第一章3 『優しくて、温かくて、時につめたい』
会社から電車を使い、一同はお花見スポットにやって来た。其処は、満開の桜が咲き乱れる、名古屋でも有数のお花見スポットだ。桜並木や桜のトンネルがあり、沢山の花見客で溢れている。なんとか場所を確保した一同は、桜の木の下にレジャーシートを敷き、デパートで買った食材を並べる。
美味しそうな食材を前に、このまま眺めていたらどんどん食欲が湧いてきてしまうと思った千里は、くるっと身体を180回転。桜の木に視線を移す。すると、春の温かい風と共に彼の目の前に淡い桃色の瓣が飛び込んできた。千里は反射的に腕で顔を庇い、それからゆっくりと目を開け、少し驚いたように言う。
「…わあぉ、綺麗」
「そうだね」
いつの間にか隣に来ていた業平が続ける。千里は、目線だけ隣にずらした。
「確かに綺麗だよ。だが、この世の中に桜というものが無かったら、春を過ごす人の心はどんなに長閑だったのだろうね」
「…?」
桜が無かったら、人の心は長閑になるのか…?千里はよく分からないという目で業平を見たけれど、彼は微笑むだけだった。それから業平は、降ってくる瓣を器用にも一つ摘み、懐かしい表情をして眺める。その様子を見た千里は自分も花びらを取ろうと頻りに手を伸ばすのだが、全て指の間から落ちていき、一回一つまみで取った業平を“この人何なの!?”というようなぎょっとした目で見た。
その視線に気が付いた業平は、少し苦笑いしてから、さあ、準備手伝うよ、と言い、二人は準備に戻る。そして、その後も順調に進み……
「乾杯!」
全員の明るい声とグラスのぶつかり合う音が響いた。千古はオレンジジュースを勢い良く喉に流し込む。他の面々もジュース、ビール、ワイン、日本酒など、各自の好きなものを飲んでいる。
「あー!!」
急に業平が何かを思い出したように叫ぶ。 それがかなりの大音量だった為、周りの花見客の多くが、怪訝そうに此方を見る。
「千里君に自己紹介して貰うの忘れてた!じゃ、今宜しく」
“確かに千里だけしていなかったが、大声で叫ぶことでもないだろう”全員が心の中でそう思った。
「えっと、大江千里です。これから宜しくお願いします」
千里は何を言ったらいいか分からなくなり、ザ・普通の自己紹介をしたが、他の皆が拍手と一緒に彼を温かく迎える。千里にとって、今までで一番楽しくて温かい春だ。目にじんわり熱いものが浮かんできた千里は上を向いた。
“泣くのはさ、ちょっとカッコ悪いじゃん? ”と思いながら。
***************
「楽しかったね、千里君」
「はいっ!業平さん、有難うございます」
あの後、夕方になるまでお花見は続き、丁度今、会社に帰ってきた。皆で美味しいものを食べて、他愛のない話をする。それだけでどんなに幸せな気持ちになれるのか、千里はそれを今日知ることが出来た。彼は、「家族」ってこんな感じなんだろうな、と思った。
「そうだ業平君。千里君の部屋、どうする?」
皆でエレベーターを待っている時、ふと小町が言った。
「あっ、忘れてた」
そう、この建物には社員寮的なものがあるのだ。この話を聞いた千里は、今の自分に住むところが無いことを思い出した。此処に部屋がない=家無し生活ということ。千里は、とても不安な気持ちになりながら次の言葉を待つ。
「小町さん。部屋ってまだ残ってました?」
「ええ。業平君の右隣」
「ああ、確かに。…千里君。2階が社員の住居なんだけど、空いてるって。ラッキーだったねー」
「それは、本当に良かったです。安心しました。有難うございます!」
内心物凄くほっとした千里であった。
そのまま皆でエレベーターに乗り、2階に上陸する。其処は、ホテルのような雰囲気で、部屋の中も凄く綺麗だった。ベッドにイスとテーブル、お風呂とトイレにキッチン、そしてまさかの液晶テレビ。なんとも贅沢な部屋である。
「わあぉ…凄いです。本当に此処に住んじゃって良いんですか?」
「うーん。住むのやめとく?」
業平が少し意地悪な顔をして言う。しかし、この機会を逃すと住むところが無くなる千里は、真っ直ぐ業平を見据え、必死に言う。
「絶対にやめません。本当に住みたいです。お願いします、住ませて下さい!」
「あはは…いやあ、千里君をからかうのは楽しいね。どうぞ、住んで下さい」
千里は、頑張った甲斐があった、と胸を撫で下ろす。
彼は、ふと、周りが静かだな、と思い辺りを見回てみる。すると、皆が千里と業平をを見て呆れた表情をしていることが分かった。皆に引かれ、焦った千里はフル回転したところで回転速度が遅い頭を頑張って使ったが、弁解は無理そうだと判断した。彼は、多分、数日経ったら忘れてくれるだろう、と考えて、自分の部屋に撤退した。
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「…んん~、ふわぁ…よく寝た」
今の時刻は午前6時。
ベッドから上半身だけ起こした千里は、腕をいっぱいに伸ばして欠伸をする。 それから名残惜しそうにベッドから出て、ゆっくり食事をしたり、テレビを見て過ごした。 そして丁度いい時間になると、昨日買ってもらった服に着替え、会社に向かう。
「おはようございます」
「おはよう、千里君」
そう答えたのは業平。まだ、会社には彼しかいない。 千里は、自分はどこに座ったらいいのか分からず、業平に訊く。
「あの、業平さん。俺って何処に座ったら良いですか?」
「ん?千里君の?…んー君のデスク無いねぇ。皆が来るまで其処のソファに座ってたら?」
「はーい、分かりました」
千里はふかふかのソファに座って、やはり大きくて綺麗な社内を、凄いな、と思いながら見渡している。すると、業平が難しい顔でスマホと睨めっこしている状況が目に入った。
「あのぅ、何してるんですか?」
「ん?写真の選定だよ。…そうだ!千里君にも選んでもらおう。こっちおいで」
「…?…分かりました」
千古は何のことか分からずに頭にはてなを浮かべながらも、業平のところまで歩み寄る。業平のスマホの画面には、沢山の世界中の美しい景観の写真が並べられていた。それを見た千里は、目を大きく見開き、楽しそうに輝かせる。そして興奮気味に訊く。
「これ、どこの写真ですか?」
「んー、一つ一つは憶えてないけど、大体ヨーロッパかな」
「…ヨーロッパ…!」更に目を輝かせながら言った。その後も少しの間楽しそうにそれらの写真を眺めていたが、ふと何かを思い出したような表情をし、業平の方を向く。
「あの、それで俺は何を選べばいいんですか?」
「よくぞ聞いてくれました。千里君にはね、女性が喜びそうな写真を選んでほしいんだ」
「…はい?…何故?」
「ちょっと、仕事に必要なんだ」業平がここまで来ると怪しい位真剣な顔つきで言った。
それですっかり信じてしまった千里は、業平の為、と思い一生懸命に写真を観察する。そして、5枚の候補を選んだ。
「業平さん、これでどうでしょう!」そう言った千里は、一つ大仕事を終わらせた後のようなすっきりした表情をしている。
「うんうん、良い。千里君、有難う」
写真選びが終わった二人は、楽しそうに雑談をしている。そして十分程経っただろうか。ドアの外からコツ、コツ、と靴の踵が床をうつ音が聞こえてきた。
「おはようございます」
そう言って中に入ってきたのは小町だった。入ってきたけれど、彼女はドアをいっぱいに開けて押さえたまま動かない。すると…「ちょっと、そっちちゃんと持ってくれないと落ちるんだけど!」「あ?お前が其処を持てば良いんだろ」「ちょ、ちょ…うわぁ!危な「うるせえ!」という会話が微かに聞こえてくる。それもどんどん近づいてきて、やっとその声の持ち主が現れた。それは兼盛と忠見であり、二人は重そうなデスクとキャスター付きの椅子を積み重ねて持っている。彼らはそれを他の社員のデスクの横に置いた。
「これ、千里君のね」
「わあ…!有難うございます」
千里は、自分のデスクと対面して初めて、今日から働くんだという実感が湧いてきた。新しい仲間と新しい職場。彼はとてもワクワクして、同時に緊張していた。色々な思いを巡らせながらデスクの前で突っ立っている千里に、業平が声を掛ける。
「千里君の初仕事はどれ位のものになるか分からないけど、まず昨日の異能力者に関しての補足をするね。異能力者には、それぞれ使える異能が限られているんだ。昨日の、記憶を読み取るやつみたいに。彼らの中には物質創生系異能を持っている人もいて、彼らが送ってくる異能道具の商品化の為の仕事もある。あと、異能力者は本当に少数しかいないし、政府によって隠されているからその存在を知っている人間も少ない。そして、表に出て来られない異能力者達は、そのほとんどが裏の組織、もしくは異能道具開発会社に所属してるから、我々が色々しなくてはいけないんだ」
「な、なるほど…」
千里は、この会社―政府の超秘密組織の凄さと、異能力者の存在、そしてその危険性を改めて知った。先程より緊張が増したように見えるが、同時に何かを決意したような表情をしていた。
「あ…紅茶紅茶」
千里が業平からの話についてもう一度整理していた時、小町が呟いた。
「…今日飲み忘れてきちゃった…急いで燃料補給しないと動かなくなっちゃう…」
そう言うとすぐに会社のキッチンに向かい、早く飲みたいとしても丁寧に手順を踏んで紅茶を作っていく。“紅茶が燃料”“動かなくなる”その言葉に疑問を覚えた千里は、直感的に隣の彼なら何か知っていそうな気になり、業平に訊いてみる。
「あの、小町さんって紅茶が燃料で、補給を怠ったらだめなんですか?」
「…あぁ。時々言っているけれどね、誰も詳しくは知らないよ。此処の人達は互いに詮索するのを嫌っている人が多いし。まあ、私から言えるのはこれくらいかな。後は直接本人に訊くしかないけど…それはあまりお勧めしないよ」
「は、はい…」
千里は上手く声が出なかった。業平の目が少し悲しみを帯びて、けれど鋭く冷たく光っていた為だ。銭湯の時と同じ様に。しかしその表情もすぐにいつものものに戻る。千里は少し安心したような気持ちになると同時に、彼は普段本当の感情を表に出さないんじゃないかという、心配に近い気持ちも生まれてくる。しかし、今の自分には何もできないだろうし、業平にも触れられたく無いものかもしれないと考えた彼は、深く踏み込むのは止めようと思った。
その時、ピピピピピ、と電話の音が静かな会社に鳴り響いた。
先程のことを考えており、誰の声も届かないようなところにいた千里は、その音で一気に現実へ引き戻される。
「もしもし?…はい。なるほど…承知致しました。今すぐ向かわせます。……いつも有難うございます。ええ、では」
そう言い、電話を切った躬恒は、長い白髪をサラッと靡かせながら千里の方にくるっと椅子を回して言う。
「千里君、初仕事ですよ」
とうとう次回、初仕事です。
さて、今日の一首。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほいける 紀貫之