黒水の部屋【夏のホラー2025】
葉月まさみは、重たい段ボール箱を廊下に引きずりながら、小さく息を吐いた。
新しい生活の始まり。
高校一年生。地元から離れて、親戚のいない町で一人暮らしをすることになったのは、母親の再婚と、まさみの「自立心」が原因だった。
「一人暮らしなんて、まさみちゃん偉いわね」
担任や近所の人は口を揃えてそう言ったけれど、実際はそんな綺麗なものじゃなかった。
母に遠慮して、新しい父親の目を避けて、逃げるようにしてここに来たのだ。
アパートの名は〈橘荘〉。築五十年近い木造二階建て。
古びた外観に、ぎしぎしと軋む階段、誰もいないのにどこか湿っぽい廊下。
部屋は二階の一番奥、201号室。
「……ちょっと、カビ臭い……?」
荷物を運び終えた後、部屋に入った瞬間、まさみは鼻をしかめた。
壁紙の継ぎ目には黒い筋のようなものが浮き、畳の隅はじっとりと湿っていた。
風通しが悪いのか、どこか井戸の底のような、こもった空気が漂っている。
キッチンの蛇口をひねる。
途端に、ゴボッ、ゴボボッ……と鈍く濁った音が鳴り、茶色く濁った水が少しのあいだ吹き出した。
水はすぐに透明になったが、何か微かな臭いが鼻についた。
まるで、魚が腐ったような……生臭さに硫黄の混じったような臭い。
「浄水器、買わなきゃ……」
そう呟いて、キッチンの下を開けると、排水溝のフタの周囲に、長い黒髪が絡みついていた。
まさみのものではない。
彼女は肩までのボブヘアで、染めてもいない。
明らかにそれは、腰まで届くような異様な長さだった。
「……管理人さんに言ったほうがいいかな……」
スマホを手にして、ためらう。
だが、その時。
――チャポン。
台所のシンクから、水音がした。
蛇口は閉めたはずなのに。
見ると、排水口から水が逆流して、ゆっくりと湧き上がってきていた。
「えっ……うそ……」
濁った黒水がじわじわと溢れ、シンクの縁に触れる。
反射的にタオルで押さえようと手を伸ばした瞬間――
ズルッ……
水の中から、一本の黒髪がヌルリと這い出してきた。
それはまさみの手に絡みつき、冷たく、ざらついていた。
「――ッ!」
思わず悲鳴を上げて手を振りほどく。
だが、髪はシンクの縁に絡まりながら、なおもじわじわと這い出してきた。
まさみはバスルームへと駆け込んだ。
心臓が喉を突き上げるように脈打っていた。
古びたユニットバスの床もまた、湿っている。
排水口をふと見ると、そこにも髪の毛の束が詰まっていた。
「もう、やだ……」
まさみは便座に腰を下ろして、スマホを握りしめた。
誰かに助けを求めたかった。だが、母に連絡すればきっと「もう帰ってきなさい」と言われるだろう。
それだけは嫌だった。
だからその夜は、耐えることにした。
だが、悪夢は夜中にやってきた。
時計が午前二時を回った頃。
寝苦しさで目を覚ます。
部屋の中が異様に湿っている。
まるで風呂場の中にいるような重たい空気が漂っていた。
それだけではない。
ポタ……ポタ……チャポン……
水音がする。
起き上がって暗がりの中に目を凝らす。
――黒い水が、部屋の隅から、ゆっくりと染み出してきていた。
「……え?」
水は畳の目から滲み出してくるように見えた。
そして、畳の隙間から、またしても長い髪の毛が、ぬるりと這い出している。
床一面に黒水が広がる。
まさみは悲鳴を上げて布団から飛び退いた。
だが、足元の水がぬるりと肌を撫でる。
熱くも冷たくもない――ただ異様な感触だった。
そして、水面に、何かが浮かび上がってきた。
白い肌。
濡れそぼったセーラー服。
長い黒髪を顔に貼りつかせ、首だけをぐにゃりと傾けた少女が、水面の中からゆっくりと顔を上げてくる。
目が、合った。
その顔には、目がなかった。
黒くえぐれた眼窩から、黒水がポタポタと垂れている。
「――ぁぁぁああああッ!!」
まさみは部屋の隅に逃げようとした。
だが水はすでに膝まで達し、足が取られる。
幽霊の少女は、笑った。音もなく、口元だけがにやりと歪む。
そのまま、黒水の中を泳ぐように――跳ねるように近づいてくる。
腕が伸びた。
その手が、まさみの足首をつかむ。
冷たい。粘りつく。腐った魚のような臭いが鼻を刺す。
「やだッ!やだッやだやだ――ッ!!」
必死に振りほどこうとするが、力が入らない。
腕はどんどん引っ張られる。
――このまま、水の中に引きずり込まれる。
頭にそんな言葉が浮かんだとき。
――ドン!ドン!ドン!
誰かが玄関のドアを叩いた。
「葉月さん!?大丈夫ですか!?近所の者ですけど、なんか……水漏れしてるって……!」
まさみが顔を上げた瞬間、部屋の景色が一変した。
黒水も、幽霊も、影もない。
ただ、濡れた畳と、自分の悲鳴だけが残されていた。
◆
翌朝。
管理人が業者を呼び、配管を見てもらったが「異常はなかった」と言われた。
水道も下水も正常。髪の毛も「排水トラップに少し詰まっていただけ」とのことだった。
「でも……見たんです……本当に、水が……黒い水が……!」
まさみの訴えは、苦笑いで流された。
大家も業者も、疲れた顔をして首を傾げるだけだった。
ただ、帰り際、業者の一人がまさみにこっそりと話しかけてきた。
「……この部屋、ちょっと変なんですよ。俺、前にも呼ばれたことあって。やっぱり、水が溢れるとか……髪の毛が出てきたとか……」
「え……」
「でもね、そのときの住人……女子高生だったけど、ある日、風呂で――」
言葉を飲み込んだまま、業者は黙った。
まさみは、部屋の中を見つめた。
その時、台所の排水口から、ポタ……ポタ……と、また水音が響いた。
あの臭いが、わずかに鼻をかすめた。
――腐った魚と、硫黄の臭い。
まさみは、その夜もまた、眠れなかった。
あの夜から、まさみは蛇口をひねるたびに息を止めるようになった。
キッチンの水も、風呂の水も、いったんコップに受けてから光に透かす――それが日課になった。
黒く濁った水はもう出てこなかった。だが、ときおり髪の毛のような細い線が混じっていることがあった。
濡れたコップの縁に沿って、張りつくように伸びている、誰かの髪の毛。
そして、夜になると、あの臭いが再び部屋に満ちる。
魚の腐ったような臭気と、鼻の奥を焼くような硫黄の刺激。
まるで温泉地に捨てられた死体のような匂いだった。
だが、まさみは学校では何事もないように振る舞った。
人に話しても信じてもらえない。
「一人暮らしが怖くて幻覚を見たんじゃないか」と笑われるだけだ。
だから黙っていた。
誰にも言わず、誰にも見せず、ただ一人で夜を乗り切る。
それが、まさみの戦いだった。
◆
四日目の夜。
ふと、妙なことに気がついた。
風呂場の鏡に、触ってもいないのに指の跡が浮かんでいる。
しかも、それは明らかに逆向きだった。
まるで、鏡の内側から誰かが触れたように、湿った指の跡が五本。
「……ふざけないで……」
だが、震える指でその跡を拭き取ろうとしたとき――
スッ――と、鏡の中で何かが動いた。
まさみは固まった。
鏡の奥に、ぼんやりと白い影。
それは、後ろに立つ誰かの輪郭のように見えた。
すぐ後ろに……誰かがいる。
けれど、振り返っても、そこには誰もいない。
再び鏡を見ると、白い影はもういなかった。
心臓が跳ねた。汗が背中をつたう。
だがそれ以上に、まさみの目を奪ったものがある。
鏡の下の曇りガラス――そこに、なにか文字が浮かんでいた。
蒸気のなか、ゆっくりと現れていくそれは、明らかに人の指で書かれたものだった。
「わたしの かわり」
「……なに……これ……?」
まさみは思わず後ずさった。
バスタオルを落としそうになるのも構わず、床に膝をついて鏡を見つめる。
――わたしのかわり。
まさみはその言葉を呟いて、頭の中が空白になるのを感じた。
その瞬間――
排水口から、水音が響いた。
ポタ……ポタ……チャポン……
まるで、風呂の底が抜けているような音。
そして、まさみの視界の隅で、水面がわずかに揺れた。
「……いや……来ないで……」
声にならない声を上げて、まさみはバスルームから飛び出した。
蛇口も電気もそのままに、ただ、ドアを閉めることしかできなかった。
だが、ドアの向こうから、聞こえてくる。
ザリ……ザリ……
床を這うような、水の音と、何かが引きずられる音。
ドアの下の隙間から、黒い水が、じわりと滲み出してきていた。
水ではない。
粘り気のある液体だった。
まさみはその水に指を触れて、ようやく気づいた。
それは、水ではない。
――血だ。
◆
翌日、学校で調べ物をしていたまさみは、ふと図書室の片隅に古びた冊子を見つけた。
地元の古い新聞の縮刷版。
中に、十年前のある記事が目にとまった。
「女子高生、アパート浴室で水死 不可解な状況に地元困惑」
読み進めるうちに、まさみの手が震え出した。
――発見されたのは、浴槽の中でうつ伏せになっていた少女の遺体。
水は張られておらず、浴槽には髪の毛が大量に詰まっていた。
死因は溺死だが、水がない浴槽でどうやって溺れたのかは不明。
死後も排水溝から髪の毛が溢れ続け、配管が詰まったために遺体が見つかったという。
部屋番号――201号室。
まさみの足元から、音もなく冷気が這い上がってくるようだった。
あの部屋で、誰かが死んでいた。
黒い水の中に現れたあの少女。
まるで、鏡の奥から覗いていた白い瞳。
――「わたしのかわり」
その言葉の意味が、まさみの胸にじわじわと染み込んでくる。
あの少女は、部屋に閉じ込められたままなのだ。
誰にも見つけてもらえず、水と髪と腐臭だけを残して。
そして今――
“代わり”を探している。
◆
その夜。
まさみは玄関に靴を置いたまま、布団にくるまっていた。
部屋の隅から、水音がする。
黒水がまた滲み出してくる。
ドアの向こう、台所、風呂場、あらゆる排水口から、髪の毛が伸びてくる。
彼女は動けなかった。
恐怖で、体の芯まで凍りついていた。
――ふと、押し入れが、ギイ……と音を立てて、開いた。
中から、濡れた制服の袖が見えた。
そして次の瞬間、黒水の中からぬっと現れた幽霊の少女が、まさみに覆いかぶさるように、這い出してきた。
その顔が、すぐ目の前にある。
腐った瞳。えぐれた眼窩。
笑っている、口元だけが、不自然に吊り上がっている。
少女の唇が動いた。
「――これで……もう、ひとりじゃない」
まさみの悲鳴は、部屋の中に吸い込まれて、消えていった。
翌朝、目を覚ましたまさみは、濡れた布団の中で息を飲んだ。
全身が冷えきっていた。
首元には泥のようなぬめり。指には、黒髪が絡みついていた。
だが部屋にはもう黒水は見当たらず、静寂だけが漂っている。
――夢だった?
そう思いたかった。
けれど、畳の上にしっかりと残る濡れた足跡が、その希望を砕く。
細く、小さな足跡。
まるで、あの幽霊の少女がまさみの枕元まで歩いてきていたように。
ぞっとして、スマホを握る手が震える。
だが何度見ても、時間は早朝を指していた。
確かに、ここに彼女はいた。
◆
その日、学校でまさみは図書室の司書教諭に声をかけた。
「あの、昔……橘荘ってアパートで、事故とか事件とか、ありませんでしたか?」
教師は少し黙った後、苦笑して言った。
「……あそこね。たしか10年くらい前に女の子が亡くなったって聞いたけど……あまり深入りしないほうがいいわよ」
「どうして……?」
「昔から、あそこは“出る”って有名だったの。特に201号室……。学生寮として貸し出されたときも、何人か引っ越していったし。今の大家さんも、あまり話したがらないのよ」
まさみの手が冷たくなる。
言い伝えじゃない。都市伝説でもない。
本当に、何かがそこにいる。
「その……亡くなった女の子の名前とか、わかりますか?」
「たしか……柚木沙耶ちゃん。あの時も高校一年生だったと思う」
――柚木沙耶。
まさみは、その名前を心の中で繰り返した。
まるで呪文のように。
鏡の文字、「わたしのかわり」の言葉が脳裏でにじむ。
まさみはその名を頼りに、地域の図書館で事故の記録を探した。
古い記事には、こうあった。
「死亡当時、柚木沙耶さんは自宅アパートにて一人暮らし。
遺体は浴槽の中で発見。水はほとんどなかったが死因は溺死。
事故ではなく自殺と断定されたが、動機は不明。遺書などもなし」
写真は掲載されていなかったが、手書きの見出しには赤いペンでこう書き込まれていた。
「遺体の口の中から、髪の毛が束で見つかった」
まさみは身震いした。
“水がないのに溺れた”――自分が体験した“黒水”の中の光景と酷似している。
これは偶然ではない。
柚木沙耶は、死後もこの部屋に取り残されたままなのだ。
そして、自分を“代わり”にしようとしている――。
◆
その夜。
まさみは引っ越しの準備を始めた。
もう限界だった。
これ以上、この部屋にいることはできない。
だが、段ボールに服を詰めている最中、クローゼットの奥からカタ……カタ……と物音がした。
耳を澄ます。
何かが揺れている音。
恐る恐る戸を開けると――
奥の壁に、不自然な板張りがあった。
打ち付けられたような跡。古びた釘。
まさみはドライバーを使ってそれを剥がした。
中から出てきたのは、小さな木箱だった。
埃にまみれ、封じられたように隠されていたその箱。
開けてみると、内側には黄ばんだ写真、破れかけた制服、そして――
切られた黒髪の束。
まるで、それは誰かの一部を封じるかのように、大切にしまわれていた。
まさみはその写真を手に取る。
写っていたのは、セーラー服姿の少女。
笑っていた――けれど、その目は真っ白に塗りつぶされていた。
その瞬間――
風呂場から、水の音が響いた。
まさみは顔を上げた。
水音が、壁の中から、天井から、部屋のどこかすべてから鳴り響く。
部屋全体が、沈んでいくような圧力に包まれた。
ドアを開けようとするが、開かない。
窓も、動かない。
部屋中から、チャポ……チャポ……という音が近づいてくる。
足元を見ると、また黒水が滲み出してきていた。
まるで、床下に湖があるかのように――。
その水の中から、沙耶の手が現れる。
白く濁った肌。爪は欠け、指先から黒水が滴っていた。
続いて、首。顔。歪んだ口元。
そして、口が開いた。
「わたしを……わすれないで」
まさみの意識が、闇に飲み込まれていった。
◆
目を覚ますと、部屋は静まり返っていた。
黒水も、沙耶の姿もない。
ただ、枕元にあの木箱だけが、ぽつりと置かれていた。
その上には、破れた写真の一部。
真ん中にこう書かれていた。
「きっと、あなたはわかってくれると思った」
まさみは、その言葉を見て、泣いた。
恐怖でも、絶望でもない。
――彼女の孤独が、胸に刺さったのだ。
助けを求める声が、ずっとこの部屋にこだましていた。
誰にも届かず、長い時間を黒水の中で待ち続けた少女の声。
それでも、まさみにはまだ逃げる術がある。
彼女は、まだ生きている。
だが――
“一度、黒水に触れた者は、逃げ切れない”
そう、まさみの耳元で、誰かが囁いたような気がした。
月の光が窓に射し込んでいた。
だが、その光は、もう“普通の夜”のものではなかった。
窓ガラスはうっすらと黒い水の膜に覆われ、まるで外の世界まで濁っているように見えた。
まさみは、震える手で木箱を布に包み、リュックに押し込んだ。
これ以上、この部屋に留まっていたら、本当に戻れなくなる。
「もう……帰る…… ここから……出る……」
まさみは玄関に向かって歩き出した。
廊下に足を踏み出す。
だが――ぬるりとした感触が足元に這い寄る。
足元から湧き出すように、再び黒水が染み出してくる。
「やだ……っ、いやだ……!」
泣き声混じりに叫びながら、まさみは階段を駆け下りた。
1階まで降りると、外の扉に手をかけ――
開かない。
「なんで……っ、なんで開かないの……!」
ガチャガチャと錠を回すも、ドアはぴくりとも動かない。
扉の隙間から、黒水がにじみ出していた。
そのとき、背後。
二階から、ぎぃ……っ、ぎぃ……っという足音が聞こえてきた。
それは、人のものではなかった。
水音のように、べちゃり、べちゃり、と床を濡らしながら、ゆっくり、確実に下りてくる。
まさみは反射的に隣の部屋。
空き室だと思っていた101号室のドアノブをひねった。
――開いた。
◆
部屋の中は真っ暗だった。
まさみは手探りで明かりを探し、壁のスイッチを押す。
点いた明かりの下には、誰かが暮らしていた痕跡がそのまま残っていた。
テーブル、椅子、カーテン。
洗面台のコップ。
しかし、どれも埃まみれで、何年も手入れされていないように見える。
「……誰か……いたの……?」
床の隅に、濡れた足跡がある。
それはまさみのものではない。もっと小さくて、裸足のまま、部屋の奥へ続いていた。
まさみはふと視線を上げる。
押し入れの戸が半開きになっていた。
その隙間から――黒髪が垂れていた。
「――っ……!」
後ずさりした瞬間、背後のドアがバタン!と閉まった。
暗い部屋の中に閉じ込められたまま、まさみは息を詰める。
そのとき、押し入れの奥から、しゃくりあげるような泣き声が響いた。
「……ま……まま……さみ……?」
それは、自分の名前だった。
聞き覚えのある声――
だが、自分の声だった。
まさみは血の気が引いた。
押し入れの奥にいる“それ”は、まさみ自身の声で、自分を呼んでいた。
「ま……さ……み……こっちに……おいで……」
押し入れの戸が、ギイイイ……と勝手に開いていく。
その奥――
真っ黒な水面が広がっていた。
そこには鏡のように自分自身の姿が映っていた。
笑っている。
だが、それは確かに、笑っていない目だった。
その“まさみ”が、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
水面から、現実の空間に手が侵食してくるように。
「ねえ……入れ替わろうよ」
「わたしが……かわってあげるから」
「あなたはもう疲れたでしょ……?」
◆
まさみは全力で部屋を飛び出した。
階段を駆け上がり、再び201号室へ。
あの木箱――柚木沙耶の遺品がこの呪いの核なら、返すべき場所はここしかない。
部屋に入った瞬間、世界が変わった。
空気が重い。
黒水が壁を伝って垂れてくる。
天井からも、滴が落ちる。
その中央に、少女が立っていた。
――柚木沙耶。
制服姿。長い黒髪。
目のない顔。口元だけが、静かに笑っている。
だがその瞳に、なにか哀しげな色が浮かんでいるように見えた。
まさみは、震える手で木箱を差し出した。
「これ……あなたの、でしょ……?」
沙耶は無言のまま、ゆっくりとうなずいた。
そして、水面の中へとゆっくり沈んでいく。
その姿が完全に黒水の中に溶けた瞬間――
水が、止まった。
音が、消えた。
壁の染みも、床のぬめりも、いつのまにかなくなっていた。
ただ、まさみの手の中にあった木箱だけが、濡れて朽ちたように崩れていた。
数日後、まさみは部屋を引き払い、実家に戻った。
母と義父のぎこちない空気にも、今は安堵を覚える。
201号室には、もう誰も住んでいない。
だが、あの部屋のドアの隙間から――
黒い水が、わずかに滲み出していた。
誰かが新たに入居したとき、また、あの声が囁くかもしれない。
「わたしの かわり」