朝の景色 Balcony -1
オリジナル小説です。連載形式で少しずつアップしていきたいと思います。
IT会社に勤めるアオイは、在宅勤務。徹夜明けはバルコニーから外を眺めて、朝の空気を吸って眠るのが日課のようになっている。行き交う人の中に、少し気になる人ができて……。
その人を、毎日ここから見る。
全然僕には気付かない。
当たり前だ。こんな高い場所から見下ろしているんだから。
彼女はいつもの道を通ってきっと会社に向かっている。
きっかけは、朝の空気を吸おうと思って、伸びをしながらバルコニーに出た時の事だった。
髪が肩まで伸びた女の人が、くすんだピンク色の春物のコートを着て歩いていくのが見えた。他にも小学生や、高校生や、通勤中のサラリーマンの姿が見えた。
でもなぜかその日は、その人ばかりが目に入った。
何となく頭の片隅にそのピンクベージュのコートが引っかかっていて、数日後、またそのコートを見かけた時に、定点観測も面白いな、と思ったのだ。
僕は在宅でコンピュータでできる仕事をしていて、めったに会社に行くことは無い。会社に行く時は本社まで行かないといけないから、泊りがけでスーツケースを転がしながら行くことになる。それも年に数回の事だ。
だから、僕のアパートメントは住居兼仕事場で、一度も家から外に出ないことだってある。
気ままな男の一人暮らし。
オンライン会議も無い日は誰とも話さない。ちょうど退屈していた頃だった。
また、今日も彼女はいるのかな。
彼女、と言ってはいるけれど、もしかしたら僕と同じような年齢ではなくて随分上の可能性だってあるし、もしかしたら女性じゃないかもしれない。
見ているだけだから、そんなことはどうでも良かった。
朝まで仕事をした日や、ちょうど目覚めた日、僕はバルコニーから彼女を見るのが日課になった。
彼女は基本、僕が住むアパートメントの前の道を通って、まっすぐ正面に伸びる方角へ歩いていく。でもたまに、右に曲がったりする。
右に曲がる時はラフな格好をしていることが多い。遊びにでも行くんだろうか。
スーツの日もあれば、オフィスカジュアルの時もあり、たまにスニーカーにジーンズの時もある。
彼女はどんな人でどんな暮らしをしているのだろう。
そんな事を想いながら、彼女を見るのが楽しみになっていた。
毎日、毎日、オレもよく飽きないな。
毎朝コーヒーを飲むのと同じ感じで、バルコニーから外を見る。
そろそろアイスコーヒーにしようかな。梅雨の湿気で肌がべたつく。
それでも僕は手すりに寄り掛かり下を見た。
雨の日は誰が誰だかわからない。でもそれでいい。
カラフルな傘たちが行き交う。
「ねえ、今日はゆっくりできるんでしょう?」
奥のベッドから声が聞こえる。恋人が僕に話しかけてきた。
シーツに気怠げにくるまった恋人とはもう3年付き合っている。
久しぶりに会ったのに、どうしようかな、と考えて、午後は一人でいたいと思ってしまった。
「うん、ランチまでなら」
「忙しいんだね。最近ゆっくり出来なくて寂しいなぁ~」
「ああ、納期が急に早まった仕事があってさ」
彼女の事は、嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど。
いつから好きじゃなくなったんだろう。僕は能動的に彼女と関わりたいと思わなくなってしまっていた。付き合い始めはどうだったっけ。
ああそうだ。
同窓会で再会して、昔話に話が弾んだものだから、すっかりそれを恋愛感情だと勘違いしてしまったような、気がする。
そもそも、そんなに熱烈に人を好きになったことが無い。人から理系だからとか言われるけど、そういうのは関係ないと思う。多分僕個人が、人との距離を必要以上に詰めたいと思っていないだけだ。
「私も、紅茶入れようかな」
そう言って恋人はベッドから抜け出してキッチンへ向かった。
道を走っていく小さなオレンジ色の傘。
「あ、転んだ」
水色と白と青が混じってポップな模様になっている傘が近づく。
その傘を道に置いて、オレンジ色の傘の小学生を助けていた人は、いつも見る彼女だった。
ありがとう、バイバイ、とでも言ったのだろう、聞き取れない子供の声がかすかに聞こえた。
小学生は足にハンカチか何かを巻いて、彼女に手を振ってまた走って行く。
彼女も小学生に手を振っていた。
しとしと降る雨は規則的に振り続けていたから、彼女はすっかり濡れてしまっただろう。濡れた髪を触って、肩を落としている。
傘を持ち直して、その人は真っ直ぐいつもの道を歩いて行った。
「ねえ、何見てたの?」
恋人が紅茶の入ったマグカップを片手に僕の肩口から下を覗いた。
別にただの風景なのだから、誰がどう眺めようと構わないのに、僕は自分の居場所に侵入されたような不快感をひどく覚えた。
「ん…あー、雨降ってるなあって」
「ふーん。バルコニー広いけど冷えちゃうよ?中入ったら」
水色の傘は、すでに遠くにかすかに見えるだけだった。
「いや、もう少しこうしてるよ」
それから僕は20分、手すりが雨に濡れるバルコニーにいて外を眺めた。
「昼食はパスタにしよっか!トマト缶前買ったしトマトソースにしようね」
そう言いながら笑顔で彼女は背の高い鍋を火にかけた。
恋人は同級生で、明るくて、屈託のない子だ。何か僕に無理強いする事も無いし、女の子特有の自分だけを見て、という強引さも無い。それにベッドではちゃんと恥じらう慎ましさも持っている。
どこが不満なんだろうか。僕は。
少し疲れているだけだと思う。仕事が押しているのは本当だから。
「一緒に作ろう」
僕はキッチンに行き、恋人の隣に立った。
「おおー!美味しそう!上出来だね!」
窓辺のダイニングテーブルで二人で向き合ってトマトソースパスタを食べる。
「わー、大変だ」
調理中につけたTVのニュースが大きな事故を報じていた。
「これ以上被害者の人増えないといいね」
そのままニュースの話でもするように彼女は続けた。
「アオイ…私、お見合いすることになったんだ」
「えっ?」
結婚の約束はしていないけれど、一応年単位でつきあっている彼女からの突然の言葉。僕はパスタを巻いたフォークを一旦皿に下ろした。
「だって、アオイ、結婚するつもりないでしょ?」
確かにそうだ。それは彼女だからではなくて、そういう計画自体が僕の人生の中にない感じ。
「ああ…」
「私ね、20代のうちに子供が欲しくって。もうすぐ28になるから、そろそろリミットなんだ。だから」
僕が結婚を考えていない人生設計をしているように、目の前の恋人は20代のうちに子供が欲しいという人生設計をしていた。相手を責めることができるだろうか?
「そうか」
「うん。ごめんね?」
「お見合いが上手くいったら、その人と結婚するの?」
「…そう。私の夢は20代のうちに子供と家族を持つことだから」
ここで、僕が彼女に結婚しようと言えばきっと話は早いのだと思った。なんだかんだ言っても3年もつきあったのだから。
でも僕は、その一言が言えなかった。
目の前の恋人と子供を持ち家庭を築く未来が想像できない。
「お見合い、来週だから、どうだったか連絡する」
「…わかった」
今日は金曜日の昼だ。彼女となんとなくずっといる、といういい加減な選択肢は、向こうの方から断られる形となった。来週の今日にはどうなったか僕は答えを聞いているだろう。
彼女は最後の一口を食べると、ごちそうさま、と軽く手を合わせて食器を下げた。
「じゃあ、行くね。アオイ仕事頑張って!」
さよならのキスもせずに、恋人は玄関のドアを閉じた。
その夜、押していた仕事があらかた片付いて、リビングに戻ってきた。その時気づいたのは、今まで置かれていた彼女のものが無くなっていることだった。
ここに来た時に読むからと言って立てかけていた本も、小物も、化粧品も。彼女が私物を持ち帰る作業をしている事にすら気づかなかったのだ、僕は。
もしかしたら、数回に分けて持ち帰っていたのかもしれない。
いつも泊まった時に洗濯機に入っているはずの彼女の服も、やはり無かった。
僕は、昔からこういう男だ。
物事にすぐに興味を失くして、他のものに興味を移した時は元のものはどこかに行ってしまっている。せめてさよならぐらいはちゃんと言うべきだったのに。
それを言わせてくれないぐらい、呆れられ、諦められてしまったという事か。
僕は、彼女が淹れてくれたコーヒーの残りを啜った。
その次の週に、律義な恋人から最後の連絡が来た。
”お見合いのお相手と話を進めていこうと思います”
僕はおめでとう、幸せに、と返信をした。3年の付き合いを終わらせるというのに、彼女がさよならを言うことは無かったし、僕から言うこともできなかった。