借り物達
一方、焔はその文字に戦慄が走った。
『義心』
そこには、そう書かれていたからだ。
義心など…気が使えるならいざ知らず、こんな丸腰で!
焔は思ったが、炎嘉に迷惑を掛けた手前、ここで退く訳には行かない。
なので、意を決して青組のダッグアウトへと向けて駆け出した。
その気迫に、青組側では一気に緊張した。
…何を引いた。
義心や志心達が見守る中、匡儀は困惑気味に言った。
「まさか…我には無理ぞ。あんなのから逃げておったら疲れて騎馬戦など出来ぬぞ!」
皆が同じ事を思う中、焔は真っ直ぐに義心を睨んで向かって来る。
距離はあったが、自分を睨むその目に、直感的に焔は自分を狙っている、と感じ取った。
…我か!
義心は、途端に立ち上がった。
「義心っ?!」
匡儀が驚く中、義心はフィールド上に駆け出して行きながら叫んだ。
「我ぞ!」
コロシアムから出ることは許されていない。
義心は、一目散に反対側へと向かった。
「待て!」
焔は、それにつられて走ってくるコースを変え、義心を必死に追って行く。
呆然とそれを見送りながら、匡儀が言った。
「無理だ…我には無理だ、気も使えぬのに。」
志心も、それには頷いた。とてもじゃないが、あんな焔に追い掛け回されるのだけは避けたい。
観客席は、ワアワアと叫び声が上がっていた。
維心は、炎嘉を追って観客席の間の階段を駆け上がって、貴賓席へと向かう裏の階段を目指した。
回りでは、炎嘉と維心を間近に見た女神達の悲鳴が上がっていたが、そんなことは気にしている暇はない。
バタバタと倒れる女神達に、月の宮の治癒のもの達が必死に対応している惨状の中、二人は走り抜けて行った。
「…何かしら?一目散に、もしかしたら裏の階段を目指しておられるのでは?」
維月がそれを見下ろして言う。
椿が、身を震わせた。
「え…まさか我らをお連れに?!」
桜と楓がそれを聞いて身を固くする。
維月は、顔をしかめた。
「引いてしまわれたのなら仕方がありませぬ。我らは運ばれるだけですのでお気になさらず、ひたすらベールの中でじっとしておれば問題ないので。」
言われて、椿は慌ててベールを被った。維月も、自分であった時の事を考えて、すっぽり被るベールをしっかりと被った。
翠明は、息をついた。
「気を使えるなら安心もするが、正味の重さを運ぶのだから大変よな。椿、主は里へ帰ってからやることもなかったゆえ、太ったとか言うておらなんだか。」
椿は、顔を赤らめて維月を気にしながら、翠明をたしなめた。
「もう!お父様、このような場で。あれから立ち合いもして、少し落としましたの。運べないほどではありませぬ。」
維月は、苦笑した。自分のように形を作れるのとは違って、身を持っているからなあ。
そこへ、炎嘉が飛び込んで来た。
「維月!」
維月は、振り返った。まさかまた私を引いたの?!
「炎嘉様?!また、私ですかっ?」
炎嘉は、頷いて維月の手を引っ張った。
「すまぬな、我だって好きで引いたのではないわ。」
そこへ、維心が飛び込んで来た。
「翠明!」
翠明は、まさか自分の名を呼ばれるとは思ってもいなかったので、驚いて変な声を出して立ち上がった。
「え…我っ?!」
「来い!」
維心は、翠明に答えもせずにグイと腰を持ち上げると、肩に担いだ。
炎嘉も、慌てて維月に言った。
「すまぬな、点数が掛かっておるゆえ!」
「きゃっ!」
そして、背負うのではなく、同じように肩に担いで走り出した。
維心は、もうその時には貴賓席を飛び出していた。
「くそ!あやつに負けるわけには行かぬ!」
炎嘉は、維心を追って階段を駆け降りて行った。
維月は、振り落とされないように、必死にその背に掴まっていた。
椿は、それを見送りながら、苦笑した。
「…誠に大変でありますこと。」
幾分安堵してそんなことを言っているところへ、今度は英心が駆け込んで来た。
英心様?!
ホッとしたところだったので、皆が固まっていると、英心は迷いもせずに桜を見た。
「桜殿、その後ろの。楓殿よな?!」
桜は、構えた。
「はい…ですが、楓はこのように引っ込み思案で。代わりに我が。」
だが、英心は首を振って紙を見せた。
「『獅子の宮 楓』と書いてある。棄権になるゆえ、どうしても楓殿に来て頂かねばならぬのよ。でなければ、父上にも龍王殿にも大変なご迷惑を。」
龍王、と言われて桜は体を固くした。ここへ飛び込んで来たあの気迫。確かに棄権となれば、後々のことが気に掛かる。
楓は、桜がその背で自分を隠しながら、小刻みに震えているのを感じていた。
それでも、姉はいつものように楓を庇って、自分が代わりにと言った。いつもいつも、お姉様に庇って頂いて…。
椿が、言った。
「誠に申し訳ありませぬわ、英心様。この子は誠に気が弱く…殿方に手を取られたことすらないものを、担いで走って行かれては、気を失うどころか死んでしまうかも知れませぬ。どうかご容赦くださいませ。」
確かにか弱い皇女なのにそれを担いで走るなど。
英心は、思った。丁寧に持ち運べてもちょっとという事なのに、皆の見ている前で担いで走られたらこんな気の弱い皇女は一溜りもないだろう。
英心は、息をついた。
「…そうであるな。乱暴な話であった。怯えさせて、申し訳ないの。」
父上には、誠心誠意謝ろう。
英心がそう思って背を向けると、楓が決心したように立ち上がった。
「…参ります。」桜も椿も、英心も驚いてそちらを見ると、楓は続けた。「これは、英心様にとっても一大事。ましてお父様と同じ組であられるのですから。我は参ります!」
それが、楓にとってどれだけ勇気の要ることだったが、英心にも分かった。
桜が、慌てて言った。
「そのような。英心様はあなたを気遣ってくださったのに。」
楓は、首を振った。
「いいえ。皆に庇われてばかりではなりませぬもの。我は、参ります。」
そう言うと、ベールの中で扇を閉じて、胸元にしっかり挿し入れた。英心は、ベールの中で垣間見えた楓の美しさに息を飲んだ…気が強そうな顔立ちなのに、育ちからか儚げに見える。
なんと、こんな姿だったのか!
途端に緊張して来たが、表向きは落ち着いて、その手を取った。
「ならば、我の背に。担ぐなど乱暴な事はせぬゆえに。」
楓は、維月が担いで行かれたのでそれを覚悟していたのだが、ホッと頷いた。
「はい。」
そうして、英心が背を向けて屈むと、その背にそっと乗った。英心は、しっかりと楓を支えると、言った。
「落ちそうになったら我の首を絞めてでも掴まっておるのだぞ。気が使えぬから、庇うのが間に合わぬかもしれぬから。」
楓は、頷いた。
「はい。我の事は、お気になさらず。」
英心は頷いて、そうして楓を背に、心配そうに見送る桜と椿を置いて、そこを控えめに駆け出して行った。
その頃、維月は炎嘉の背で観客席の階段を降りていた。
維心は、翠明が重いのにもめげずに、炎嘉のすぐ前を駆け下りて行く。
それを目にした女神達がまたバタバタと通る道筋を、まるでドミノ倒しのように倒れて行くのに成す術なく維月が見ていると、観客席は大変な事になっていた。
王や皇子達が、名を叫びながら自分の紙に書いてある神を探して回って居るのだ。
こんなに広い観客席の中で、上位の宮の者ならいざ知らず、下位の宮の王だったりしたら、探すのが大変だ。
それでも、見つけたらしい志夕が、叫んだ。
「居た!共に!早う!」
炎嘉は、歯ぎしりした。
「四位以内に入らねばならぬのに!」
まだ、ゴールテープは張られたままだ。
一位の旗の所には誰も居ないので、ゴールした者が居ないのだろう。
しかし、見つけたは良いが、そこから出て階段へと向かうだけでも結構な重労働になる。
既に階段を降りている、維心と炎嘉はかなり有利だった。
維心が、フィールド上にたどり着いた。
「よし!行くぞ翠明!掴まっておれよ、落ちても引きずって参るからの!」
翠明は、それを聞いてヒイッと身を縮めて必死に維心の背に掴まった。引きずって行かれたら、擦り傷だらけになってしまう。いくら簡単に治るからと、その時の痛みは本物だった。
炎嘉は、フィールド上に飛び降りて、言う。
「行くぞ維月!手を放すからの、主ならいけるだろう!」
ええ?!
維月は、必死にその背にしがみついた。
確かに維月なら転がり落ちる事は無いが、それでも乱暴な事には変わりない。
炎嘉は、グングン維心に追いついて、維月の軽さも手伝って、追い抜いた。
「く…!!」
維心は、歯を食いしばって脚を上げた。翠明が重いのと、両手を振ることが出来ないデメリットで推進力が弱くなる。炎嘉は、維月が軽いのと両手を振って全速力で走っているので、その分有利だった。
「…行ける…!!」
炎嘉は、ゴールテープに飛び込んだ。
「…赤!炎嘉様が一位でゴールしました!続いて、青!二位で維心様がゴール致しました。」
恒の声が言う。
ゴール際の軍神が寄って来て、二人の拾った紙を確認し、そうして連れている者達を確認して、二人を順位の旗の所へといざなう。
炎嘉は、ぜえぜえと息を上げながら、拳を上げた。
「やったぞ!維心に勝った!」
維心は、足を投げ出して二位の旗の所へと座り込みながら、悔しそうに叫んだ。
「今少しだったのに!翠明など引いてしもうたばっかりに!」
翠明は、顔をしかめた。
「我だって好きで主に引かれたわけではないわ。全く。」
維月が、苦笑した。
「炎嘉様が私から御手を放されて走られるから、肝を冷やしましたわ。」
炎嘉は、自分も座り込みながら、維月に微笑みかけた。
「すまぬの、主ならいけると思うて。二度も引くとは思わなんだが、主で良かった。」
維月は、苦笑して維心を見た。維心は、座り込んだまま維月に手を差し出した。
「我が主を引けなんだのが敗因ぞ。主ならば我だって、炎嘉に負けはせなんだのに。」
維月は、維心の手を握りながら答えた。
「選べませぬから。そのように思われずでも良いのですわ。」
見ると、何やら焔と義心が追いかけっこをしながら通り過ぎて行く。
「すばしこい奴めーー!!」
焔が、必死に叫んでゼエゼエ言いながら過ぎ去った。
義心は、まだ息を上げる事もなく、ひたすらにトラックの回りを走って焔から逃げているようだ。
炎嘉は、息を整えながら言った。
「あやつは義心を引いたのか。」と、顔をしかめた。「それは無理よ。あれは若いし我でもあれを引いたら諦めた。主、ちょっと行ってもう良いと焔に言ってやってくれぬか。あれでは騎馬戦もリレーも散々よ。」
傍に立っていた、月の宮の軍神が頭を下げた。
「は。」
そうして、二人を追って飛んで行く。
飛べるのが、どれほどに良いのか、羨まし気にそれを見つめて維心は言った。
「ヒトは誠にあっぱれよ。我らが飛べるのが常識だと生きておるのに、ヒトはこのような不自由な様で生きておるのだから。」
すると、向こうから維斗がやって来るのが見えた。
背中には月の宮の軍神である、李心が乗っている。
どうやら、維斗は李心が紙に書かれてあったようだった。
維心は、疲れていたのを忘れて、立ち上がった。
「維斗!急げ、まだ間に合う!三位ぞ!」
その後ろからは箔炎が、どうやらやっと見つけたらしい、同じく月の宮の軍神の律を背負って走って来る。
しかし、律は重いので、箔炎は必死に歯を食いしばって走っていた。
そしてその後ろには、どこかの皇女らしい姿を背負った、英心が居た。
「箔炎!踏ん張るのだ、せめて英心に追い抜かせるでない!」
箔炎は、言われて振り返った。
英心は、そもそもが身軽な白虎の種族だったが、背中に背負っているのが軽い女神のようで、まるで撥ねるように走っていた。
「!!」
箔炎は、あれは無理だ、と咄嗟に思ったが、それでも維斗を追って走った。
維斗も、李心が結構筋肉が多くて重い上、甲冑まで着けているのでもう、フラフラだった。
「急げ!維斗、我は翠明を担いで貴賓席から走って来たのだぞ!」
あの、遠くから。
維斗は、何としてもと動かなくなって来ていた足を必死に動かし、ゴールを目指した。
…いける。
英心は、思った。背中に背負っている楓は、それは軽くてまるで羽のようなので、全く走るのに問題はなかった。
しかも、じっと黙って動かずに居てくれるので、このまま行けば、追い越せるような気がした。
「…楓殿。速度を上げても大丈夫か。」
楓は、ぴくりと肩を震わせたが、英心の肩を掴む手に力を入れて、答えた。
「はい。我は大丈夫です。ここまで来たら、どうぞお心おきなく。」
こんな思いはしたことが無かったのだろう。その声は、震えていた。
「…参る!」
英心は、その心に報いようと、膝を高く上げて速度を上げ、箔炎を抜きに掛かった。




