治療
椿は、上から気が気でなくその様子を見ていた。
楓は、難なく英心に背負われているが、それでも落とされでもしたら大変な事になる。
フィールド上では、まさに接戦になっていた。
「箔炎様!」
椿は、思わず叫んだ。
箔炎は、重そうな軍神を担いで走っている。あんなものを気も使わずに持ち上げているだけでも大変なのに、走って行くなど正気の沙汰ではなかった。
思った通り、英心が抜こうとスピードを上げ始めた。
「ああ…楓…。」
桜が、案じて思わず声を漏らす。
あんなに揺れる背に乗せられて、あの気の小さい子がどれほどに恐ろしいと思うておることか。
桜は、己のことのように胸が締め付けられるようだった。
そしてその後ろからは、イライアスが誰か、知らぬ神を背負っている。
椿には分からなかったが、分かる者には分かった。それは、ドラゴンの王であった、ヴェネジクトだった。
「慌てるでないぞ、イライアス。」ヴェネジクトが、背負われたまま言った。「娘を背負っておる者が居る。あの様子では、長く掴まっておられぬから落ちた時蹴散らしてしまおう。万が一にも避けられるように、こちら側から抜いた方が良い。」
イライアスは、頷いた。
「は。」
イライアスは、素直に言う事を聞いて、箔炎の右側から抜きに掛かっている英心を後目に、自分は左側から抜きに掛かった。
箔炎は、このままでは二人に抜かれて点が無くなると、必死に踏ん張った。
「…させぬ!」
箔炎は底力を見せた。
いきなりに速度が上がったので、それを抜こうとしていた英心も、イライアスも一瞬、避けるために戸惑ってつんのめった。
「きゃ…!」
楓が、背に掴まっていられずに落ちて行く。
背中からその気配が離れて行くのを、英心はスローモーションのように感じた。
イライアスの方は、ヴェネジクトはしっかりと足まで使ってしがみついていたので、自分さえ転がらなければ無事で、すぐに箔炎を追えた。
…せめて地面に激突するのだけは!
英心は、咄嗟に自分の背を下にして、楓の落下地点に滑り込み、腹で楓を受け止めた。
「ぐ…!」
背に、激痛が走る。
それでも、楓が転がり落ちぬように、腹の上でしっかりと抱きしめて地面に触れさえせぬよう庇った。
それが一瞬にして起こり、英心が転倒したのを感じた維斗だったが、振り返ることすら出来ずに必死にゴールテープを目指した。
何しろ、箔炎が決死の表情で真後ろに迫っていたのだ。
「うおおおお!!負けるわけにはいかぬわああああ!!」
それでも、律は重い。
なぜに自分はこんな重いものを引いてしまったのかと思いながらも、箔炎はゴールテープを凝視した。
駿に、良い想いをさせるわけにはいかぬ。
箔炎は、そのテープを切れなかった時、どれほどに駿が喜ぶかと思うと、なけなしの筋力を全て使えるような気がした。
「箔炎!おお主!やりおるの!」
炎嘉の声が近くなる。
箔炎は、もうわき目も振らず、ひたすら前を向いて走り、気が付くと、紐が目の前をかすめていて、恒の声が響き渡った。
「三位、赤組!四位、青組でした!点数が加算されるのは以上になります。ゴールできなかった方々は、それぞれの組の控えへとお戻りくださいませ。」
…終わったのか…?
箔炎が、地面に両膝をついて茫然としていると、律が神妙な顔で背から降りて、静かに手を叩いた。
「誠に、素晴らしい走りでありました。我の体重、この間の月の宮の身体検査で98キログラムありました。李心殿は80キロ。我の方が、二十キロ近く重いのでありまする。それをあそこまで、気を使わずで。さすが鷹の王であられますな。」
維斗が悔しそうにしている。イライアスも、ヴェネジクトを背負ってゆったりゴールしたが、順位には関係なかった。
イライアスの背から降りた、ヴェネジクトが言った。
「あちらで白虎が倒れたのだ。皇女は無事か。背負っておったのに。」
イライアスは、今ゴールしたばかりでまた、コースへと足を向けた。
「見て参る。」
月の宮の軍神達と、治癒の者達が集まっていたが、イライアスも気になって仕方がないのだろう。
炎嘉は、目を細めた。
「…獅子か。駿の皇女の一人であるな。か弱い女なら最後までしがみつくのはきつかろう。維月なら別だが。」
維月は、炎嘉に頬を膨らませて見せた。
「まあ。私はか弱くはありませぬか?」
それには、維心がクックと笑った。
「主が?間違ってもか弱くはない。か弱い女が我と共に戦場へ参るとか申すと思うか。」
維月は、横を向いた。
「もう。維心様まで。確かに…そうですけど。」と、まだ何やらやっているコース上を気遣わし気に見た。「少し、見て参りましょうか。」
しかし、維心が首を振った。
「主が行く必要はない。もう戻った方が良いぞ。皆の目に晒されるな。」
言われてみたら、そうだった。
昔、この運動会で知らぬ間に下位の王に見染められ、その王は想いを打ち明けることも出来ずに死んでしまった事があったのだ。あの時は、維心が黄泉の道まで迎えに行ったりと大変だった。
維月は、ベールは被ったままだったかと確認してから、胸に挿してあった扇を出して、顔を隠した。
「はい。では、御前失礼致します。」
維心は、微笑んだ。
「また後での。」
そうして、迎えに出て来た月の宮の侍女達と共に、裏へと向かって行った。
「英心様!」楓が、必死に英心の上から降りて、叫んだ。「そんな…我を庇われたから、どこか傷つけられたのでは…!」
英心は、まだズキズキする背中を感じながらも、何とか笑顔を作って、言った。
「我は大丈夫ぞ。主は?怪我はないか。」
楓は、首を振った。
「我は平気でありまする。擦り傷さえありませぬ。」と、英心に手を翳した。「…ああ、お背を、強打されたのでありますね。」
英心は、驚くように眉を上げた。
「主、治癒術を知っておるか。」
楓は、頷く。
「はい。我にはお姉様のように取り柄がありませぬので、宮に籠っている間に、巻物やら治癒の神やらに習って、治癒の術を扱えるようになりました。でも、少し深い場所でありまするので、体を横に…。背に手を当てて、治療致しませぬと。」
軍神達が、わらわらと寄って来ている。
治癒の神たちも、急いでやって来るのが見えた。
楓は、それに構わず英心をそっと横に向かせて、背中に手を当てた。
じんわりと温かい感じがして、楓の気が背中に流れ込んで来る。
その気の、優しくありながらしっかりとした芯の強さに驚きながら、英心は楓を見た。
「…痛みが引いた。」と、身を起こした。「問題ない。」
月の宮の治癒の者が、微笑んで頷いた。
「的確な処置でありました。皇女様であられるので、お力も大変なもの。我らより余程長けていらっしゃいますな。」
楓は、頬を赤くした。
「まあ…我など、拙いので恥ずかしいわ。」
英心は、微笑んで首を振った。
「誠に素晴らしい力ぞ。」と、立ち上がった。「では、もう順位は関係なくなってしもうたし、貴賓席まで送ろう。さあ、扇を。」
言われて、楓はハッとした。そうだ、扇も上げぬままに…。
「はい。」楓は、扇を出して、顔を隠した。そして、目元だけで英心を見上げて、微笑んだ。「参りましょう。」
英心は、その瞳のうっすらと紫色に気付いて、また心が締め付けられる心地がした。誠に…なんと美しいのだろう。それに、あの気の優しさ、強さ…。
英心は、楓を抱き上げた。
驚いた楓が顔を赤くしながら、言った。
「あの、今治したばかりですのに。我は、少しぐらい歩けますから大丈夫ですわ。」
それでも、英心は首を振った。
「主に無理はさせられぬ。」と、観覧席へと足を向けた。「我は大丈夫だ。主が治してくれたゆえな。」
楓は耳まで真っ赤になっていたが、黙って頷いて、英心の首に腕を回した。
英心は、そんな楓を、不思議な心地で抱いて、歩いて行ったのだった。




