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野宿ガール(番外編)

作者: 五月雨拳人

蛇足だとは思いましたが、書きたいから書きました。

「野宿ガール」66話とエピローグの間の話です。

     ◇


 十二月二十五日(月曜日)


 トンネルを抜けるとそこは、雪国だった。


 まるで川端康成の小説「雪国」の冒頭のようだと、しま紗月さつきは思った。


 だが、事実は小説より奇なりというか、小説に書かれたことが実際に起こると、人は感動をするどころではないようだ。


 紗月は突然目の前に現れた雪景色に驚いたが、すぐに動揺を抑えながら運転に集中する。


 綱渡りをするようなハンドル捌きをしながら、頭の片隅でトンネルに入る前の景色を思い出す。


 徳島県はホワイトクリスマスになり損ねたようで、道はおろか山の頂上にも白いものは見当たらなかった。


 それで良かった。何故なら雪が降っていない、そして雪が降らないことを天気予報で確認してから出発を決めたのだから。


 バイクで走る時に雨に降られると厄介だ。だが本当に怖いのは、雨ではなく雪だ。積雪し道路が凍結すると、タイヤにチェーンを巻いたりなどの対策ができないバイクはもう走ることができなくなる。


 それでも無理して走れば、後はもう転倒するか事故るかの二択で、それが遅いか早いかの違いでしかなくなる。


 だが幸い(?)道路は積雪してはいるものの、凍結していなかった。これなら速度を落として慎重に走れば何とかなりそうだ。


 紗月は今年一番の集中力を使い、神経をすり減らしながらバイクを運転してどうにか数キロ先の目的地へと到着することができた。


「何とか着いた……」


 駐車場にバイクを停める。降りた途端に緊張の糸がぷつりと切れて、大きな溜息が漏れた。


 力の入らない足で地面に立ち、周囲を見渡す。


 白い景色の中にひっそりと、その建物はあった。


 道の駅にしいや。


 徳島県三好市にある道の駅である。


 紗月の今回の旅は、四国の道の駅巡りだ。今日はその初日で、最初の目的地がこの道の駅にしいやなのだが、すでにもう心身共に疲弊してしまいこの先が思いやられる。


 ていうか早くもちょっと帰りたい。


 そもそも、どうして紗月がこの旅を思い立ったのか。


 しかもクリスマスに。


 話は数日前に遡る。



 十二月。


 世間は師走であるが、師が走り回るほど忙しいのに比べ、学生は試験さえ終われば後はのんびりと年の瀬を迎えるだけになっていた。


 そうして今年最後の講義まであといくつと数えるほどになったある日、たまたま食堂で顔見知りが集まったのをこれ幸いと、紗月は話を持ち掛けてみた。


「ねえみんな、クリスマスに予定ある? なかったらさあ、『ドキッ、女だらけのクリスマスパーティー』やらない?」


 ポロリもあるよ、なんてね、と紗月は笑うが、周囲の反応は芳しくなかった。


「わたしパス。年末は東京で同人誌のイベントに参加するから……っていうか、誰が何をポロリするのよ」


 真っ先に不参加を表明する幸貴に続き、達樹も申し訳なさそうに小さく手を上げる。


「わたしも、幸貴さんと一緒にサークル参加するので無理です」


 むう、さっそく二人も参加予定者が減ってしまった。おのれ同人誌即売会め、とイベントに対し恨みを抱いた紗月であったが、ふとあることに気がついた。


「あれ? そのイベントって、コロナで中止になってたんじゃなかったっけ?」


 そう。世界を席巻したウィルスの影響で、同人誌即売会のみならず演劇やライブなど大勢が一箇所に集まるイベントは軒並み中止になっていたはずだ。


「それは去年までね。今年はコロナも解禁されたから、また復活するのよ」


「コロナ解禁? いつから?」


「もうずっと前からですよ」


「嘘? わたし聞いてない」


「そりゃあんたのアンテナが低いだけでしょ」


 幸貴にばっさり斬られ、紗月は「むう……」と唸る。


「ってことは、コロナワクチンとかできたの?」


「重症化を抑えるワクチンはあるようですが、感染を防ぐワクチンはまだですね」


「それって、今までと特に状況変わってなくない?」


「まあ、そう言われるとそうね」


「何か解決策が出たわけでもないのにコロナ解禁ってどうなの? 本当に解禁しちゃっていいの?」


「うるさいわね。いつまでも自粛してたら経済が回らないし、お上がいいって言ってるんだからいいのよ!」


「え~、なんか納得いかな~い」


 紗月はしつこくごねるが、幸貴にしっしと手で追い払われる。聞けばすでに飛行機とホテルの予約を済ませてあるので、何があろうとこの決定は覆らないようだ。


「何年ガマンしたと思ってるのよ。死んでも行くからね」


「死んだら行けないじゃない……」


 仕方なく幸貴と達樹の参加は諦め、紗月はちらりと鞠莉の方を見る。


 紗月と目が合った瞬間、鞠莉は食堂中に音が鳴り響くほど強く両手を合わせて拝む。


「すいません。クリスマスはバイト先のパーティーに行くってもう言っちゃったっス」


「マジで? 今から断れないの?」


「無理っスよ。もう会費も払っちゃったっスから」


「む~……。ってちょっと待って」


「なんスか?」


「そのパーティーって、男子もいるの?」


「そりゃあバイト先にはいっぱいいるから、当然参加してるっスよ」


「な~に~……」


 ごごご、と音が出そうなほど鬼気迫る紗月の迫力に、椅子ごと後退りする鞠莉。


「先輩が寂しく女だけでクリパしてる時に、後輩が男子といちゃいちゃするなど許せん! どこだ、そのパーティー会場は。当日乗り込んでぶち壊してやる!」


「メチャクチャっスね、この人……」


「コラコラ……。他人の幸せを素直に喜べない人間は醜いぞ」


「だってせんせえ~……」


 半泣きになりながら鞠莉を指さす紗月の頭を、矢内は子供をあやすようにやさしく撫でる。


「会場に乗り込んでパーティーをぶち壊しても、お前の評価が下がるだけで得るものは何もないぞ」


「救いはないんですか……」


「まあ、まだ聖夜まで時間はある。人生なにが起こるかわからんから、あまり期待はせずにその日まで粛々と過ごせ。もしかしたらどこかに変わった趣味の男がいて、お前を見初めることもあるかもしれない」


「もの凄く低い可能性の話じゃないですか」


「そうとも限らん。人のえにしというものは奇なるものだ。わたしとお前がこうして出会ったのも、確率的に言えば万に一つ以下の可能性なんだ。そう考えてみたら、人と人が出会うというのは不思議なものだとは思わんか?」


「そういうもんですか?」


「そう考えるとどんな出会いもありがたく思えるという話だ」


 矢内に諭され気を取り直した紗月は、大きな溜息をつく。


「やれやれ。となると今年は先生と二人っきりかあ……」


「いかにも仕方なしといった感じなのが不本意だが、そもそもわたしが独りだと勝手に決めつけるな。わたしにだってクリスマスに一緒に過ごす人ぐらいいるぞ」


「え、嘘!?」


 紗月だけでなく、幸貴や達樹に鞠莉も声をそろえて驚く。


「先生、今日はエイプリルフールじゃありませんよ」


「お前ら、留年させてやろうか……」


 矢内は右手で拳を握りつつ左手でスマートフォンを取り出し、慣れない手つきで操作する。


「ん~と、どれだ? あれ? これじゃない……っと、あったあった。見ろ、これがクリスマスを一緒に過ごす相手だ」


 そう言って見せつけてきたスマートフォンの画面には、いかにも平凡そうな男性が写っていた。


「誰っスか、この人?」


「先生の彼氏?」


「違う」


「ですよねー」


「わたしの旦那だ」


 矢内の言葉に、生徒全員が「ええっ!?」と驚愕する。


「先生、結婚してたの!?」


「言ってなかったか?」


「聞いてないっスよ」


「先生、結婚できたんですね……」


「当たり前だ。こんないい女を男が放っておくものか」


「自分で言うかなあ、ソレ」


 普段ジャージのくせにどの口が言うんだろうなどと思っていると、矢内はスマートフォンの画面をフリックして他の画像を見せてくれる。


 画像はどれも優しそうな笑顔をこちらに向けてくる男性のものだったが、唐突に赤ん坊の画像が出てきた。


「なに、この子?」


「なにって、わたしの子だ」


「子供いたんだ!?」


 驚く紗月たちを尻目に画面をフリックし続ける矢内。画像では、乳幼児だった子供が徐々に成長していき、誕生日なのか蝋燭が三本立てられたホールケーキに向かって息を吹きかけている男子の画像で止まった。


「この間三歳になったばかりでな、ようやく手がかからなくなってきたところだよ」


 画面を見つめながらしみじみと語る矢内。その瞳には愛情が満ち溢れていて、普段とは別人のようであった。


「いやいやいやいや……」


「完全にお母さんの顔っスね」


 矢内が結婚していただけでもビッグニュースなのに、三歳になる息子までいたとなると驚きを通り越してリアクションに困る。


「というわけで、わたしもクリスマスパーティーには出られん。悪く思うなよ」


「いやもう、あんなの見せられたら何も言えないですよ……」


 驚き疲れて机に突っ伏しながら、紗月はぽつりと呟く。


「どうしよっかなあ」


 二十五日はパーティーの予定だったが、唐突に時間が空いてしまった。


「あれ、この感じどこかで……」


 思い出す。


 この状況は、かつてアルバイトをクビになって急に時間が空いてしまった時に似ている。


 あの時は、突如空いた時間を埋めるために四国を旅行することに決めたのだった。


 だったら、今回もどこかに行こう。


「しかし、どこに行こう」


 三大岬とおまけの一つは巡った。他に四国で行きたい所があるだろうか。


「う~ん」


 四国に大した観光地はない。いや、あるんだろうが紗月の食指が動くような所は今のところない。


 いや待て。


 そういえば、最近道の駅シールを集めているのを思い出した。


 道の駅シールとは、各道の駅で販売しているその道の駅の看板をシールにしたものである。場所によってはまだ販売していなかったりマグネットしかなかったりするが、紗月はこれを集めてバイクの箱に貼るのがマイブームになっていた。キャリーケースや旅行カバンが旅先のシールで埋め尽くされていると旅慣れている感じがしてカッコいいので、それをバイクの箱で真似しているのだ。


 だがこれまでの旅で通った道の駅は、すべて買い尽くしていた。なのでそろそろ新しい道の駅を開拓しなければと思っていたところだ。


 これは良い機会ではなかろうか。


 スマートフォンがナビになるので、知らない道を走るのにも不安はない。それに最近の旅はいつも同じ場所でマンネリ気味だったので、ここらで新たな刺激を加えるのも一興だろう。


「よし、行くか」


 こうして紗月は四国の道の駅巡りの旅に出ることに決めた。


 そうと決まればまずはルート検索だ。紙の地図とスマートフォンのグーグルマップを駆使し、まだ行ったことのない道の駅を20ヶ所近くピックアップする。


 そうして出発したのが、クリスマス当日の二十五日であった。



     ◇



 十二月二十五日(月曜)


 雪の積もった道をおっかなびっくり運転し、どうにか道の駅にしいや到着した紗月は、疲弊した心と体を癒すために自動販売機で温かい缶コーヒーを買った。


 がこん、と勢いよく吐き出された缶コーヒーを手に取ると、掌を突き刺すような熱に痛みよりもむしろ喜びを感じる。


 プルトップを開け、コーヒーを一口飲む。


「旨し。珈琲旨し」


 噛みしめるようにコーヒーを飲み、じんわりと白い息を吐く紗月。真冬のツーリングにおいて、温かいコーヒーは心身の回復剤に当たる。冷え切った体を温めるだけでなく、不安定な路面を運転してすり減った精神を回復させてくれるのだ。


 紗月は缶の熱を少しも無駄にしないように両手で包むように持ち、しみじみとコーヒーをすする。吐き出した息が真っ白に辺りに広がり、霧散して消えた。


「よし、次行くか」


 再び雪道を走り出すが、もう不安はない。気力と体力はすっかり回復していた。


 だが紗月はコーヒーを飲んだことをすぐに後悔することになる。


 三十分後。


「……………………おしっこしたい」


 猛烈な尿意に襲われ、紗月はコーヒーを飲んだことを死ぬほど後悔していた。


 確かにコーヒーには利尿作用がある。だがあまりにも覿面すぎるのではなかろうか。ついさっきまで何ともなかったのに、たった一杯飲んだだけでこの耐え難いほどの尿意。ちょっと納得できない。


 元来た道を引き返し、再びトンネルを抜けるとさっきまでの雪景色が嘘のように消えた。


 バイクは県道45号線から再び国道32号線に入り、大豊へと向かう。この先にはビバリーヒルズ食堂がある。昼食にするついでにトイレを借りよう。


 紗月は脂汗を流し歯を食いしばりながら、尿意に負けてついアクセルを捻りそうになるのを抑えて安全運転で走る。


 焦ってはいけない。いくらトイレに行きたいからといって、ここでスピード違反で白バイなんかに捕まったら、それこそ目も当てられない。


 昼食のカツ丼のことを考えて気を紛らわせていると、ようやくビバリーヒルズ食堂が見えた。


 だがおかしい。いつもなら昼飯時になると店の前に長蛇の列ができているのだが、今日は並んで待っている人がいない。見えるのは、一般家庭が数年使ったかのようなこってりとした油汚れの付着した換気扇のフードを店の前で洗っている従業員らしき男性の姿のみ。


「これはもしかすると……」


 厭な予感がして、紗月はビバリーヒルズ食堂の駐車場にバイクを停める。エンジンは切らず、スマートフォンでビバリーヒルズ食堂の営業日を確認するとがっくりと肩を落とした。


「今日から休みになってる……」


 なんと二十四日が今年最後の営業日で、今日は店内の大掃除をしているようだ。


 昼食の予定が崩れたのもショックだが、今はそれ以上にトイレが借りられなくなったのが痛い。比喩表現ではなく、そろそろ膀胱が痛い。


「まずい……ここから一番近いトイレは……」


 頭の中で地図を広げるが、括約筋に力と意識が持って行かれて集中できない。とにかくここにいても仕方がないととりあえず走り出すが、脳内地図は未だ検索終了していない。


 それでも運が紗月に味方をしたのか、それとも無意識に脳内地図が正解を導き出していたのか、バイクが走り出した方向には、本日二番目の目的地である道の駅大杉があった。


「やった! トイレだ!」


 道の駅=トイレという認識になるほど切羽詰まった紗月は、ヘルメットを脱ぐ時間さえも惜しんでトイレに駆け込んだ。


「ふう、ギリギリセーフ……」


 限界まで我慢した後の開放の、何と心地よいことか。半ば放心状態でバイクにヘルメットを置きに戻ると、今度は腹が鳴った。


「あちらが済めば今度はこちらか。まったく我が腹ながら忙しい奴め」


 見れば、道の駅大杉には食堂が併設されているようだ。この先どこに飯屋があるかわからないので、今日の昼食はここで済ませてしまおう。


 食堂に入り、二人掛けのテーブルに座る。注文を取りに来たおばちゃんに、唐揚げ定食を注文した。


 注文を終えると、お冷代わりに出されたほうじ茶を一口すする。冷え切った体に温かい茶がじんわりと染みた。だが、紗月はその一口だけでほうじ茶をテーブルに置いた。


「飲み過ぎ注意……」


 冬のツーリングは水分摂取量に気をつけないと、さっきみたいにトイレを探して大変なことになる。なので寒さでつい温かいものを飲みたくなるが、ここはぐっと堪える。


 唐揚げ定食を平らげると、紗月は再びバイクに跨る。国道32号線を北上し、酷道もとい国道439号線に乗るとひたすら道に沿って走った。


 それから三十分後。


 紗月は再び猛烈な尿意に襲われていた。


「さっきトイレ行ったばっかじゃん! 絶対飲んた以上に出てるって! おかしいよコレ!」


 普段なら起こらないことが、冬のツーリングではよく起こる。このありえない尿意もその一つだ。頻尿ではない人間でも、一度トイレに行ったことがきっかけとなりその後何度もトイレに行きたくなることがある。


 泣きそうになりながら紗月が道の駅さめうらのトイレに着いたのは、そこからさらにニ十分後のことであった。



     ◇



 道の駅さめうらを出発してから数時間後。本日三番目の目的地、道の駅四万十大正しまんとたいしょうに到着した。


 だが時刻はすでに午後四時を過ぎ、売店は営業を終了していた。これでは目的の道の駅シールが購入できない。


「仕方ない。明日まで待つか」


 こうして本日の移動はここまでとし、ここで野宿をすることに決めた。


 が、すぐにテントを張るような無粋な真似はしない。施設は営業を終了していても、道の駅にはまだ人が散在している。トイレや自動販売機目的に立ち寄った人もいるが、多くは施設の従業員だ。彼らがすべて立ち去るまでは、野宿の準備をしないのが紗月流野宿術のマナーである。


「ぁどっこいしょっと……」


 年寄り臭い声とともにベンチに座ると、紗月は上着のポケットから文庫本の小説を取り出す。ツーリング中には道路工事による時間帯通行止めや、こういった空いた時間になどで時間を潰さなければならないことがよくある。こういう時に役立つのが文庫本だ。


 紙の本は、電源を必要としない貴重な娯楽である。紗月はツーリングにはいつも、読み終わったら捨てても構わない古本を持って行くことにしている。大した荷物にもならないし、読み終わったページを破って焚き火の火種に使えたりマルチに活躍するからだ。


 そうしてのんびりと読書をしながら待つこと一時間。


 午後五時を過ぎ、辺りが暗くなってきてようやく最後の従業員が帰路についた。紗月は本を閉じて駐車場が空になったのを確認すると、急いでテントの設営を始める。


 幸いこの道の駅には、屋根のある休憩所がある。少しベンチを移動してスペースを作ればテントを張れそうだ。


 沈む夕日と競争するかのように、急いでテントを張る。


 とはいえ、闇夜の中ヘッドライトの灯りだけを頼りにテントを張ったことに比べれば、まだ夕日が残っている中での設営など造作もないことだ。


 日没よりかなり余裕をもって設営が終わると、続いて寝床の準備なのだが今回はそれよりも先にすることがある。


 夕食の下準備だ。


 いつもなら夕食はカップ麺なので、準備というほどのものはなかった。せいぜい折り畳みのアルミテーブルを開き、携帯ガスコンロの用意をするぐらいだ。


 しかし今回は違う。紗月は今回の道の駅巡りが数日に渡るものだと予想し、カップ麺からさらに保存性と携帯性に優れ、そして安価な食材に切り替えた。


 それは、米である。


 紗月は今回の日程を四泊五日と睨んで、家から米を一合ずつビニール袋に入れて持ってきていた。


 荷物の中から取り出したメスティンには、小分けにされた米が四袋、つまり四合の米が入っている。つまり四日分の夕食が、メスティンという小さなスペースに収納されていた。カップ麺四個だとこうはいかない。


 しかしながら、米も万能ではない。唯一カップ麺に劣る点がある。


「これで炊かずに食べられたら最高なのになあ」


 紗月は溜息を吐きつつ袋の端を破いて米をメスティンに移し、ペットボトルのミネラルウォーターを注いで吸水させる。


 吸水時間は最低三十分。しっかり米に水を吸わせる時間を使って、寝床の準備や荷物の整理を済ませる


「時間は有効に使わないとね」


 そうして三十分後、米の吸水と野宿の準備を終えるといよいよ炊飯だ。とはいえ、メスティンでの炊飯は以前達樹とキャンプした時にもやったし、もう慣れたものである。よって割愛する。


「出来上がったものがこちらになります」


 見事に米が炊き上がったが、夕飯がこれだけというのも何だか寂しい。予定では道中どこかの店で何かおかずになる惣菜などを入手するはずだったのだが、今日はめぼしいものが手に入らなかったのだ。


 というわけで、今夜の夕飯はご飯と家から持って来たふりかけのみとなってしまった。


「……ま、こういうこともあるさ」


 自分を慰めるように呟くと、紗月は炊き立てご飯にふりかけをかけて食べ始める。


 明日は何かおかずが手に入ることを願いながら。



 十二月二十六日(火曜日)。


 翌朝は、昨日と打って変わって寒波に見舞われた。


「う~さむさむ」


 テントの中でも息が白い。紗月は寝袋から手だけ出してスマートフォンを掴み、インターネットで四万十大正の今朝の気温を確認する。


「……マイナス3℃」


 今使っている冬用の寝袋の限界気温はマイナス5℃だが、正直そんなものは信用していない。贔屓目に見ても0℃までだろう。念のために厚手のインナーシュラフを入れていなかったら、寒くて寝られなかったに違いない。


 えいやっと気合を入れて起き上がり、テントの外に出る。雪は降っていなかったが、植込みや芝の部分は霜で真っ白になっていた。


「ひえ~……」


 驚いたのは、紗月のバイクも霜にびっしりと覆われて真っ白になっていたことだ。夜中に結露したのが、朝方の冷気で凍ったのだろう。シートどころかタイヤまで真っ白で、見た目の強烈さは抜群だった。


 時刻は午前七時を少し過ぎて、朝日がゆっくりとその勢力範囲を広げている。もう少し時間が経って陽が完全に昇れば、気温も上がって霜も溶けるだろう。さすがに試す気はないが、この霜だらけのタイヤで走ったらどうなるのか気になるところである。


 どちらにしろ今日は目の前の売店が開くまでは身動きが取れないので、いつもよりのんびりさせてもらおう。


 紗月は洗顔を済ませ、テントの中で朝食を摂る。一人なのに二人用のテントを使っているのは、中でテーブルを広げて湯を沸かしたり食事ができるからだ。その分一人用テントより嵩張るが、デメリットに比べてはるかにメリットの方が大きい。寒くて外に出たくないこんな冬の日は特に。


 とはいえ、いくら寒いからといっていつまでもテントの中でぬくぬくとしているわけにはいかない。そろそろ道の駅に勤める人たちが出勤してくる時間だ。彼らの目につかないように、テントを撤収しなければ。


 手早くテントを畳み、荷物をすべて防水バッグに詰め込んでバイクのリアシートに固定し終わると、道の駅の従業員のものと思しき車が続々とやって来た。滑り込みセーフである。


 腕時計を見ると、あと五分ほどで売店が営業開始する時刻だ。


「じゃ、それまでのんびりさせてもらうか」


 そう言うと紗月は、撤収作業をすると汗をかくので予め脱いでいた上着に袖を通す。


 だがファスナーを勢いよく上げると、胸と首の間で引っかかって止まった。


「……あれ?」


 どうやらファスナーが布を噛んでしまったようだ。だが位置が悪く、事故現場を目で見ることができない。おまけに力が入りづらく、ゴリラの如き紗月の力でもファスナーはびくともしない。


「参ったな、思いっきり噛んじゃってるよ……」


 どうにかしようともがいているうちに汗をかいてくる。その間も時間は流れ、開店時間が迫ってくる。別に開店直後に行かなくても良いのだが、時間を無駄にしたくない気持ちのせいで必要以上に焦ってしまう。


 どうする。


 ファスナーはこのままにして、とりあえず売店で用を済ませる。その時店員に助けを求めるのはどうか。


 駄目だ。恥ずかしい。


 面の皮が尻より厚い紗月だが、さすがにファスナーが噛んだぐらいで人に助けてもらうのは何だか恥ずかしい。いくら旅の恥はかき捨てとは言っても、ものには限度がある。


 しかし、今ここで見なかったことにしても、それは問題を先送りにするだけだ。上着はいずれ脱がなければならない時が来る。これは時間が解決してくれる問題ではないので、いつかはやらなければならないことだ。


「……仕方ない、やるか」


 紗月は覚悟を決めると、上着の襟を両手で持ち力の限り左右に引っ張る。


 質実剛健を謳うワクワクマンの上着であったが、紗月のゴリラパワーの前では敵ではなかった。一瞬の抵抗を見せたものの、ファスナーは見事弾け飛んだ。


「やった……」


 無事上着から解放され安堵するもそれは一瞬で、今度は別の問題が発生して紗月を悩ませる。


 ファスナー亡き今、どうやって上着の前を閉じるのか。このままバイクに乗ったら風をモロに受けて腹が冷えてしまう。いや、腹を下すだけならまだしも、風邪をひいてしまうかもしれない。


 だが心配なかれ。紗月とて、後先考えずにファスナーを弾き飛ばしたわけではない。ちゃんと勝算ありと判断しての行動なのだ。


 紗月の上着は、ファスナーの結合部を面ファスナーで覆い隠して防風性と保温性を高める構造になっている。なのでファスナーが使えなくなっても面ファスナーで固定すれば、何とか上着の体裁を保てるはずである。


 そして実際やってみると、何とかなった。


「良かった~」


 勝算はあったが、実際やってみるまでは不安があった。だが試してみたら、予想より遥かにしっかりと面ファスナーが仕事をしてくれている。これならバイクに乗って風を受けても耐えられそうだ。


 紗月は弾け飛んだファスナーの留め具をポケットに入れると、当初の予定通り売店へと向かう。


 自動ドアを抜けて売店に入ると、意外にもすでに数人の中年男性が入っていた。だがよくよく観察すると、客というよりは近所の顔なじみが暖を取るついでに店員と駄弁りに来ているだけのようだ。


 歓談していたおじさんたちは、朝一番に入って来た紗月を物珍しそうに見たが、すぐに興味を失って話に戻る。紗月はその視線を受け流し、目当てのものを探すが――


「無いな……」


 どうやらこの道の駅にはまだシールがないか、売り切れているようだ。同じデザインのマグネットはあったが、紗月が欲しいのは箱に貼るシールなので残念ながら用はない。


 仕方なく売店を出て、バイクへと向かう。朝日をたっぷり浴びて霜は完全に溶けていた。シートだけハンカチで水を拭き取って、紗月はバイクに跨る。


「さて、今日は朝イチから時間が使えるから一日でどれだけ周れるかな」


 スマホホルダーにスマートフォンを装着し、グーグルマップを開く。一番近い道の駅を目的地に設定すると、最適なルートと到着予定時間が表示された。


「約二十分か。意外と近いな」


 訪問を予定していた道の駅の数は多いが、それぞれの距離はさほど離れてはいない。問題は道を間違えたり迷うことだったが、スマートフォンをナビにすればその心配はないだろう。


 ヘルメットのバイザーを下ろし、ニュートラルだったギアを一速に入れる。アクセルを軽く開けながらクラッチを繋ぐと、バイクはゆっくりと走り出す。


「ようし、一日で何件周れるか挑戦してみるか」



     ◇



 十二月二十七日(水曜日)


『で、あんた今どこにいるのよ?』


 電話の向こうでそう尋ねる幸貴の声は、どことなく苛立っているようだった。


「家ですが、何か?」


『何か? って、もう帰って来ちゃったの? 四五日かかるんじゃなかったの?』


「だって、飽きちゃったんだもん」


『飽きたってあんた……』


 確かに予定では、あと二日は旅に出ているはずだった。


 だが紗月はあの後、道の駅四万十大正を出発してから――


 海の駅あしずり


 めじかの里土佐清水


 ふれあいパーク大月


 すくもサニーサイドパーク


 四万十とおわ


 虹の森公園まつの


 日吉夢産地


 きなはい屋しろかわ


 清流の里ひじかわ


 ――と、一日で十件近くも周った。


 スマートフォンをナビにした結果、順調に、あまりにも順調に周れてしまった。


 そしてあまりにも順調すぎて一日に何件も周れてしまったせいで、


 飽きてしまったのだ。


 二十六日の夕方には、もう道の駅なんて行きたくなくなっていた。だから後の予定を全部投げ捨てて、いつものキャンプ地である神宮寺前キャンプ場で一泊し、翌二十七日の昼には帰宅していた。


「いやあ、あんまり順調なのも考えものだね。何事もほどほどが肝心だよ」


 てへり、と舌を出す紗月。電話の向こうで盛大な溜息がした。


「ところで、幸貴はいつこっちに帰ってくるの?」


『ん~明日でイベント終わるから、明後日かな』


「てことは二十八日か。じゃあ年末年始はゆっくりできるんだよね?」


『まあ、そのつもりだけど』


「だったらさ、初詣一緒に行かない?」


『初詣? あんた去年初詣なんて行ってなかったでしょ』


「今年は行きたくなったの」


 再び幸貴が盛大な溜息を吐く。


『それじゃあみんなに声かけて、【ドキッ、女だらけの初詣。ポロリもいるよ】でもやる?』


 唐突な幸貴の提案に、紗月は思わず吹き出す。


「やらないよ。あとポロリってなんだよ、じゃじゃ丸とピッコロどこ行ったの」


『え~、あんたクリスマスパーティーをみんなでやれなかったから、初詣で集まりたいんじゃないの?』


「違うよ。そうじゃなくて、幸貴と一緒に初詣行きたいの」


『何よそれ。あんた、わたしのこと好きすぎるでしょ』


「そ、そんなんじゃなくて、せっかく意気込んで旅に出たのに、予定が狂って三日で帰って来たわたしを可哀想と思うなら一緒に初詣に行って慰めてよ」


『いや、可哀想と思う要素どこにもないよね』


「いいじゃない。年末はずっとたっちゃんと二人だったんだから、年始はわたしに付き合ってよ」


『どういう理屈よ……』


 幸貴はしばらく沈黙すると、根負けしたのかこれ以上相手をするのに疲れたのかわからないが、ふん、と鼻を鳴らすと


『わかったわよ。一緒に初詣に行けばいいんでしょ』


 紗月の提案を受け入れた。


「やったあ。で、どうする? どこかで待ち合わせする? それともどっちかの家に行く?」


『待て待て、慌てるな。わたしにはまだ明日のイベントが控えておるのだよ。今はそっちに集中させて』


「あ、そっか。ゴメン」


『じゃ、イベント終わって帰って来たらまた連絡するから』


「うん、待ち合わせとかその時決めよ」


 それじゃ、と言って紗月が電話を切ろうとする声に、幸貴の声が重なる。


『あんたってさ』


「うん?」


『普段は独りでも全然平気って顔してるのに、たまにべたべた甘えてくるよね』


「え、そうかな?」


『なんか猫みたい』


 そう言って軽く笑うと、今度は幸貴の方から「じゃあね」と言って電話を切った。


 通話の切れたスマートフォンを手に、紗月はぽつりと呟く。


「猫みたい、か……」


 初めて言われた。


 だが言われてみれば、群れるのを好まず自由気ままにあちこちふらふらする所は、まるで野良猫のようだ。


 しかし友よ、と紗月は思う。


 孤独を愛する猫も、時には集まることがある。


 所謂、猫の集会というやつである。


 そして、そこに集まるのも、やはり猫なのだ。


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