表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

黒水の部屋【夏のホラー2025】

作者: 江渡由太郎

 葉月まさみは、重たい段ボール箱を廊下に引きずりながら、小さく息を吐いた。


 新しい生活の始まり。

 高校一年生。地元から離れて、親戚のいない町で一人暮らしをすることになったのは、母親の再婚と、まさみの「自立心」が原因だった。


「一人暮らしなんて、まさみちゃん偉いわね」

 担任や近所の人は口を揃えてそう言ったけれど、実際はそんな綺麗なものじゃなかった。

 母に遠慮して、新しい父親の目を避けて、逃げるようにしてここに来たのだ。


 アパートの名は〈橘荘〉。築五十年近い木造二階建て。

 古びた外観に、ぎしぎしと軋む階段、誰もいないのにどこか湿っぽい廊下。

 部屋は二階の一番奥、201号室。


「……ちょっと、カビ臭い……?」


 荷物を運び終えた後、部屋に入った瞬間、まさみは鼻をしかめた。

 壁紙の継ぎ目には黒い筋のようなものが浮き、畳の隅はじっとりと湿っていた。

 風通しが悪いのか、どこか井戸の底のような、こもった空気が漂っている。


 キッチンの蛇口をひねる。

 途端に、ゴボッ、ゴボボッ……と鈍く濁った音が鳴り、茶色く濁った水が少しのあいだ吹き出した。

 水はすぐに透明になったが、何か微かな臭いが鼻についた。

 まるで、魚が腐ったような……生臭さに硫黄の混じったような臭い。


「浄水器、買わなきゃ……」


 そう呟いて、キッチンの下を開けると、排水溝のフタの周囲に、長い黒髪が絡みついていた。


 まさみのものではない。

 彼女は肩までのボブヘアで、染めてもいない。

 明らかにそれは、腰まで届くような異様な長さだった。


「……管理人さんに言ったほうがいいかな……」


 スマホを手にして、ためらう。

 だが、その時。


 ――チャポン。


 台所のシンクから、水音がした。

 蛇口は閉めたはずなのに。

 見ると、排水口から水が逆流して、ゆっくりと湧き上がってきていた。


「えっ……うそ……」


 濁った黒水がじわじわと溢れ、シンクの縁に触れる。

 反射的にタオルで押さえようと手を伸ばした瞬間――


 ズルッ……


 水の中から、一本の黒髪がヌルリと這い出してきた。

 それはまさみの手に絡みつき、冷たく、ざらついていた。


 「――ッ!」


 思わず悲鳴を上げて手を振りほどく。

 だが、髪はシンクの縁に絡まりながら、なおもじわじわと這い出してきた。


 まさみはバスルームへと駆け込んだ。

 心臓が喉を突き上げるように脈打っていた。


 古びたユニットバスの床もまた、湿っている。

 排水口をふと見ると、そこにも髪の毛の束が詰まっていた。


「もう、やだ……」


 まさみは便座に腰を下ろして、スマホを握りしめた。

 誰かに助けを求めたかった。だが、母に連絡すればきっと「もう帰ってきなさい」と言われるだろう。

 それだけは嫌だった。


 だからその夜は、耐えることにした。


 だが、悪夢は夜中にやってきた。

 時計が午前二時を回った頃。


 寝苦しさで目を覚ます。


 部屋の中が異様に湿っている。


 まるで風呂場の中にいるような重たい空気が漂っていた。


 それだけではない。


 ポタ……ポタ……チャポン……


 水音がする。


 起き上がって暗がりの中に目を凝らす。


 ――黒い水が、部屋の隅から、ゆっくりと染み出してきていた。


「……え?」


 水は畳の目から滲み出してくるように見えた。


 そして、畳の隙間から、またしても長い髪の毛が、ぬるりと這い出している。


 床一面に黒水が広がる。


 まさみは悲鳴を上げて布団から飛び退いた。


 だが、足元の水がぬるりと肌を撫でる。


 熱くも冷たくもない――ただ異様な感触だった。


 そして、水面に、何かが浮かび上がってきた。


 白い肌。


 濡れそぼったセーラー服。


 長い黒髪を顔に貼りつかせ、首だけをぐにゃりと傾けた少女が、水面の中からゆっくりと顔を上げてくる。


 目が、合った。


 その顔には、目がなかった。


 黒くえぐれた眼窩から、黒水がポタポタと垂れている。


 「――ぁぁぁああああッ!!」



 まさみは部屋の隅に逃げようとした。


 だが水はすでに膝まで達し、足が取られる。


 幽霊の少女は、笑った。音もなく、口元だけがにやりと歪む。


 そのまま、黒水の中を泳ぐように――跳ねるように近づいてくる。


 腕が伸びた。


 その手が、まさみの足首をつかむ。


 冷たい。粘りつく。腐った魚のような臭いが鼻を刺す。


「やだッ!やだッやだやだ――ッ!!」


 必死に振りほどこうとするが、力が入らない。


 腕はどんどん引っ張られる。


 ――このまま、水の中に引きずり込まれる。


 頭にそんな言葉が浮かんだとき。


 ――ドン!ドン!ドン!


 誰かが玄関のドアを叩いた。


「葉月さん!?大丈夫ですか!?近所の者ですけど、なんか……水漏れしてるって……!」


 まさみが顔を上げた瞬間、部屋の景色が一変した。


 黒水も、幽霊も、影もない。


 ただ、濡れた畳と、自分の悲鳴だけが残されていた。







 翌朝。

 管理人が業者を呼び、配管を見てもらったが「異常はなかった」と言われた。


 水道も下水も正常。髪の毛も「排水トラップに少し詰まっていただけ」とのことだった。


「でも……見たんです……本当に、水が……黒い水が……!」


 まさみの訴えは、苦笑いで流された。

 大家も業者も、疲れた顔をして首を傾げるだけだった。


 ただ、帰り際、業者の一人がまさみにこっそりと話しかけてきた。


「……この部屋、ちょっと変なんですよ。俺、前にも呼ばれたことあって。やっぱり、水が溢れるとか……髪の毛が出てきたとか……」


「え……」


「でもね、そのときの住人……女子高生だったけど、ある日、風呂で――」


 言葉を飲み込んだまま、業者は黙った。


 まさみは、部屋の中を見つめた。

 その時、台所の排水口から、ポタ……ポタ……と、また水音が響いた。


 あの臭いが、わずかに鼻をかすめた。

 ――腐った魚と、硫黄の臭い。


 まさみは、その夜もまた、眠れなかった。







 あの夜から、まさみは蛇口をひねるたびに息を止めるようになった。


 キッチンの水も、風呂の水も、いったんコップに受けてから光に透かす――それが日課になった。

 黒く濁った水はもう出てこなかった。だが、ときおり髪の毛のような細い線が混じっていることがあった。

 濡れたコップの縁に沿って、張りつくように伸びている、誰かの髪の毛。


 そして、夜になると、あの臭いが再び部屋に満ちる。


 魚の腐ったような臭気と、鼻の奥を焼くような硫黄の刺激。


 まるで温泉地に捨てられた死体のような匂いだった。


 だが、まさみは学校では何事もないように振る舞った。


 人に話しても信じてもらえない。


 「一人暮らしが怖くて幻覚を見たんじゃないか」と笑われるだけだ。


 だから黙っていた。


 誰にも言わず、誰にも見せず、ただ一人で夜を乗り切る。

 それが、まさみの戦いだった。







 四日目の夜。


 ふと、妙なことに気がついた。


 風呂場の鏡に、触ってもいないのに指の跡が浮かんでいる。


 しかも、それは明らかに逆向きだった。


 まるで、鏡の内側から誰かが触れたように、湿った指の跡が五本。


「……ふざけないで……」


 だが、震える指でその跡を拭き取ろうとしたとき――


 スッ――と、鏡の中で何かが動いた。


 まさみは固まった。


 鏡の奥に、ぼんやりと白い影。


 それは、後ろに立つ誰かの輪郭のように見えた。


 すぐ後ろに……誰かがいる。


 けれど、振り返っても、そこには誰もいない。


 再び鏡を見ると、白い影はもういなかった。


 心臓が跳ねた。汗が背中をつたう。


 だがそれ以上に、まさみの目を奪ったものがある。


 鏡の下の曇りガラス――そこに、なにか文字が浮かんでいた。


 蒸気のなか、ゆっくりと現れていくそれは、明らかに人の指で書かれたものだった。


 「わたしの かわり」


「……なに……これ……?」


 まさみは思わず後ずさった。


 バスタオルを落としそうになるのも構わず、床に膝をついて鏡を見つめる。


 ――わたしのかわり。


 まさみはその言葉を呟いて、頭の中が空白になるのを感じた。


 その瞬間――


 排水口から、水音が響いた。


 ポタ……ポタ……チャポン……


 まるで、風呂の底が抜けているような音。


 そして、まさみの視界の隅で、水面がわずかに揺れた。


「……いや……来ないで……」


 声にならない声を上げて、まさみはバスルームから飛び出した。


 蛇口も電気もそのままに、ただ、ドアを閉めることしかできなかった。


 だが、ドアの向こうから、聞こえてくる。


 ザリ……ザリ……


 床を這うような、水の音と、何かが引きずられる音。


 ドアの下の隙間から、黒い水が、じわりと滲み出してきていた。


 水ではない。


 粘り気のある液体だった。


 まさみはその水に指を触れて、ようやく気づいた。


 それは、水ではない。


 ――血だ。







 翌日、学校で調べ物をしていたまさみは、ふと図書室の片隅に古びた冊子を見つけた。


 地元の古い新聞の縮刷版。


 中に、十年前のある記事が目にとまった。


 「女子高生、アパート浴室で水死 不可解な状況に地元困惑」



 読み進めるうちに、まさみの手が震え出した。


 ――発見されたのは、浴槽の中でうつ伏せになっていた少女の遺体。


 水は張られておらず、浴槽には髪の毛が大量に詰まっていた。


 死因は溺死だが、水がない浴槽でどうやって溺れたのかは不明。


 死後も排水溝から髪の毛が溢れ続け、配管が詰まったために遺体が見つかったという。


 


 部屋番号――201号室。


 


 まさみの足元から、音もなく冷気が這い上がってくるようだった。


 あの部屋で、誰かが死んでいた。


 黒い水の中に現れたあの少女。


 まるで、鏡の奥から覗いていた白い瞳。


 ――「わたしのかわり」


 その言葉の意味が、まさみの胸にじわじわと染み込んでくる。


 あの少女は、部屋に閉じ込められたままなのだ。

 誰にも見つけてもらえず、水と髪と腐臭だけを残して。


 そして今――


 “代わり”を探している。







 その夜。


 まさみは玄関に靴を置いたまま、布団にくるまっていた。


 部屋の隅から、水音がする。


 黒水がまた滲み出してくる。


 ドアの向こう、台所、風呂場、あらゆる排水口から、髪の毛が伸びてくる。


 彼女は動けなかった。


 恐怖で、体の芯まで凍りついていた。


 ――ふと、押し入れが、ギイ……と音を立てて、開いた。


 中から、濡れた制服の袖が見えた。


 そして次の瞬間、黒水の中からぬっと現れた幽霊の少女が、まさみに覆いかぶさるように、這い出してきた。


 その顔が、すぐ目の前にある。


 腐った瞳。えぐれた眼窩。


 笑っている、口元だけが、不自然に吊り上がっている。


 少女の唇が動いた。


 「――これで……もう、ひとりじゃない」


 まさみの悲鳴は、部屋の中に吸い込まれて、消えていった。





 翌朝、目を覚ましたまさみは、濡れた布団の中で息を飲んだ。


 全身が冷えきっていた。


 首元には泥のようなぬめり。指には、黒髪が絡みついていた。


 だが部屋にはもう黒水は見当たらず、静寂だけが漂っている。


 ――夢だった?


 そう思いたかった。


 けれど、畳の上にしっかりと残る濡れた足跡が、その希望を砕く。


 細く、小さな足跡。


 まるで、あの幽霊の少女がまさみの枕元まで歩いてきていたように。


 ぞっとして、スマホを握る手が震える。


 だが何度見ても、時間は早朝を指していた。


 確かに、ここに彼女はいた。







 その日、学校でまさみは図書室の司書教諭に声をかけた。


「あの、昔……橘荘ってアパートで、事故とか事件とか、ありませんでしたか?」


 教師は少し黙った後、苦笑して言った。


「……あそこね。たしか10年くらい前に女の子が亡くなったって聞いたけど……あまり深入りしないほうがいいわよ」


 「どうして……?」


 「昔から、あそこは“出る”って有名だったの。特に201号室……。学生寮として貸し出されたときも、何人か引っ越していったし。今の大家さんも、あまり話したがらないのよ」


 まさみの手が冷たくなる。


 言い伝えじゃない。都市伝説でもない。


 本当に、何かがそこにいる。


「その……亡くなった女の子の名前とか、わかりますか?」


 「たしか……柚木沙耶ゆずきさやちゃん。あの時も高校一年生だったと思う」


 


 ――柚木沙耶。


 


 まさみは、その名前を心の中で繰り返した。


 まるで呪文のように。


 鏡の文字、「わたしのかわり」の言葉が脳裏でにじむ。


 まさみはその名を頼りに、地域の図書館で事故の記録を探した。


 古い記事には、こうあった。


「死亡当時、柚木沙耶さんは自宅アパートにて一人暮らし。


遺体は浴槽の中で発見。水はほとんどなかったが死因は溺死。


事故ではなく自殺と断定されたが、動機は不明。遺書などもなし」




 写真は掲載されていなかったが、手書きの見出しには赤いペンでこう書き込まれていた。


 「遺体の口の中から、髪の毛が束で見つかった」


 まさみは身震いした。


 “水がないのに溺れた”――自分が体験した“黒水”の中の光景と酷似している。


 これは偶然ではない。


 柚木沙耶は、死後もこの部屋に取り残されたままなのだ。


 そして、自分を“代わり”にしようとしている――。







 その夜。


 まさみは引っ越しの準備を始めた。


 もう限界だった。


 これ以上、この部屋にいることはできない。


 だが、段ボールに服を詰めている最中、クローゼットの奥からカタ……カタ……と物音がした。


 耳を澄ます。


 何かが揺れている音。


 恐る恐る戸を開けると――


 奥の壁に、不自然な板張りがあった。


 打ち付けられたような跡。古びた釘。


 まさみはドライバーを使ってそれを剥がした。


 中から出てきたのは、小さな木箱だった。


 埃にまみれ、封じられたように隠されていたその箱。


 開けてみると、内側には黄ばんだ写真、破れかけた制服、そして――


 切られた黒髪の束。


 まるで、それは誰かの一部を封じるかのように、大切にしまわれていた。


 まさみはその写真を手に取る。


 写っていたのは、セーラー服姿の少女。


 笑っていた――けれど、その目は真っ白に塗りつぶされていた。


 その瞬間――


 風呂場から、水の音が響いた。


 まさみは顔を上げた。


 水音が、壁の中から、天井から、部屋のどこかすべてから鳴り響く。


 部屋全体が、沈んでいくような圧力に包まれた。


 ドアを開けようとするが、開かない。

 窓も、動かない。


 部屋中から、チャポ……チャポ……という音が近づいてくる。


 足元を見ると、また黒水が滲み出してきていた。


 まるで、床下に湖があるかのように――。


 その水の中から、沙耶の手が現れる。


 白く濁った肌。爪は欠け、指先から黒水が滴っていた。

 続いて、首。顔。歪んだ口元。


 そして、口が開いた。


 


 「わたしを……わすれないで」


 


 まさみの意識が、闇に飲み込まれていった。







 目を覚ますと、部屋は静まり返っていた。


 黒水も、沙耶の姿もない。


 ただ、枕元にあの木箱だけが、ぽつりと置かれていた。


 その上には、破れた写真の一部。


 真ん中にこう書かれていた。



 「きっと、あなたはわかってくれると思った」



 まさみは、その言葉を見て、泣いた。


 恐怖でも、絶望でもない。


 ――彼女の孤独が、胸に刺さったのだ。


 助けを求める声が、ずっとこの部屋にこだましていた。


 誰にも届かず、長い時間を黒水の中で待ち続けた少女の声。


 それでも、まさみにはまだ逃げる術がある。


 彼女は、まだ生きている。


 だが――



 “一度、黒水に触れた者は、逃げ切れない”


 そう、まさみの耳元で、誰かが囁いたような気がした。






 月の光が窓に射し込んでいた。


 だが、その光は、もう“普通の夜”のものではなかった。


 窓ガラスはうっすらと黒い水の膜に覆われ、まるで外の世界まで濁っているように見えた。


 まさみは、震える手で木箱を布に包み、リュックに押し込んだ。


 これ以上、この部屋に留まっていたら、本当に戻れなくなる。


 「もう……帰る…… ここから……出る……」


 まさみは玄関に向かって歩き出した。


 廊下に足を踏み出す。


 だが――ぬるりとした感触が足元に這い寄る。


 足元から湧き出すように、再び黒水が染み出してくる。


 「やだ……っ、いやだ……!」


 泣き声混じりに叫びながら、まさみは階段を駆け下りた。


 1階まで降りると、外の扉に手をかけ――


 開かない。


 「なんで……っ、なんで開かないの……!」


 ガチャガチャと錠を回すも、ドアはぴくりとも動かない。


 扉の隙間から、黒水がにじみ出していた。


 そのとき、背後。


 二階から、ぎぃ……っ、ぎぃ……っという足音が聞こえてきた。


 それは、人のものではなかった。


 水音のように、べちゃり、べちゃり、と床を濡らしながら、ゆっくり、確実に下りてくる。


 まさみは反射的に隣の部屋。


 空き室だと思っていた101号室のドアノブをひねった。


 ――開いた。







 部屋の中は真っ暗だった。


 まさみは手探りで明かりを探し、壁のスイッチを押す。


 点いた明かりの下には、誰かが暮らしていた痕跡がそのまま残っていた。


 テーブル、椅子、カーテン。


 洗面台のコップ。


 しかし、どれも埃まみれで、何年も手入れされていないように見える。


 「……誰か……いたの……?」


 床の隅に、濡れた足跡がある。


 それはまさみのものではない。もっと小さくて、裸足のまま、部屋の奥へ続いていた。


 まさみはふと視線を上げる。


 押し入れの戸が半開きになっていた。


 その隙間から――黒髪が垂れていた。


 「――っ……!」


 後ずさりした瞬間、背後のドアがバタン!と閉まった。


 暗い部屋の中に閉じ込められたまま、まさみは息を詰める。


 そのとき、押し入れの奥から、しゃくりあげるような泣き声が響いた。


 


 「……ま……まま……さみ……?」


 


 それは、自分の名前だった。


 聞き覚えのある声――


 だが、自分の声だった。


 まさみは血の気が引いた。


 押し入れの奥にいる“それ”は、まさみ自身の声で、自分を呼んでいた。


 「ま……さ……み……こっちに……おいで……」


 押し入れの戸が、ギイイイ……と勝手に開いていく。


 その奥――


 真っ黒な水面が広がっていた。


 そこには鏡のように自分自身の姿が映っていた。


 笑っている。


 だが、それは確かに、笑っていない目だった。


 その“まさみ”が、ゆっくりと手を伸ばしてくる。

 水面から、現実の空間に手が侵食してくるように。


 「ねえ……入れ替わろうよ」


 「わたしが……かわってあげるから」


 「あなたはもう疲れたでしょ……?」







 まさみは全力で部屋を飛び出した。


 階段を駆け上がり、再び201号室へ。


 あの木箱――柚木沙耶の遺品がこの呪いの核なら、返すべき場所はここしかない。


 部屋に入った瞬間、世界が変わった。


 空気が重い。


 黒水が壁を伝って垂れてくる。


 天井からも、滴が落ちる。


 その中央に、少女が立っていた。


 ――柚木沙耶。


 制服姿。長い黒髪。


 目のない顔。口元だけが、静かに笑っている。


 だがその瞳に、なにか哀しげな色が浮かんでいるように見えた。


 まさみは、震える手で木箱を差し出した。


 「これ……あなたの、でしょ……?」


 沙耶は無言のまま、ゆっくりとうなずいた。


 そして、水面の中へとゆっくり沈んでいく。


 その姿が完全に黒水の中に溶けた瞬間――


 水が、止まった。


 音が、消えた。


 壁の染みも、床のぬめりも、いつのまにかなくなっていた。


 ただ、まさみの手の中にあった木箱だけが、濡れて朽ちたように崩れていた。



 数日後、まさみは部屋を引き払い、実家に戻った。


 母と義父のぎこちない空気にも、今は安堵を覚える。


 201号室には、もう誰も住んでいない。


 だが、あの部屋のドアの隙間から――


 黒い水が、わずかに滲み出していた。


 誰かが新たに入居したとき、また、あの声が囁くかもしれない。


 「わたしの かわり」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ