北の対
高瑞は、平穏な毎日を送っていた。
弓維が嫁いだと聞いても、子を産んだと聞いても、特に感情も動かず、自分はやはり、愛していたと言っても己のためで、弓維の事など何も考えていなかったのだと思わせる。
病んでいた自分にとって、弓維は夢のような存在であったのは確かだったが、愛していたかと聞かれたら、恐らくあの、傷ついた昔の自分が、母に助けを求めるように執着していただけであって、今の穏やかに克服した自分には、もう過去の事なのだとそれで知った。
同じように北の大陸から療養に来ていたヴェネジクトとは、今はとても良い友だった。
ヴェネジクトがここに定住すると決まった時、ずっと客間に居たのだが、それでは落ち着かぬだろうとここに共に入る事を提案したのは高瑞だ。
なので今は、ヴェネジクトも同じ対で落ち着いて暮らしていた。
ここは、元は龍王が隠居していた場所と聞いていた通り、とても大きくて一人には余るほどだったので、高瑞も毎日退屈しないで居られるので、ヴェネジクトが来てくれて良かったと思っていた。
ヴェネジクトも落ち着いた様子で、時に北のドラゴン城に催し物などの見学に戻ることもあったが、今ではすっかりこちらの住人だった。
そのヴェネジクトが、居間で庭を眺めていた高瑞を訪ねてやって来た。
「高瑞。龍王妃が里帰りして来たそうな。挨拶はどうする?」
高瑞は、ヴェネジクトを見て言った。
「蒼が本日は政務も無いしこちらで居てくれて良いと申して来たので知っておる。特に挨拶などは必要ないと聞いておるが。」
ヴェネジクトは、苦笑しながら高瑞の前の椅子に座った。
「それは我も知っておるが、やはり無視するのもと思うて。本日は月の眷族として生まれた皇子も連れておるとか申すし、我ら月の宮に住まわせてもらっておるのに、新しい眷族に会っておかずで良いのか?」
言われてみたらそうだ。
長い年月生きて死ぬことのない月の眷族は、数が少なく滅多な事では生まれないらしい。
珍しく生まれたその皇子に、目通りもしておかねばこれからの事もあるかもしれない。
高瑞は、頷いた。
「ならば先触れを。恐らく龍王の対に居るのだろう。ここから近いし、行き合う事もあるかもしれぬしな。」
ヴェネジクトは頷いて、侍女を呼んだ。ここは、常に侍女が居るわけではないので、いちいち呼ばねばならない。
最初は戸惑ったものだが、今では放って置いてくれるので気楽だと思っていた。
呼ばれて急いでやって来た侍女に申し付けて、二人は返事を待って着替えを始めた。
龍王妃に会うのに、部屋着では龍王に何を言われるか分からない。
二人は、最低限の礼儀を思い出すのに苦労した。
何しろ月の宮は、そういうことに弛いので普段からやらないので、つい忘れてしまうのだ。
北に居た時には洋服だったヴェネジクトも、ここ最近はすっかり着物姿が板について来ていた。
二人は侍女に手伝われて着替えながら、挨拶の文言を考えていた。
一方、維月と将維は、昨日の炎月の訪問以外こちらでは里帰りしか目的もなく、仕方がないので二人でぶらぶらと庭を散歩していた。
蒼は一応、帰って来ている維月を放って置くのもと思っているらしく、政務を入れずに部屋へ話に来てはくれるが、そんなに話す事もない。
さっきまでは部屋に居たが、蒼も杏奈のところへ戻ったので、やることもなく退屈にしていたのだ。
本来なら、十六夜や碧黎が相手をするので蒼もそこまで気を遣わないのだが、二人は今超絶に忙しいらしくて、もう少し待って欲しい、それまで頼むと蒼に言って来ていたらしい。
何がそんなに忙しいのかと、また面倒があったら困ると維月は眉を寄せていたが、特に維月の目には変わった様子も見えていなかったので、黙って待つことにしていた。
そこへ、侍女が慌てたように寄って来て言った。
「維月様、高瑞様とヴェネジクト様がご挨拶をと、先触れが参りましてございます。」
維月は、驚いた。そういえばここには二人が居たが、会う事がないのですっかり忘れていた。
「まあ、すぐに戻るわ。そうお伝えして。」
だが、将維がそれを聞いていて、脇から言った。
「いや、あちらへ参りましょう。」え、と維月が驚いていると、将維は続けた。「ここは月の宮で細かいことにはこだわりませんし。あちらへ行っても非公式なのですし問題ありません。あの二人は北の対に居るのでしょう。一度見てみたいと思っていました。」
北の対は、蒼が将維のために建てた宮。
転生して、あちらの様子も見てみたいと思うのだろう。
維月は、頷いて言った。
「では、このまま散策のついでに伺いますとお伝えを。庭から参るわ。そうしたら、あちらも偶然行き合ったと構える事もないでしょうし。そのようにお伝えして。」
侍女は躊躇ったが、しかしそこは月の宮なので、あっさり頷いて頭を下げ、それを伝えに行った。
将維は、微笑んだ。
「楽しみです。あちらの庭が、我が居なくなって荒れて来ていたのは知っておったので、高瑞が入って持ち直したかと気になっていたのですよ。」
そういえば、蒼もそんな風に言っていた。
主が居なくなると、指示するものも居なくなり、この宮のように王が特に庭にこだわりがないと、庭師も凝ろうとしないので殺風景になる。特に北は、来客も入らないのでそれが顕著だった。
ここに将維が居た時は、将維が指示するのでそれなりになっていたものだった。
「参りましょう。私も楽しみだわ。」
そうして、二人は楽しげに笑い合いながら、北の庭はと足を向けた。
一方高瑞とヴェネジクトは、その知らせを受けて驚いていた。
「…来るのか。地位から考えて後で龍王が怒り出すのではあるまいの。」
ヴェネジクトが言う。
高瑞は、それで宮が大変なことになったのを記憶しているので、特に顔を青くした。
「…せっかくに穏やかに暮らしておるのに、また厄介事など抱え込むのは…、」
だが、庭から来るのだという。
偶然に庭を散策していたら、目が合ったという感じにするらしい。
それなら問題ないか、などと葛藤している高瑞の目に、小さな皇子と共に、気楽な着物で北の庭を見ながら歩く、維月の姿が映った。
「…戸惑っている場合ではないの。来た。」
ヴェネジクトは、そちらを見た。
皇子は、幼いのに庭に興味があるのかあちこち動き回って木の枝ぶりを見たり、花の塩梅を離れて見たりとまるで老長けた神のような動きで、庭を鑑賞している。
維月は、それを微笑みながら眺めていた。
今の庭は、高瑞が指示して作らせているもので、入った時には荒れていたので、やり甲斐があったものだった。
やっと今ではそれなりになって、ホッとしていたのだ。
「あの皇子はまだ生まれて間もないと聞いておるのに、もうあれほどになるか。」ヴェネジクトが言う。「確かに月には型がないので、身はいくらでも変えられるのだと聞いておるが、あの庭の見方はどうよ。頭の中まで成長が早いのか。」
それは、高瑞も思った。
高瑞が直さねばと思っている枝を、何やら指差しながら話しているところを見ると、どうやら同じところをおかしいと思っているらしい事は分かる。
とはいえ、こうして眺めてばかりも居られない。
高瑞は、立ち上がった。
「参ろう。長く放って置いては失礼ぞ。」
ヴェネジクトもさすがに緊張気味に頷いて、そうして二人で、居間の窓を開いて、外へと足を踏み出した。
あちらは、高瑞とヴェネジクトが出て来たのを見て、こちらを見て立ち止っている。
さすがにあちらから歩いて来る事は無くて、そこにはホッとした。何しろ、序列というのはとても大切で、上の者に足労を掛けるわけにはいかない。
高瑞は、久しぶりに気を引き締めて、龍王妃の前に立った。
維月は、地位的に、今では王ではない二人なので、自分が先に話さなければならないのを分かっているので扇を高く上げて、言った。
「まあ、高瑞様、ヴェネジクト様。お久しぶりでございます。皇子と庭を散策しておったのですわ。」
高瑞は、頭を下げた。
「はい、維月様。こちらにいらしておるのを知っておったのに、ご挨拶もせずで申し訳ない。今は、ヴェネジクトと共に蒼殿から北の対を使わせてもらっておるので、只今はこちらの庭も我が管理しておりまして。」
維月は、頷いた。
「とても美しい様ですこと。こちらでおった将維様が亡くなってこちらも荒れておりましたのに、美しい様になっておるなと皇子と話しておったのですわ。」と、将維を見た。「こちらは、我の第三皇子であります、将維でありますの。維黎という名を付けておったのですけれど、皆があまりに将維様に似ておるので将維と呼ぶので、もう王がそれで良いとおっしゃって。」
将維は、頷いて高瑞を見上げた。
「高瑞殿、ヴェネジクト殿。我は父上の子であるが、こちらの眷族であるのでまたお会いすることも多いであろう。よろしくお願い申す。」
幼い子がそんなことを言うので、二人は目を白黒させたが、頷いた。
「こちらこそ、よろしくお願い申す。」と、庭を見た。「それで、何やらあの枝を見ておったが、やはり落とした方がと思うか?」
将維は、頷いた。
「せっかくの景観があれ一つで台無しだなと。」と、脇を指さした。「それに、この様だとこちらに岩でも置いたら良いのではないかと母上と話しておったのだ。良い具合に白い石が結界外にあったのを見ておったので、あれを運ばせたら良いのになあと話しておった。」
ヴェネジクトが、目を丸くして言った。
「主は誠によう分かっておるのだな。そのように幼いのに…龍王の血筋とは、それほどに優秀なものか。」
維月が、フフと微笑んだ。
「確かに我が王は大変に優れたかたでありますけれど、これは将維が生まれもったもので。他の宮のかたはあまりご存知ではありませぬが、将維は前世の将維様の記憶を持っておるので…中身は、将維様でありますの。」
高瑞もヴェネジクトも、驚いた顔をした。ということは、六代龍王将維ということか?!
「え、元龍王の?!」
だとしたら、元はこの対の主だ。
二人が言葉を失くして将維を見るのに、将維は苦笑した。
「記憶はあっても今生、我はもう龍でさえない。月の眷族の命の一つぞ。なので、主らも気負う必要はないのだ。」
それでも、高瑞は言った。
「だが…ここはそもそもは主のために建てられたものだったのでは。ならば戻ったのだし我ら別の場所を蒼に頼むゆえ、こちらへ戻れば良いだろう。」
しかし、将維は苦笑して首を振った。
「だから我は、父上のお傍に居るべきだと思うておるから。こちらへも来るが、その際は父上の対に入るゆえ、問題ない。ここはもう、我にとっては前世の隠居していた場所なのだ。これからは、また責務があるしそちらに尽力したい。生まれたばかりで隠居もないだろう?」
幼い子供と話しているのを忘れてしまう。
二人は、そう思いながらそれを聞いていた。将維は、確かに前世の龍王なのだろう。だが、確かに譲位してこちらに来てからは、世捨て人のように過ごしていてついぞ名前も聞かなかった。
今は、新しく生まれ変わって、何かを成したいと思っているのだろう。
それから、微笑ましく見ている維月を後ろに、二人は将維と庭の事で話が弾んで、長い間北の庭で話していた。




