当日
夜明け前から、多くの神たちが大挙して結界内へと入って来始めていた。
李心たち軍神は、事前に打ち合わせた通りに客達を案内し、神の流れは綺麗にコロシアムの観覧席へと流れて行っていた。
そんな中、維心もよく寝たと目を覚ました。
何やら結界内が騒がしいような気がするが、恐らくは多くの神がもう、入り始めているのだろう。それにしても、今日の結界は碧黎の気の色がする。
維心は思いながら、侍女を呼んで手水を済ませ、自分でサッサと着物をジャージに着替えて準備を始めた。
すると、蒼が小豆色のジャージ姿で入って来た。
維心は機嫌よく振り返ったのだが、蒼の顔には、疲れたような色が浮かんでいた。
「…何ぞ?何かあったか。」
蒼は、頷いて答えた。
「維心様は奥に近い対に居られるのでお気付きならなかったかもしれませんが、昨夜、駿が椿の部屋へと忍んで、箔炎がそれを阻止した事件がありました。炎嘉様も焔も同じ階の控えの間の王達は、皆気取ってそれを追って集まっていたので知っております。椿はそのまま箔炎様の控えの間へと移って、駿は最悪な形で二人の間柄を知ってしまったわけで。」
そんなことがあったのか。
維心は、全く知らなかったことに眉を寄せた。ということは、今日は駿は使い物にならない可能性がある。
「…面倒ではあるが、駿にはもう期待せぬ。それで、何やら結界の色が碧黎だが?」
蒼は、それこそ暗い顔をした。
「それが…あの、維心様はご存知だと思うのですが、十六夜は…維月に、忍ぼうと思っていたみたいです。それだけでも碧黎様には腹が立つ事だったんですけど、十六夜の結界は、その十六夜の良くない心地を放っていて…駿のあれも、恐らくそのせいで起こったんじゃないかって。」
維心は、ハアと深いため息をついた。駿もそんな気に流されおってからに。
「まあ…我とて落ち着かぬ心地であったが、昨日はそれどころではないので無理に寝た。駿が我慢できなんだのが問題なのだ。で?碧黎が結界を張っておるのは、十六夜のその気を遮断するためか?」
蒼は、暗い顔で首を振った。
「違うんです、維心様。あの…十六夜は、もう月には居りません。」
維心は、さすがに目を見開いた。十六夜が月に居ない?
「…どういう事ぞ。」
蒼は、泣きそうな顔をしながら、答えた。
「碧黎様が激怒して。十六夜は月から引きずり出されて、今は庭の岩の一つに宿らされています。あの、滝の横にある何の変哲もない岩の一つ。」
維心は、それこそ開いた口が塞がらなかった。曲がりなりにも二千年以上月で大層な力を使っていた十六夜が、その辺の岩にと。
「そのような…だとしたら、今は浄化は?」
蒼は、言った。
「オレが。今は十六夜が徹底的に浄化した後なので、どこも綺麗ですし問題ないでしょう?碧黎様は、その間に維月との間に子を作って、それを上げると怒っていて、維月がとりなしても頑として聞き入れない状態なんです。オレ、もう十六夜は駄目なんじゃないかって、もう運動会って気持ちでもなくなって来て。」
維心は、またタイミングの悪い、と思っていた。どうして今でなければならなかったのだろう。いろいろ面倒が重なってしまっているではないか。
「…それで、運動会などやっていて大丈夫なのか。十六夜が何も出来ぬのだろう。岩なら力もないだろうし。」
維心が言うと、蒼は首を振った。
「まだ、事実は軍神、臣下でも上位の者しか知りません。炎嘉様方にも知らせようとは思っていますが、事実は誰にも公表せぬつもりでおります。碧黎様が全てやって下さるとのことなので…別にオレにも出来るんですけど、気持ちが乱れてて無理かもって。」
維心は、大きな術なのだし今の動揺している蒼では無理だろうなと思った。
来客も入って来ているし、碧黎がやると言うならこのまま続けなければ不審がられるだろう。
維心は、十六夜が気掛かりだったが頷いた。
「…仕方のない。こうなってしもうたからにはやるよりないの。龍王の石に宿っておった維月とは違い、ただの岩に籠められておるなら人型を取る力もあるのか疑問であるが、終わってから対応を考えようぞ。誠…面倒な事になったものよ。」
維月と子を成すとか言い出しておるし。
維心はいろいろ気になったが、予定通りに進んで行く当日に中止など出来ないと、仕方なくジャージでコロシアムへと向かったのだった。
コロシアムの観覧席は、見に来た神でごった返していたが、下のフィールド上に出るための場所は空いていて、誰も居なかった。
ホッとしながら軍神の控えのそこへと入って行くと、小豆色と紺色のジャージ姿の神達が、待っていて振り返った。
匡儀が言った。
「来たか維心。まだ炎嘉達が来ておらぬでな。蒼もなのだ。」
恐らく今頃、十六夜のことを蒼が炎嘉達に話しているのだろう。
維心は思って、頷いた。
「直に来よう。それより、体を温めておいた方が良いぞ。気を使う時と違ってすぐには体は動かぬからな。」と、ヴァルラムが既に自分の軍神達と走っている方向へ目をやった。「そら。ヴァルラムとサイラスが…、」
あれは誰だ。
維心は、目を凝らした。嫌々ながら走るサイラスの前を、それを気遣いながら走る若いヴァンパイアが居るのに目がいったのだ。
気は大きく、軍神にしては品があって、何よりサイラスに似ていた。
維心の視線に気付いた志心が言った。
「ああ、あれはイライアスぞ。」維心が眉を上げると、志心は続けた。「公表しておらなんだが、最近に出来た皇子らしい。まだ成人しておらぬから、これまで城に籠めていたのだと言っておった。」
維心は驚いた。サイラスは、妃を娶っておったのか。
「…知らなんだ。昔ヴァルラムから、妃と子を亡くした過去があるゆえ、世捨て神のようになっていて、誰も娶る様子はないと聞いておったので。」
ならば少しは持ち直しておるのだろうか。
しかし、志心は言った。
「妃を娶ったのではないようよ。侍女の一人に思いもよらず出来たのだと言うておった。あれも複雑であるから…まあ、先が繋がって良かったのではないか?」
維心は、頷きながらもその皇子を凝視していた。
まだ若いが体はしっかりとしていて、あれならサイラスがあんな感じでも結構いけるのではないか。
何しろ駿が戦力外になりそうなので、期待出来る神は多い方が良いのだ。
すると、そこに普通にジャージを身に付けた、駿がやって来た。
維心が驚いていると、何も知らない志心が笑って迎えた。
「おお、駿。主はまだ若いし期待しておるぞ。本日は何としても赤組にひと泡吹かせてやろうぞ。」
駿は、ただ事ではないほどの気迫で、それに頷いた。
「そのつもりぞ。」
志心は驚いていたが、維心は、なるほど、そう来たかと思っていた。
駿は、何としても箔炎を負かしてやりたいと来たのだろう。
自分が蒼から聞いたとは言えず、維心は知らぬ風で言った。
「良い心掛けぞ。昨日はあまりやる気を感じなかったが、本日は神が変わったかのようよ。主も体を温めて参るが良いぞ。競技開始の時間まで、まだ一時間ほどあるからの。」
駿は頷くと、険しい顔のままフィールド上へと出て行った。
それを見送った志心が、息をついて言った。
「あの様子だとこちらが不手際などあったら殺されそうであるな。我も体を動かしておかねば。」
維心は、志心を脇へと引っ張って、小声で言った。
「…あれはの、箔炎に対して闘争心を燃やしておるのよ。」
志心は、驚いた顔をした。
「箔炎?だが、あれは知らぬだろう?」
維心は、首を振った。
「今朝蒼が話しに参ってな。昨夜、椿の部屋へ忍んだらしくて、それを気取った箔炎に阻止されたのだ。椿は叫び声を上げたらしくて、それが箔炎の耳に届いたわけよ。」
志心は、あーっと呆れたような顔をした。
「誠に…何やら下の階が煩いのと思うておったら、そんな事をしておったのか。もしかして、炎嘉達はそれを知っておるのか?」
維心は、頷く。
「箔炎が飛んで出て行ったゆえ、あれらも気取って後を追ったらしい。蒼は、今炎嘉達に昨夜の駿の暴走の、理由らしいことを話しに参っておる。」
志心は、顔をしかめた。
「原因とて、別にあやつが我慢ならなんだだけであろう?」
維心は、首を振った。
「結界がなぜに碧黎の物であるのだ。十六夜が、何やらおかしな気を発しておって。そのせいで、駿は影響を受けてあのように。本人はまだ知らぬだろうがの。」
志心は、それこそ驚いた顔をした。
「あの浄化の象徴のような月がそのような気を?…世の中の何を信じたら良いのか分からぬようになるではないか。」
すると、匡儀が後ろから言った。
「こら、聴こえておるぞ。十六夜の具合が悪いのか。」
維心は、確かに皆耳が良いのだから聴こえるだろうと思っていたので、振り返った。
「別に聴こえても良い。どうせ言わねばならぬと思うておったが、蒼は神世に公表するつもりはないらしいので、公には知らぬふりをせよ。碧黎がちょっと激怒しておってな…十六夜は、しばらく姿を見せぬかもしれぬ。」
匡儀は、それを聞いて特に驚く風でもなく、頷いた。
「ふーん、まあなあ、あれは月である以外に何か崇高な命であるという、証が見えぬからの。」
それを聞いた志心もぎょっとした顔をしたが、高湊も紫翠も同じように聞いていないふりを出来なくなってこちらを振り返った。
維心は、言った。
「こら。そこまで言うでないわ。あれはあれで、生きておるだけで皆の面倒を見ておったのだから。」
しかし、匡儀は眉を寄せたまま言った。
「誠の事では無いか?よう考えてみよ、我ら王として君臨しておって、常面倒な事に晒されて皆を守らねばと努めておるのに、あやつは何をしておるのよ。確かに浄化はあれしか出来ぬし、居らねば大変なのは前の霧の時に分かったが、別にあれでなくとも月の命なら誰でも良いのではないのか。だったら、もっと崇高な意思を持つ命に月であってほしいと思うが、それは我が間違っておるか。」
維心は、ぐ、と詰まった。
志心も、言い返す言葉が見つからないのか口を開くことが出来ずにいる。
誓心が、見兼ねて言った。
「匡儀、そのように申すでないぞ。こちらはこちらで、それでうまく行っておるのだろうから。まずいのなら地が何とかしてくれようし、我らが口出しすることではない。それ以上は申すでない。」
匡儀は、不貞腐れた顔をした。
「また我が悪いのか。疑問に思うたから聞いただけであるのに。」
だが、誓心に言われて場を乱すと思ったのか、匡儀はそれで黙った。
どうやら匡儀は、悪気なくそういう事をぽんぽん言ってしまうようだった。前も、一度そんなことがあったので、維心も段々に分かって来たところだった。
そこへ、ジャージ姿でウォーミングアップをしていた義心と帝羽がやって来て、維心の前に膝をついた。維斗もその後ろから歩いて来て、言う。
「父上。スニーカーの具合は良いようです。先ほど、あと半時ほどで気を奪うと碧黎殿から知らせが参り、ヴァルラム殿らもそれを心待ちにしておって。まだ、気がない状態というのを経験したことが無いと。」
維心は、ハッとして意識を運動会へと向けた。そうだ、どうあってもこれには勝たねば。
「…我も体を温めよう。」維心は、スニーカーの足をフィールドへと向けた。「バトンパスの練習も早めに始めておかねばな。」
そうして、維心は今戻って来た維斗たちと共に、フィールドを走り出したのだった。




