第二王子はループしている~悪役令嬢に仕立て上げられた公爵令嬢は王太子から婚約破棄された。彼女の幸せを願う僕は過去へ戻る~
「シェリル・フィオリーニ、お前と交わした婚約は破棄させもらう!」
華やかな夜会の席でそう宣言したのは僕の兄、ベルナルド第一王子だ。
あれ? このシーン、見覚えがあるぞ……
僕は妙な既視感を覚えた。
次のシーンも言い当てられる。兄はシェリル・フィオリーニ公爵令嬢の義妹イザベラ嬢に婚約を申し込むんだ。果たして――
「新たにイザベラ・フィオリーニと婚約することをここに宣言する!」
ほらね。思った通りだ。でもなんで分かったのだろう?
童顔で愛され上手なイザベラ嬢が、うふふ、と笑い声をあげながら兄のうしろから登場した。くるくる回ってドレスのスカートを花のように広げて、兄の腕を抱きしめる。
「大変光栄ですわ! ベルナルド殿下!」
イザベラ嬢の高い声が広間に響いた。
対するシェリル嬢はあっけに取られて、まっすぐ切りそろえた漆黒の前髪の下に緑の瞳を見開いていた。だが唇はキッと一文字に結んだまま。そのやせた頬は青ざめている。なんて哀れなんだ。僕は彼女をあ……――
いやちょっと待て。僕が彼女を愛してるって? そんなはずはない。兄の婚約者を愛するなんて考えたこともない。
だけど今、僕の心に浮かんだ想いはなんだろうか?
「ベルナルド殿下、わたくしとの婚約を破棄された理由をうかがってもよろしくて?」
シェリル嬢は背筋をまっすぐ伸ばしたまま、芯のある声で尋ねた。
「訊かずとも分かっておろう。それともお前の悪事の数々を、今この場で白日のもとにさらして欲しいとでも?」
兄の言葉に気丈なシェリル嬢はしっかりとうなずいた。
「見当がつきませんもの。お願いしますわ」
「よかろう。まずお前は、使用人にさせるべき公爵邸の掃除をイザベラにさせていたそうだな」
「え、それはイザベラが――」
「さらにイザベラのスープにゲジゲジを入れたとか」
「ゲジゲジ? ――ってなんですの?」
「それだけじゃない。イザベラのコーヒーカップに毒を盛ったとか」
「毒ですって!?」
「イザベラがコーヒーを飲まなかったと分かると、今度は公爵邸の大階段から彼女を突き落としたと聞いているぞ!」
「ええっ? そんなわけは――」
「シラを切るな!」
兄の怒声が広間に響き、シェリル嬢は沈黙した。
腹違いの妹に数々の悪事を働いたシェリル嬢は、山あいの修道院に閉じ込められることが決まった。
そう、そして僕は彼女が残した日記を読むんだ。内容は覚えていないが、そんな気がする。でもなぜ、どうやって僕が彼女の日記なんて読むんだろう?
その理由はすぐにわかった。
「ローラン、ちょっと頼まれてほしいことがあるんだが」
シェリル嬢が修道院送りになった翌日、食堂で兄に話しかけられた。僕は兄弟姉妹の中でもっとも兄の信頼を受けていたし、評価も高かった。その理由は僕の記憶力にある。特に数字をよく覚えるので、兄の政務を補助する際にも役立っていた。
「僕に務められることなら喜んで」
食卓の離れた席に座った兄に、僕はほほ笑んで答えた。つねに公明正大に振る舞う兄を、僕は尊敬していた。だから彼を悩ませたシェリル嬢には苛立ちを覚えるはずなのに、自分の中にもう一つ別の感情が宿っているような気がする……。
「フィオリーニ公爵家から、修道院に持って行けなかったシェリルの私物を処分前に確認して欲しいと頼まれているんだ。だが今週は隣国の大使が来訪したり、王都の式典に出席したりと立て込んでいてね。侍従に行かせようと思ったものの、シェリルの私的な荷物もかなり含まれているらしい」
「それですと侍従に見せるのは憚られますね……。シェリル嬢は僕たちの遠縁に当たるんでしたっけ――」
「五代前の王弟殿下がフィオリーニ公に叙せられて始まった家だからな。最近だと、亡くなった公爵夫人の母上が王家から降嫁された方だった」
亡くなった公爵夫人――シェリル嬢の実母はずいぶん前に他界されたが、その母上――シェリル嬢のお祖母様はちょうど三年くらい前にお亡くなりになったはずだ。僕も葬儀に参列したから覚えている。
「分かりました。でもフィオリーニ家はなぜシェリル嬢の私物について、兄上にうかがいを立てるのでしょう?」
「私名義の贈り物がたんとあるそうだ。婚約してから毎年、彼女の誕生日と聖人の祝祭日には王家から贈り物をしていたからな」
そういえば兄の侍従がよく宝石商や、王家ご用達の魔道具職人を呼びつけていた。
「高価なものが多いはずだから、許可をもらえば彼らも換金できるだろう」
「ええっ、売るんですか!?」
「公爵家の財政は火の車なんだぞ」
兄は苦笑した。貴族が威厳を保つには何かとお金がかかるものだが、フィオリーニ公爵家の場合はもっぱらシェリル嬢の浪費癖が原因。父親である公爵は、幼いころに母を亡くしたシェリル嬢の心が物で満たされるならと甘やかし、後妻に入った公爵夫人は実母でないため厳しく叱れないのだとか。すべて伝聞だが、社交界では有名な話だ。
「まあお前も忙しいだろうから、見たふりだけして許可してやれば良い」
公爵邸まで馬車に揺られながら、僕は予知能力でも持っているのかとぼんやり考えていた。子供のころからこんな力を持っていたわけじゃない。
思い返してみると―― まずは二年前、シェリル嬢のデビュタントの日。何かやらかすぞ、という予感だけがあった。
予感は的中し、場違いなドレスに趣味の悪い宝石、果ては「おーほっほっほ」という気でも違えたかと思うような笑い方。すべて王太子妃にふさわしくない言動で、父親であるジャンカルロ・フィオリーニ公爵は恥じ入っていた。
それから去年、シェリル嬢がイザベラ嬢を屋敷の大階段から突き落とした事件の夜。たまたま階段下にいたフィオリーニ公爵が風をあやつってイザベラ嬢を救ったので大事には至らなかったが、どういうわけか報告を聞く前から事の顛末を知っていた。
「考えてみたらシェリル嬢に関することばかりだな」
答えが見つからないまま、馬車はフィオリーニ邸に到着した。
「こちらになります」
公爵家の執事に案内された部屋は、物にあふれて宝物庫のようだ。
「シェリル嬢のプライバシーを守るため、しばらく僕一人にしていただけますか」
「もちろんです」
執事はうやうやしくお辞儀をし、僕の連れて来た侍従と共に部屋から出て行った。
「さて、と」
僕は迷いなく、部屋の奥に積んである木箱へ向かって歩いた。その中にシェリル嬢の日記帳が収められていることを知っていたから。
表紙には「天気と温度の記録」という偽のタイトルが書かれ、さらに封印魔術までかけてある。最初に手に取ったのは三年前のものだった。
<昨夜、最愛のお祖母様が息を引き取りました。眠るように安らかな最期でした。お母様亡き後、唯一私を愛してくれた方。お祖母様には感謝しかありません。心より愛をこめて。シェリル>
唯一私を愛してくれたって、父上であるフィオリーニ公爵も君を愛しているから甘やかしているのではないか? 公爵の愛情に気付かないのだろうか?
<お祖母様が亡くなったからってくよくよしていられないわ! お祖母様もお母様も泣いている私なんて望んでいないはず。ベルナルド殿下にふさわしい女性になるために勉学に励みましょう>
翌日には自分を鼓舞する内容が書かれていた。前向きな性格だったようだ。
<苦しい時にはお祖母様が私に残してくれた王家の秘宝を見つめるの。お祖母様はこの秘宝を持って公爵家に嫁いでこられたそう。私はこれを持って王家に嫁ぐのです。そう思うとつらい勉強も頑張れるわ>
王家の秘宝ってなんだったかな? 僕はこめかみを押さえた。思い出せないが、確かとても重要なものだったはず―― もう少し読み進めれば分かるかも知れない。
<今日、家庭教師のモニカ女史が解雇されました。お祖母様が公爵家に呼んで下さった先生で、厳しいけれど尊敬していたのに。モニカ女史がお屋敷のお金を盗んだというけれど、とても信じられないわ。あの真面目で固いモニカが盗みですって?>
変な話だな、と僕は首をかしげた。令嬢の家庭教師が盗みを働けるなんて、公爵邸のお金の管理はどうなっているんだ?
<新しい先生の指導はモニカ女史とはまったく違って大変です。私が教わったことはすべて間違っていたそうで、困惑しています。まず笑い方から変えなければいけません。王妃はおーほっほっほと笑うそうです>
何言ってるんだ、この教育係は!? 呆然とした僕の手から、日記帳がすべり落ちるところだった。あの馬鹿みたいな高笑いが教育によって作られていたなんて!
<デビュタントのためのドレスと宝石が用意されました。私の趣味には全くあわなくてつらいけれど我慢しなければ。こんな珍妙な柄の服を身につけるなんて恥ずかしくて死んでしまいそう>
うん、よく覚えているよ。咆哮を上げる虎の顔が刺繍されていたドレスだよね。
どういうことだ? 誰があんなものを作らせて、シェリル嬢に着せたんだ?
<明日はデビュタントです。用意された宝石をすべて付けると重くて肩が痛くなってしまう。でもこれはベルナルド殿下のとなりに並ぶために必要なことだそう。今の王妃様はそんな派手は恰好はされていないのを不思議に思いましたが、若いころは頑張っていらっしゃったとお義母様がお話しして下さいました>
そんなわけないだろう! 僕は頭をかかえた。
なんでだまされるんだ? と歯がゆく思ったが、我が国の社交界デビューは十五歳。彼女はまだ世間知らずな十代の令嬢なのだ。教育係や親の言うことを信じるしかないのだろう。
<緊張で眠れなくて、お祖母様が残してくれた王家の秘宝を抱いて眠りました。私は大きな魔力を持たないので使えないけれど、ベルナルド殿下ならきっとお使いになれるのでしょうね>
王家の秘宝は魔道具なのか―― なんとなく思い出してきたぞ。王族は大きな魔力を持つから、確か僕にも扱えるんだ。
<デビュタントは教育係から言われた通りに過ごしたのに、王家と貴族の皆様の視線が冷たくて悲しかった。お父様も恥ずかしそうにしていらっしゃいました。帰宅後どこがいけなかったのかうかがったら、おーほっほっほの「ほ」の数が足りなかったようです>
そんなわけあるかーっ! 危うく日記帳を大理石の床に叩きつけるところだった。
<お父様は私に失望され、ますますイザベラをかわいがっています。彼女は将来王妃にならないから、扇で口もとを隠してウフフと笑ってもよいそうです。私もそんなふうに自然に振る舞えたらいいのに。でもベルナルド殿下のために頑張るって決めたんだわ! 落ち込んでちゃだめよ、シェリル!>
これはひどい……。僕は疲れた目を窓から見える公爵邸の庭に向けた。
ジャンカルロ・フィオリーニ公爵は長女であるシェリル嬢をおとしめて、次女のイザベラを愛していたのか? イザベラの母親であるエレナ夫人は―― 僕はあまり詳しくないが、フィオリーニ公爵が見初めた男爵家の令嬢だったはず。持参金の多さに王家も許可したと聞いている。
<お義母様とイザベラが、私の名前で宝石商からネックレスやブレスレットをたくさん購入しています。公爵家の台所事情を心配したら、娘がそんなことに口をはさむなとお父様からステッキで腰を打たれてしまった。腰も痛いけれど心がきしんで、今夜も眠れないわ>
浪費していたのはイザベラ母娘のほうだったとは! しかもフィオリーニ公爵も明らかに彼女たちの味方なのだ。社交界の噂も夫妻が流したのだろう。今まで自分が見聞きしてきたものが一切、信じられなくなってきた。シェリル嬢が不憫でならない。
<なんとかイザベラと仲良くなりたい。彼女が私の見方になってくれたら、お父様やお義母様も私を愛してくださるかも。使用人たちにも無視されなくなるかしら?>
公爵家全体で前妻の残した令嬢をいじめていたのか。あいつら腐ってるな。
<イザベラに趣味を尋ねたら、掃除が大好きなんですって! でも使用人たちが遠慮してなかなかさせてもらえないって言っていたわ。使用人たちの前で、私がイザベラに掃除をするよう命じてくれたら助かるって言われたので、明日さっそくやってみるわね! これであの子と仲良くなれるといいな♪>
なんて純真なんだ……。僕はつい目頭を押さえた。疑うことを知らないのか?
<使用人たちには私がイザベラをいじめていると誤解されてしまった。悲しいけれど、イザベラにはお礼を言ってもらえたので嬉しかったわ!>
イザベラめ、とんでもない悪女だ。兄にはもう一度婚約破棄してもらわねば。
いやそもそも兄上がシェリル嬢との婚約を破棄したのは、公爵家に仕組まれていたんだ! 後妻が自分の産んだ子を王太子妃にする計略に、王家も含めて社交界全体が引っかかったんだ。
<王太子妃の正装は縦ロールなんですって! 知らなかったわ。私の黒髪は髪質が硬くてなかなか縦ロールにならないのですが、寝るときにカーラーをつけて頑張っています。寝返りを打てないので首が痛くなりました>
縦ロールってなんのことかと思ったら髪型の話か。シェリル嬢、ほとんどからかわれてるんじゃないか?
<今日初めてシャコという海の幸を見ました! 黒くて長い足が無数に生えていて、まるで虫のような見た目なので、あれが食べ物だなんてびっくりです。お義母様の侍女の方が、イザベラの大好物だと言っていました。私は遠慮しますって言っちゃった。お祖母様が亡くなってから私とイザベラは食事も別なので、妹の好物すら知らなかったのは悲しい。イザベラのスープに乗せるよう頼まれたので入れてあげました>
それ、ゲジゲジじゃないかな? 「虫のような見た目」って普通虫に分類するよね、多足類は。「食べ物だなんてびっくり」って食べ物じゃないからね。ちなみにシャコは甲殻類だよ、シェリル嬢。
修道院の部屋の壁にくっついてるゲジゲジをシェリル嬢が見つけて、シャコだと信じて料理しないよう祈るばかりだ。
<王都ではコーヒーにシロップを入れて飲むのが流行ってるんですって! 侍女がこっそり用意してくれました。イザベラのカップに入れてあげたけど、彼女ダイエット中だから甘いものは飲めないんですって。残念だわ。イザベラと仲良くなる作戦、なかなかうまく行きません。私はお屋敷で孤立したまま。どこを直せばいいのかしら? お友達が欲しいです>
切ない。僕が彼女の友達になってあげたかった。孤独な日々の中でも明るく振る舞おうとする様子が伝わってきて、胸がしめつけられる。
<今日は、あ~らごめんあそばせぇと言いながら使う護身術を学びました。相手の肩をとんっと押すだけなのですが、大階段の上で行うので怖かったです。でもお父様が風魔法で補助してくださいました>
んんん!? まさかこれが、義妹大階段から突き落し事件の真相か!? 次女を王太子に嫁がせるためここまでするとは。シェリル嬢は、後妻にとっては邪魔な前妻の娘だが、公爵にとっては血のつながった我が子じゃないか! こんな公爵家、取りつぶしてやりたい。あまりに悪辣非道すぎる。それでシェリル嬢の無実を晴らし、彼女を修道院から連れ戻すのだ。
だがそれは不可能だと僕は知った。
<ベルナルド殿下から婚約破棄されてしまいました。これまで殿下に嫁ぐことだけを目標に生き、王妃になるために学んできたのに、私の人生は何だったのでしょう? 今まで耐えてきましたが、本気でお母様とお祖母様のもとへ行きたいです。唯一の救いはイザベラがベルナルド殿下と婚約できたこと。これで公爵家は安泰でしょう。イザベラがこれから、あのつらい王妃教育を受けると思うと心が痛みます>
なんて優しい子なんだろう。しかしその翌日の日記に、恐ろしいことが書いてあった。
<お父様とお義母様から、私の役目は終わったと告げられました。表向きは遠い山の中の修道院へ入ることにするそうです。私は知りませんでしたが公爵家には膨大な借金があり、私を修道院へ入れるお金なんてないとのこと。山奥の湖に沈んで姿を消してほしいと泣いて頼まれました。最期に公爵家の役に立てるなら本望です>
「あり得ない……」
日記を持つ僕の両手はわなわなと震えていた。彼女は何も持たずに旅立ったから、この部屋にはこれほど物があふれていたのだ……!
「シェリル嬢――!」
だまされ命を奪われた彼女が痛ましくて、僕の口からは嗚咽が漏れていた。逆境の中にあっても前向きに生きようとした努力家の彼女がいとおしい。純粋だった彼女を返してほしい――
「そうだ、王家の秘宝」
思い出すんだ。なんだったのか。
僕は立ち上がり、木箱から日記の束をすべて出した。底から出てきたのは古びた置時計。べっこう細工の落ち着いた色合いが美しいが、その針はもはや時を刻んではいない。
「これだ。時を戻す魔道具――」
僕は日記の束から魔術書を探し出した。魔法陣の書き方と呪文が載っている。
大理石の床にチョークで魔法陣を描き、呪文を調べた。まず「テンプス・レヴェルテーレ」と唱える。それから戻りたい時間を指定する。魔術書にはずらりと時の呼び方が書いてある。一日前、二日前、一ヶ月前、一年前など。
僕は三年前に戻ることにした。三年前は―― 「トリブス・アンニス・アーゴ」だ。
「よし」
魔術書を閉じ魔法陣の上に立ってから、僕はハタと気付いた。
僕は前にも一度、時を戻したのだ! だが忘れてしまったのだ、なんのために過去に戻ったのか。記憶が消えてしまっては意味がない!!
慌ててもう一度魔術書をひらく。延々と続く時の呼び方リストのあと、次のページに続きの呪文が書いてあった。
「ここまで読まなかったんだ」
僕はなんていう粗忽者だろう!
だが同じ過ちは繰り返さない。今度こそ純粋で美しいシェリル嬢を救うんだ!
僕はずっしりと重い時計を胸に抱いて、魔法陣の中心に立つと呪文を唱えた。
「テンプス・レヴェルテーレ・トリブス・アンニス・アーゴ。メモリアム・メーアム・テネーオ・オムニア!」
* * *
僕は少しだけ若い姿で王宮の自室に立っていた。暦を確認すると、ちょうど一週間前がシェリル嬢のお祖母様の葬儀だった。
「すでにモニカ女史は解雇されているな」
目を閉じるとまぶたの裏に、先ほどまでこの手にあった日記帳の内容が、右上に記されていた日付と共にありありとよみがえる。
「僕の記憶力がこれほど役に立つとは。まずはおかしな教育係に対処しなくちゃ」
三歳若いとはいえ、兄はすでに父上の政務を手伝い忙しくしていた。彼と話せるのは王家の家族が集まる夕食時しかない。それも食べている間はおしゃべりするなと言われているから、食後のひと時がチャンスだった。
「侍従の一人が出入りの仕立て屋から聞いたそうですが、シェリル嬢の優秀な教育係が辞めてしまわれたそうですね」
僕の言葉に、壁際に控えていた母上の侍女頭――ノヴェッリ伯爵未亡人がぴくりと眉を跳ね上げたのに気付いた。王族の会話に口をはさむわけには行かず黙っているが、あとで聞かなくちゃ。と思っていると――
「それってモニカ女史のことかしら?」
母上が振り返ってノヴェッリ伯爵未亡人に尋ねた。
フィオリーニ公爵家を解雇されたモニカ女史は、なんとノヴェッリ伯爵家令嬢の教育係に再就職していた。優秀なモニカ女史の噂は社交界にも流れていて、多くの貴族が我が娘の教育係に雇いたいと手ぐすね引いて待っていたところ、どういうわけか契約が終わったというのだ。
(公爵邸のお金をくすねたなんて話、どこにも出てこないじゃないか)
シェリル嬢の両親が彼女をだますために使った方便だったのだろう。
「モニカ女史はシェリル様の教育係を続けられないことを大変嘆いておいででした」
食卓に乗った大きな燭台のロウソクが、ノヴェッリ伯爵未亡人の横顔に暗鬱な陰を落とした。その表情からモニカ女史の落胆ぶりが伝わってくるようだ。
「僕、怖い夢を見たんですけど、公爵家が新しく雇った教育係がとてもおかしな人なんです!」
侍従から聞いた話とするには限界があるので、予知夢を見たことにする僕。ずいぶん厳しいこじつけにも関わらず、僕を信頼しきっている兄は相好を崩した。
「ローラン、お前は過去を記憶するだけじゃなく、未来のことまで分かるようになったのか? 水晶玉でものぞいて様子を見ておこうか」
さて翌朝、礼拝堂ですれ違った兄は顔色を変えていた。
「大変だ。私の婚約者が狂わされてしまう! 水晶玉でのぞいたら、新しい教育係とシェリルが笑い方の練習をしていたんだ。こうやって」
兄が手の甲を頬に添えて悪役令嬢の高笑いスタイルを真似たので、僕は吹き出しそうになるのを必死でこらえた。顔面蒼白な兄は、いたって真剣なのだ。
モニカ女史の教育を継続して受けさせたい王家の意向という理由で、シェリル嬢は一日おきにノヴェッリ伯爵未亡人の邸宅へ馬車で通うことになった。
「そろそろシェリルのデビュタントの日だ。美しく成長しているだろうなあ」
ある日の夕食後、嬉しそうな兄を横目に見ながら僕はまた動かなくちゃと思っていた。暦を見ながら時機をうかがって、
「兄上、怒らずに聞いてください。また変な夢を見てしまったのです。シェリル嬢がデビュタントで虎柄のドレスを――」
「虎!?」
唖然とする兄には申し訳ないが、話を続けさせていただく。
「はい。フィオリーニ公爵家ご用達の仕立て屋が、せっせと縫っているところです」
咆哮を上げる虎の首が生き生きと刺繍されたドレスは、公爵家に納入される前に王家によって差し押さえられた。ついでに宝石商が大量に受注したネックレスやブレスレットも。
「フィオリーニ公爵は財政が厳しいと申しておったのに、娘のデビュタントにあんな趣味の悪いドレスや宝石を注文するなんて、何を考えているんだ!」
兄は夕食のパンを片手で握りつぶし、母上に眉をひそめられた。
兄上と父上が話し合った結果、シェリル嬢はとりあえずデビュタントまで、ノヴェッリ伯爵未亡人のお屋敷に仮住まいすることとなった。祖母を亡くした心の傷が癒えるよう、祖母との暮らしを思い出す公爵邸を離れていただくという、やや無理のある理由が考えだされた。
舞踏会当日―― 兄のエスコートであらわれたシェリル嬢は見違えるほど美しく成長していた。いや、もともと綺麗な顔立ちをしていたのは知っている。だが僕の記憶の中の彼女は、痩せぎすで目の下にくまを作って、趣味の悪いドレスに身を包み高笑いをあげていたのだ。
「まあ見て。ベルナルド殿下の婚約者、シェリル様よ」
「わあ、なんてお美しい」
令嬢たちのうわさ話が聞こえたフィオリーニ公爵夫妻、喜ぶべき場面なのに無表情だ。
「ベルナルド殿下とお似合いね!」
なんて声も聞こえてくる。弟として誇らしい気持ちと―― なんだろう、このチクリと胸に刺さる痛みは……。
「ローラン、次はお前がシェリルと踊りなさい」
兄にうながされ、僕はシェリル嬢をダンスに誘った。
「喜んで」
後ろ足を引いて、ふわりと挨拶するシェリル嬢が可憐で愛らしい。ふっくらとした頬には血色もよみがえって、薔薇色に染まっている。
彼女の細い腰に手を添えると、白い胸元からかぐわしい匂いが立ちのぼってきた。つややかな黒髪の上でシャンデリアの光が舞い、品の良い小さなイヤリングがきらりとまたたいて彼女の美しさを引き立てた。
僕の腕の中でステップを踏む彼女は兄の婚約者。そう、僕が敬愛する兄の妻となる人なのだ。
デビュタントを終えてもシェリル嬢は実家に帰りたがらなかった。しかし両親の悪口を言うべきではないと考えているのだろう。
「今日は少し熱っぽくて馬車旅に耐えられません……」
などと言って帰宅を引き延ばすだけ。僕には彼女の気持ちが痛いほど分かった。
絶対に誰にも言わないという約束で、ノヴェッリ伯爵未亡人の娘さんがシェリル嬢から両親の悪行を聞き出した。恐ろしいことに彼女は両親から日常的に折檻を受けていたのだ。日記には一度だけ、公爵からステッキでぶたれたと書いてあったけれど、繰り返されていたなんて――
誰にも言わないなんて約束ほど当てにならないものはない。ノヴェッリ伯爵令嬢の訴えにより、シェリル嬢の身柄は王宮敷地内の離宮に移された。未来の王太子妃をいつまでもノヴェッリ伯爵邸に住まわせておくのは、伯爵家の負担になるからだ。
というわけで僕は、何かと理由をつけては未来の義姉に会いに行った。大丈夫、義理の弟として親交を深めているだけだから。
「ローラン殿下にはいつもお優しくして頂いて、どうお礼を申し上げればよろしいのでしょう」
少しだけ頬を紅潮させて、シェリル嬢はうつむいた。なぜか僕とはなかなか目をあわせてくださらない。彼女の美しい緑の瞳を、まっすぐ見つめたいのに。
事件はオペラのシーズンに起こった。
劇場には遊戯場も備えられていて、我が国では貴族たちの社交場となっていた。シーズン中は劇場に行けば必ず知り合いに会える。
各家がボックス席を年間契約しているが、王家だけは舞台正面のひときわ豪華で広いボックス席を占有している。シェリル嬢と兄はまだ正式な婚礼の儀をあげていないから、彼女はノヴェッリ伯爵家のボックス席で観劇することになっていた。財政難のフィオリーニ公爵家は、ボックス席の使用権を裕福な商人に又貸ししていたからだ。フィオリーニ公爵夫妻はオペラに興味がないらしく、ほとんど劇場で見かけたことがなかった。
僕らは三人で王家の紋章がついた馬車に乗って劇場へ向かった。うしろに続く馬車には侍女や侍従が乗っている。
翌朝早くから外国の使節団との会談を控えていた兄は当初行かないつもりだったが、僕とシェリル嬢を二人きりにしてあらぬ噂が立つのを防ぐため、一緒に来てくれた。僕のわがままに付き合わせたようで申し訳ない。
よくあることだが、今夜も開演時間が遅れていた。なんでも主演歌手がパトロンの伯爵と痴話げんかして、すっかりへそを曲げてしまったらしい。声の調子が悪くて歌えないと訴える彼女を、劇場支配人が説得中だとか。
僕たちはボックス席でカードゲームに興じたり、食事を取ったり読書したり、女性方はおしゃべりに花を咲かせたりと退屈せずに待っていた。
気の毒な兄は明朝の仕事のために、第一幕が終わったところで帰って行った。
その兄を乗せた馬車が、事故を起こしたのだ。
馬の様子がおかしいことに気付いた御者が、
「殿下、降りてください!」
と叫んだそうだ。二人とも暴走する馬車から飛び降り、石畳に転がって軽い怪我を負ったものの命に別状はなかった。
暴走馬車は王宮を取り囲む深い堀の底に落ちて行った。
王太子殺人未遂事件として、死亡したニ頭の馬は念入りに調べられた。その結果、ニ頭とも幻覚作用のある草を食べていたことが分かった。
まず最初に疑われた御者が血の気の引いた顔で弁明していたころ、劇場の大道具係から目撃情報が得られた。
「開場前からそこの橋のたもとで様子をうかがっていた男がおりましてね。違ったら申し訳ねぇんですが、フィオリーニ公爵家に出入りしてる者じゃなかったかなぁ。あっしも荷物の搬入をしながら見てやしたから正確にゃぁ分からねぇけど、馬に水を飲ませてるように見えたんだが……」
楽屋から見下ろしていた合唱歌手たちの協力もあって、犯人はほどなくしてつかまった。僕には忙しい兄を劇場に誘った責任がある。なんとしても事件解明に力添えしたかった。
「なぜベルナルド王太子をねらったんだ?」
問いつめる僕に、公爵家の出入り商人はガチガチと歯を鳴らしながら答えた。
「お、王太子ですって!? とんでもねえ! おいらは奥方様から頼まれたんでさぁ。シェリル様を乗せてきた馬車の馬に、快適に走れる薬を飲ませるようにって」
「奥方?」
「へ、へい。フィオリーニ公爵夫人でごぜぇますよ」
「ふぅん。馬車には王家の紋章がついていたはずだが?」
「そ、そんなの見てねえ! 人通りの多い劇場裏で、馬に薬飲ませなきゃなんねぇんだ。慌ててたんですよぉ! おいらはただ、金貨をいただけるって言うから――」
公爵領の薬師がすべて取り調べられ、やがてフィオリーニ公爵から極秘で毒薬の調合を頼まれた者が見つかった。実行犯は夫人から頼まれたと話していたが、薬のほうは公爵自身が注文していた。
フィオリーニ公爵夫妻は王太子に害をなそうとしたのではなく、長女に重症を負わせて不具の身とすることで、次女を王家に嫁がせようとたくらんでいたことが明らかになった。
シェリル嬢は彼らの娘とはいえ、王家が認めた王太子の婚約者。貴族にあるまじき非道な行いを責められたフィオリーニ公爵夫妻は爵位を剥奪され、ただのジャンカルロとエレナとして投獄された。フィオリーニ公爵位は空位となり、新たにフィオリーニ公として叙される王族があらわれるまでは、公爵領を王家直轄地として治めることになった。
二人の娘、シェリル嬢とイザベラ嬢は女子修道院へ送られることが決まった。
兄は婚約者序列第二位であった別の公爵令嬢と新たに婚約した。フィオリーニ公爵家ほど王家に近くはないが、家柄は申し分ないだろう。
* * *
王太子殺害未遂事件から一年が経った。
結婚を機に僕がフィオリーニ公に叙せられ、ローラン・フィオリーニ公爵となった。
僕の愛する妻はノヴェッリ伯爵家シェリル嬢――あわや修道院送りになる直前、僕が彼女と婚約することを条件に、シェリル嬢はノヴェッリ伯爵未亡人の養女になったのだ。未亡人としては、将来の王弟である公爵の妻が養女なら、宮廷内の力関係も盤石になるからすんなりと受け入れてもらえた。
一方、父上にはシェリル嬢をノヴェッリ伯爵家令嬢とすることを条件に、婚約を許可してもらった。
「どっちがどっちの条件だよ」
僕が頭をひねって考えだした策を告白したとき、兄ベルナルドは笑い声を上げた。
「お前が私の婚約者の人生を、そんなに大切に思ってくれていたとはな。私としても妻になると信じて接してきた女性が修道院送りになるのは、心情的につらいものがある。だがローラン、本当に良いのか? いくら兄思いのお前とはいえ――」
兄上には最後まで、僕の密かな恋心は隠し通せていたようだ。
僕はシェリル嬢にも計画を打ち明けた。
「――というわけで、あなたが自由になるには僕と婚約しなければならないのだが」
シェリル嬢は顔を上げ、初めて僕をまっすぐ見つめた。だが僕はわざと窓の外を見ていた。まなざしに熱い気持ちが見え隠れして、僕の気持ちが露呈してしまいそうで――
「ローラン殿下、お気持ちをさらけ出してはくださらないのですか? わたくしはもう、ベルナルド殿下の婚約者ではないのですよ?」
「え……」
僕はうっかり、真実を見透かすような彼女の緑の瞳をのぞいてしまった。
「僕の気持ちにお気づきだったのですか。兄は予想だにしない様子だったのに」
決まりが悪くて慌てて目をそらした僕に、シェリル嬢は口もとを扇で隠して上品にほほ笑んだ。高笑いしていた虎柄ドレス嬢はもういない。
「うふふ、殿方は鈍感なくらいでちょうどよいのですわ」
よく言う。父親と義母の悪意に気付かなかったくせに! と思いかけたが、いつも物事の明るい面に目を向けるシェリル嬢は人の悪意に鈍感で、善意と愛情に敏感なんだ。
「それにローラン殿下―― わたくしも同じ気持でしたから……」
「シェリル嬢……!」
鈍感なのは僕のほうだった。恥ずかしながら、彼女が寄せてくれていた想いすら全く分かっていなかったのだ。気付いたときには僕は、席を立ち彼女を抱擁していた。デビュタントで踊ったあの夜と同じように、彼女からは優しい香りがした。
思い返してみれば、僕は彼女のデビュタントに三回立ちあっているのだ。二回も過去に戻った僕はこの十年間、ずっと彼女を見ていたことになる。記憶はあいまいでも、想いが消えることはなかった。
「シェリル、ようやく君を抱きしめることができて僕は本当に幸せだ」
彼女の遺した日記を読んで、純粋な心にふれてからどれほど待っただろう。
「ローラン様、わたくしもこの日をずっと夢見ておりましたわ」
僕の腕の中でつぼみがほころぶように、いとしい人がほほ笑んだ。
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※第一章完結のファンタジー長編もよろしくお願いします!
『精霊王の末裔 〜先祖返りによって水竜の力がよみがえった俺は聖女になりたくない公爵令嬢と手を取りあって旅に出る〜』
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