けないほどの怒声を己に浴びせた。

 監督さんの立ち去る気配を背中で感じながら、再び鶴嘴を振りかぶる。

 直後、僅かだが頭上で鈍く乾いたような音が聞こえた。

 天井を見上げたが、変わった様子はない。

 気のせいかと鶴嘴の柄を握り直す。

 重労働に加え二日酔いが祟って、耳までおかしくなったのか。

 やはり今日だけは兄さんに甘えてもよかったのかもしれない。

 かさり、と天井から落ちてきた砂塵が肩に降りかかった。

 見上げた。

 瞬間、天井が丸ごと大きな音を立てて目前に迫ってきた。

 それはひどくゆっくりに見えた。

 巨大な岩は視界をまるごと遮り、己の体を圧し潰した。

 最期に、己の前を立ち去って行った兄さんの、優しくも逞しい背中が視界に映った気がした。



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