前夜
月の宮へと帰ると、碧黎が出て来て宙に浮いて待っていた。
維月は、急いで碧黎に寄って行くと、言った。
「お父様!」
碧黎は、苦笑した。
「こら。まあ生まれてこのかたずっとそう申して来たのだから仕方がないが。」
維月は、あ、と口を押えて、言い直した。
「碧黎様。待っておってくださったのですか?」
碧黎は、維月の肩を抱いて宮の中へと連れて行きながら、頷いた。
「気になったのでな。あれはまた、困った事を言うておったようではないか。」
維月は、やっぱり見ていたのか、と思って、頷いた。
「はい。でも、一時的なものだと思いますわ。すぐに忘れると思いますの。ほんとに、その時したかったら誘って来て、それですぐ飽きてって感じなんです、十六夜は。」
碧黎は、むっつりとした顔で言った。
「それでも約した事を簡単に違えようとしおって…あれは誠に浅はかよ。もし維月が昔を思い出して、良いと申したら簡単に破っておったであろう。誠に信頼ならぬ。我はどこに居っても見えるしすぐに参れるが、もう二人でどこかへ参るのはやめた方が良い。特に温泉など、裸になる場所には我も共に。分かったの。」
維月は、神妙な顔で頷いた。
「はい、碧黎様。」
碧黎は、誠に面倒な事だと内心では頭を抱えていた。十六夜が思った以上に浅はかだと思えたのだ。
これは維心にも言っておこう、と碧黎は思って、一旦維月を自分の部屋へと入れて、自分の結界で匿って、維心に会うために維心の対へと向かって行ったのだった。
維心はというと、やっと話し合いが終わり、自分の対から皆が出て行ってホッとしたところだった。
サイラスは結局最後まで寝ていて、夕刻になってやっと目が覚めて来ていたが、もう話し合いはあらかた終わった後だったので、ヴァルラムが軍神達も含めて説明し直すと約束し、サイラスを連れて帰っていた。
サイラスが面倒かもしれない、と維心が額を押さえていると、そこへ碧黎が入って来て言った。
「終わったか?話があるのだ。」
維心は、チラリと目だけで碧黎を見た。
「なんぞ。今回は里帰りではないゆえ維月は譲れぬぞ?」
碧黎は、首を振った。
「そんなことではない。我は十六夜ではないゆえ決まりは守るわ。それより、維月が先ほど十六夜に誘われて、昔あれらが暮らしておった月の屋敷へ行って来たのを知っておるか。」
維心は、月の宮に居るのだから維月の事は探っていなかったので、首を振った。
「いいや。今は主の部屋に居るのは分かるが、日中は探っておらなんだ。そも、主が居てあれに何かあるなどないだろうしな。」
碧黎は、頷いた。
「それはそうよ。月の屋敷は最近、古くなって手を入れておらぬから倒れる寸前でな。それを理由に連れて参ったのだが…手前の、昔からある増築前の建物はあちらの人が維持しておってまだ綺麗なのだ。そこで、あれは昔語りをしておった。まだ己らが夫婦であった場所だとか言って。」
維心は、眉を寄せた。まさか維月は、懐かしい気持ちで十六夜とまた戻りたいとか言うのではなかろうな。
「…維月は戻りたいと?」
碧黎は、首を振った。
「維月は今が幸福であるからとそう、長くは滞在しようとしなかった。十六夜は違っていたがの。」
維心は、そこで額から手を離して目を見開いた。
「まさかあれは、あそこで維月と?」
碧黎は、それにも首を振った。
「十六夜の思惑はそうであったようだが、維月は違う。そんなつもりはないと突っぱねて、帰って参ったのだ。」
維心は、ハアと深いため息をついた。十六夜はまだそんなつもりなのか。
「何を考えておるのだ十六夜は。維月は昔の維月ではない。前世の記憶はあるが、あれも成長して考え方も変わっておるのに。簡単には流されぬだろう。」
碧黎もそれには頷いて、言った。
「我もそのように。維月は自分だけの事ではないので、簡単には流されぬと言うておったわ。問題なのは、十六夜が未だにあのように、簡単に約束を反故にする心地であることぞ。恐らく維月が良いなら我らを共に説得してなんとかなるだろうと軽く考えてのことなのだろうが、甘い。相変わらずであるのに失望したわ。安穏とはしておられぬなと、主に話しておかねばと思うたのよ。」
維心は、やっと落ち着いたと思っていたのにと頭を抱えた。十六夜が無理やり維月に何かなど、碧黎が居る限りあり得ないのだが、維月があの手この手で近寄って来る十六夜に、根負けしないとも限らないからだ。
「…困ったものよ。あの時あれほど己の軽さを後悔したのではなかったか。瀬利とのことを責められないのは、あれがもう夫婦ではないからなのだとなぜに理解出来ぬのだ。あれはもう無かった事になったとでも思うておるのか。」
碧黎も、ため息をついた。
「そこがあれの浅はかな所よ。とはいえ、維月にその気は全くないゆえに、恐らくは大丈夫だろうが、主も知っての通り維月は一度寝てしまうと回りが見えぬし起きぬから、寝室で独りにせぬようにな。体に何かされればさすがに起きようが、命を繋ごうとするやもしれぬ。体の方も、気が付いたら始めておったとなれば逃げるのも大変ぞ。ゆえに我もしばらくは警戒しておこうと、今も部屋に結界を張って籠めておる。同意しておるならこの限りではないが、維月が心ならずもそんな目に合わぬためにも、主も警戒を怠らぬようにな。」
維心はまた面倒な事になったと眉を寄せる中、碧黎は続けた。
「で、知った上で今宵はどうする。主は己の結界で維月を守るか。」
維心は、唸った。
どんな結界でも簡単に入ってくる十六夜相手に、警戒しながら寝ていたら気も休まらない。
普段なら問題はないが、明日は体ひとつで戦う運動会なのだ。
「…仕方のない。ならば今宵は主の所で。我は明日のことがあるゆえ、ゆっくり休まねばならぬのよ。本夜は主に任せる。」
碧黎は頷いて、扉へと足を向けた。
「良い判断よ。我の結界はあれも抜けられぬゆえ、案じるでない。」
そうして、碧黎は出て行った。
維心は、新たな懸念に心が折れそうだったが、明日の事を考えて、ゆっくりしようと無理やり心を切り替えたのだった。
その頃、桜は特に何もなく終えた茶会の席での事を思い出していた。
楓も誰に興味があるということもなく、無難に話していたし、杏奈や椿が促す事に、答える程度で皇子達と仲が深まったという感じでもない。
父からはどんな様子だったかと母に問い合わせが来ていたようだったが、父が自分達を案じているとは思えなかった。
ただ、母と接したいから自分達を使っているだけなのだ。
桜は、息をついた。殿方とは誠に愚かなこと…後悔するならば、なぜにあんなことをしたものか。
桜は、これから先も殿方を想い慕うなどあり得ないような気がしていた。父があんな風なのもそうだが、他の男も似たり寄ったりのような気がする。全ての男を知っているわけではないが、皇女としてあちこちの催しに連れて回られているうちに、目にすることになった王族の男達は、美しく着飾らせた妃を横に座らせて、己が誇らしげにしているのが、まるで珍しい宝石か何かのように思われているような気がして、良い気がしなかった。
今日同席したのは、志夕と炎月…この二人は既に面識があった。他に、北西の大陸の英心、翔、錬彰だった。
翔は同族らしいのだが、そこに何やら弟達を思い出して無理、錬彰は華やかに美しく、目を引く容姿だったが、そこがまた、多くの妃を持っていそうで無理だった。唯一、英心が薄っすらと青みがかった白い髪に空色の瞳で、それは優し気で穏やかな感じが志心を思い出させて、とても印象は良かった。
だが、その様は志夕と良く似ているので、幼馴染のような感覚にもなり、恋慕うという感じでは無かった。
炎月は炎嘉によく似ていて、錬彰と同じく華やかで美しい様だが、何やらこちらを拒絶するような雰囲気があってあまり話せなかった。話を振ると普通ににこやかに話すのだが、その裏に何やら、気を許さぬという感じを受けて、この神はきっと、妃など要らないと思っているんだろうな、と感じ取るのに十分だった。
そんなこんなで、椿も杏奈もため息をつく中、皇子達は楽し気に話していたが、それを遠目に見て聞いているだけの茶会となってしまった。
桜も楓も、もしグイグイと押して来られたらどうしようと思っていたのでホッとはしたのだが、これでまた、父が母に何か無理を言うのではないかと思うと、気が重かった。
気を取り直して、明日は珍しい物が見られるのだからと着替えて寝る支度を整えていると、椿が入って来て言った。
「桜、あまりお話もしなかったけれど、どうであった?見ておって、まああんまりだったのだろうなあとは思うておるけれど。」
桜は、苦笑しながら答えた。
「お母様、御覧になっておられたのですから。皇子様方は、明日の催しの事が頭を離れぬ様子であられました。王達ですら本日は、集まって会議までしておられるようですのに。」
椿は、やはり終わった後の方が良かったか、と後悔しながら頷いた。
「そうなのよ。運動会とはそんなに大した催しなのかしら。皆が皆、絶対に勝つのだとさっさと湯殿へ参って皆、寝てしまっておるようだったわ。でも本日は、面識を持つだけでも良かったと思うのです。明日は、皆様が活躍される様を見て、良いかたがいらっしゃらないか考えたら良いわ。」
桜は、頭を下げた。
「はい、お母様。」
椿は、それでも言った。
「でも、誰かお一人だけでも良いかたは居なかった?皆高い地位に居る宮の王の御子なのよ。」
桜は、顔をしかめてうーんと唸った。
「そうですわね…あの、英心様がとてもお優しそうだなあと思いました。でも、志夕様とよく似ていらして…志夕様とは、幼い頃からお顔を知っておるので、慕うという気持ちはまだ…。」
椿は、みんな身内みたいになってしまっているものね、と思いながらも、頷いた。
「でも、英心様は別の宮のかたですし。明日は、よくご覧になっておったら良いと思うわ。」
桜は、これ以上母に気苦労を掛けるのもと思い、頭を下げた。
「はい。大丈夫ですわ。」
椿はそんな桜に頷き掛けて、そうしてそこを出て行った。
この後に起きるごたごたの事は、まだ気づいていなかった。




