第一章1 『餓死寸前の少年、都会に酔う』
首が痛くなるほどの高層ビル群に太い道路。夜も深くなり、街灯やビルの照明が存在感を強めている。其処に、一人の少年が歩いていた。彼は、この都会には場違いな汚れが目立つ服とぼさぼさの頭髪を身に着けている。
――ここはどこなんだろう…あぁ、おなかが空いた……そんなことを思いながらふらついた足取りで歩いている少年は、近くに小さな段差を見つけ、そのまま眠りについた。
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「この子…もしかして」
一人の男が、疲れた顔で寝ている少年のもとに近づく。男は、ふふふ、と笑みを浮かべると、何かを呟いた。その途端、彼らは季節外れの紅葉に包まれ消滅した。
「おーい、君。大丈夫か?ほら、起きる起きる」
先程の男…少年の知らない声が耳に響く。少年に話しかけた男は、少年の身体をぺちぺち叩いている。
しかし、起きたい脳とは裏腹に、未だに疲れている身体はまだ寝ていたいようで、少年ははすぐにそれを起こすことが出来なかった。それでも声だけ絞り出す。
「すいません。今すぐ起きます。……あの、此処どこです?……って、ええ!!!」
少年は周りを見渡した途端、驚きと恐怖が入り混じったような声を出した。
「ここは、私たちの会社の、裏玄関だよ。……分かってるよ、君が知りたいのはそういう事じゃないんだろ?ここはね、名古屋市だよ。あっ、そうだ。おにぎりいる?さっき買ったんだよね」
そういう事を訊きたいんじゃない、そう思った少年の心と我慢しきれない空腹を見透かしたように思われたが、少年の一番訊きたいことは其処じゃなかった。
「あ、あの…これどういう状況なんですか!?」
少年が必死の形相で訊くが、男は首をかしげるだけ。そして、二回ほど瞬きをした後、何か分かったような顔をして言う。
「ああ、このゾンビのこと?」
「何でそんな平気そうな顔が出来るんですか!俺達もゾンビにされちゃうかもですよ!?早く逃げないと…!」
「そんなに焦る事じゃな「焦る事ですっ!」
少年は男の言葉に重ねるようにして言うと、またびくびくしながら目を泳がす。
そうしている間にもゾンビは増えていく。息をひそめて見つからないようにしている少年だったが、隣の男が大きな叫びをあげることによってその行動も意味のないことと化した。
「ちょ、ちょっ…何やってるんですかっ!」
「ふふふ」
男が笑うと、此方に気づいたゾンビが食べ物を求めて近づいてくる。……食べられる…!少年がそう思った途端、男が“解除”と呟く。二人の前は一瞬真っ暗になり、そして一番最初の景色に戻った。
「はあっ、はあっ…え?ゾンビは?」
「いやあ、悪かったねぇ。でももう安全。此処はただの名古屋だ。…あっ、おにぎり。食べて」
「…有難うございます」
少し不満顔をしながらも、少年は、おにぎりをすぐに貰い食べる。それは普通の鮭おにぎりだったのだが、こんな美味しい食事は初めてのように感じた。
その後、男は立てるかいと言って手を差し出し、少年はその手を取って立ち上がる。立ったことで彼らに日の光が差した。少年は眩しい光に目を細め、朝の新鮮な空気を肺に取り込む。
「あの、さっきの本当に何だったんですか?」
「まあ、先程のが何だったにしても、今私たちはこうして生きている。だから良いじゃないか」
尤もらしいことを言っているが、ただの誤魔化しに過ぎない。しかし、もう危険はないと分かって安心しきってしまったのか、少年は「確かにそうですね」と言ってこれ以上追及するのをやめた。
「おにぎり有難うございました。じゃあ、これで失礼します」
「…私で良かったら話を聴いてあげようか?」
少年は驚いた。エスパーか、あるいは凄く頭の切れる探偵か…彼の知識量じゃそれくらいしか思いつかなかったが、兎に角凄い人だと悟った。
そして、相談相手が見つかった少年は、聞いて貰うことに決めた。
「有難うございます。どこか、座って話します?」少年は丁寧に腰を折り、お礼を言った。
「いいや、歩きながら。私について来てね」
「…了解です」
どこに行くのか分からない少年は、少しの間迷ったが、今ついていかないと他に行くあても無い為、すぐについて行くことを決めた。歩きながら男が少年に声を掛ける。
「まず、君の名前を教えてくれるかな」
「はい。大江……大江です」
「下の名前は?」
そう聞かれてから少しの間、沈黙が流れる。男は急かしたりせずに、少年が話し出すのをゆっくり待つ。
「えっと…千里、って言います」千里は下を向いて言った。声も暗かった。
「千里君か。良い名前だ」
「そうですかね…千里って、女の子みたいな名前だから、好きじゃないんですよ」
千里は、もっと格好いい名前だったら、強く生きてこられたのではないかとずっと思っていた。
そんなこと、あり得ないのに、自分の気持ちの問題なのに、それをこの名前を付けた両親のせいにしてしまうのであった。彼は、そんな恩知らずな自分も好きではなかった。
そんな千里を見て、男が声を掛ける。
「名前なんてこの世に溢れている人間を区別する為のものでしかないよ。逆に言うと、名前は沢山の人の中で自分を証明するものだ。そして、親は名前に何らかの意味を込めるんだよ。だからね、名前は嫌わない方が良い。嫌っていても決していい気持ちにはならないから」
男は、意味があったからなんだ、と思いながら、自分の気持ちに反した台詞を優しい笑顔で吐いた。しかし、嫌わない方が良いと思っているのは本当だった。同じく名前を嫌っている自分が、嫌うことによって気持ちが良くなったことなんて一度もなかったから。
そんな台詞だったが、千里をはっとさせるには十分だった。名前に意味が込められているなんて、彼は考えたことも無かった。千里は今すぐその意味を知りたくなったが、今の自分にはそれを知る事が出来ないと分かり、過去の自分を悔やむ。
何も知らない、いや、知ろうとしなかった自分が嫌になったのか、千里は話を逸らす為、隣の男に話しかける。
「そういえば、あなたの名前は?」
「私?在原業平だよ」
「素敵な名前ですね」
「そう?名前を褒められるのは中々嬉しいものだな。名前を訊くだけのはずだったのに長くなっちゃった。さ、君の話をして良いよ」
業平は嘘をついた。先程、名前は自分を証明するもの、名前には意味がある、嫌うな、と散々偉そうに千古に言ったからだ。しかし、業平が自分の名前が嫌いな理由は、千里とは少し違ったものだった。意味があろうが無かろうが、今すぐにでもこの名を捨てたい気持ちだった。
そんな業平の心の中を知り得ない千里は、業平に話をして良いと言われた為、自分のことを話し出す。
「……俺の家族――両親は、俺が小3の時に…殺されたんです。でも、丁度その日、俺は友達の家にお泊りに行っていて、運よく殺されませんでした…その後は、特に頼れる身内もいないんで、近所のじいちゃんが育ててくれたんです。でも、そのじいちゃんも、2か月前に亡くなって……俺はじいちゃんが残したお金で生活してたんですけど、とうとうお金が尽きそうになっちゃって、都会でアルバイトしようと思ったんですよね。俺の地元、びっくりするくらいの田舎で、そういうのなくて」
千里は今でも、思い出すだけで寒気と吐き気に襲われる。しかし、それでも、誰にも話せずに抱え込むより、誰かに言えたのが、彼にとってとても嬉しいことだった。
彼の家族が殺された次の日、何も知らなかった千里は、元気にただいま、と言って家に入った。鼻をさす嫌な匂いに顔を顰めながら奥に進むと、其処には変わり果てた千里の家族の姿があった。
再び彼は気持ち悪くなり、口元に手を当てた。忘れたくても、その光景が彼の脳裏に焼き付いて離れないのであった。
それから千里は、近所のおじいさんにに育てて貰うことになる。おじいさんの給料では彼を学校に通わすことは出来なっかった為、学校は中退した。
しかしおじいさんは普通に頭が良かった為、毎日仕事から帰ってきた後に勉強を教えた。だから、勉強面での不自由は全くなかったものの、学校に行かないということは友達も出来ない。千里はそれだけが、少し寂しかった。
「辛い話をさせてしまったね。…でももう働くことに関しては問題ない、私たちの会社で働くといいよ。きっと君にはぴったりだ」
「本当ですか!有難うございます」 千里は丁寧に腰を折り曲げて言った。
「気にしなくていいよ。…っと、着いた」
千里は顔を上げる。其処には大きなショッピングモールが、胸を張って建っていた。初めて見る建物に興奮した千古は、先程とは打って変わってとても楽しそうな表情をしている。
「…わあぉ…凄いです。…でも、どうして此処に来たんですか?」
「そりゃあ勿論、君の会社で着る服を買う為だよ。新しい服の方が気持ちいいと思うからさ」
「気にしないで下さい。それに俺、お金ないですし」
「それは問題ない。皆で買ってあげるから」
「そんな…申し訳ないです」
働かせてくれる上に服まで買ってもらえるなんて流石に申し訳ない、もう一度ちゃんと断ろうと思った千古であったが、業平によって半ば強制的に連れていかれた。そして千里が解放された場所服屋の前。千里ももう断れなかった。
「さあ、千里くん。何欲しい?」
業平はウキウキしている。 未来の後輩の服選びが、何故か彼の心を躍らせた。
大量の服を前にしながら業平の質問に答えるべく悩んでいた千里であったが、やはり着たことの無い種類の服から自分の欲しいものを見つけるのは無理だと判断し、業平に訊くことに決める。
「俺、こんなちゃんとした服着たこと無いので分かんないです。業平さんは普段どんな服着てるんですか?」
「私?この服だよ。あの会社規則少ないし、スーツ着て出勤してる人は少ないね。まあ、でも少しきっちりした感じの服が一着あればどんなときにも着ていけるから、千里君にはそういうものが良いと思うよ」
業平は、黒のタートルネックセーターに黒の長ズボン、少し青みがかったグレーのトレンチコートそして片耳に耳飾りを着けている。千里は、“この人、スタイルも顔だちも良いからどんな服でも似合うんだろうな”、と思った。
「ありがとうございました」会計の後、服屋から出てすぐ、千古は物凄い勢いで頭を下げた。鼻の頭が脚につきそうだ。
結局ほぼ業平が選んだが、白のワイシャツ、黒い長ズボンと薄めのグレーのセーターに、ベルト、新しい靴を買った。今、感謝を伝える事しか出来ない千里は、その後も沢山頭を下げた。そして、いつかこの恩はちゃんと返そう、そう思った。
器用にも頭をぺこぺこしながら歩いていた千里であったが、途中で業平に「恥ずかしいからやめて」と言われ、今度は良い姿勢で歩き出す。
ショッピングモールを出ると、業平は会社に戻る道とは反対側に進んでいった為、帰ると思っていた千古は少し驚き、同時にどこに行くのかが気になった。
「あのう、次はどこ行くんです?」
「ん?銭湯だよ。身なりは整えてからの方がいいからね。千里君、流石にお風呂の入り方とか髪や身体の洗い方は分かるでしょ?」
「流石に俺もそれくらいは分かりますって」
「良かった良かった」
二人が緩い会話をしていると、銭湯についた。これもまた、千里の地元の小さくてボロい銭湯とは大違いである。都会って凄過ぎると改めて思う千古であった。
「じゃあ、私は此処で待ってるから。ゆっくり行っておいで」
「有難うございます」
その銭湯には、大きいお風呂が幾つもある。ビリビリするものもあった。
名古屋市に来るまでは川で身体を洗っていた千里は、温かいお湯にシャンプーとボディーソープを使えるという幸せを存分に噛み締める。
千里はいつ迄も入っていたかったが、業平を余り待たせるわけにはいかないと思った為、そろそろ出ることにした。
「はぁ、気持ちよかった」身体から蒸気を発し、笑顔で言う。
千里は滑って転ばないように慎重に脱衣所まで歩く。
そして、先程買ってもらった服に着替え、髪を乾かして銭湯を出る。千里は、新しい服に、心まで引き締まる感じがした。
銭湯の外にいる業平は、近くにあるベンチに腰掛けて、寂しそうな、しかし、何かそれとは別のものに向けた怒りもあるような、表現し難い表情でスマホの画面を見ている。
それを見た千里は話しかけてはいけないような感じがして、業平のその表情を見つめたまま暫く突っ立っていた。
業平はそれからすぐ、入り口に突っ立っている千里に気づいた。もう少し遅くなると思っていた為、千古に気を使わせてしまい申し訳なく思うが、業平は先程のことについて知らないふりをしたかった。
「あ、千里君。もう上がったんだね。そこに立ってどうしたんだい?」
「い、いえ。待たせちゃってすいません」
「じゃ、千里君の準備も整った事だから、そろそろ会社に戻りますか」
業平は歩きながら、勝手に抜け出したから怒られちゃうかも、と呟く。それを聞き、業平が仕事中に抜け出したのは自分のせいだと思った千里は、業平に対して申し訳なく思った。
それから二人の間に会話はなく、ただ歩いていくのであった。
「着いたよ」
「わあぉ…こうやって正面から見てみると、もの凄い建物ですね」
「そこまでじゃないと思うけどね?」
この建物は、特別階が高いわけでもないが、ほとんどガラス張りだった。千里はそれにとても驚いたが、業平は普通だよ、と言う。
千里はショッピングモールに行くまでにもそんな建物があったことを思い出した。しかし、やはりこんなビルを一棟所有しているなんてどんな会社だ、と彼は思うのであった。
ビルに見惚れていた千里は、業平がもう進んでいることに気づかない。 しかし業平は、千里がいないことにすぐ気が付き、声を掛ける。
「置いていくよー。急げー」
「はーい。今行きまぁす」
千里が自動で開くドアをくぐると、其処には広いエントランスがあった。少し進むとエレベーターが現れる。千里は、昔の彼のように階段だけ使う生活は此処ではもう古いものなのだろうと感じた。しかし、階段は足腰の為に必要だと彼は思う。そして、科学の発達は人間の退化(勿論全てではないが)に繋がっているのだろうなぁ、と頭が良く見えそうな事を考える。
ぼぅ、としていても人は歩いたりを無意識にできることを千古は知った。
なぜなら――業平に声を掛けられて顔を上げると、其処にはすぐドアがあり、まさに二人の目的地だった為である。
読んで頂き有難うございます。楽しんで頂けたら幸いです。
さて、今日の一首
月見れば千々に物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど 大江千里
歌意 月を眺めていると、あれこれと際限なく物事が悲しく感じられることだ。私一人のために来た秋ではないのだけれど