第一話
「あたしは風見。今日からあんたらの姐さんだと思って気軽に呼び慕っておくれね」
親父様に連れられて行った部屋の先には、白猫みたいにころころした美人のお姉さんがいた。
肌がまっ白でふっくらしていて、でも締まるところはきゅっとしまったメリハリマシュマロボディが着物の上からでも分かる。
細められた艶っぽい瞳は本当に猫みたいで、対面するだけでドキドキする。そのくらい色気のあるお姉さんだ。
「風見はこの見世に2人しかおらん花魁の1人じゃ。貴様らは風見の下につけるでの、よく学ぶがよい」
「はーい。よろしくお願いします姐さん」
「うんよろしく。そっちのあんたもね。2人とも名前は?」
「あ」
親父様が間抜けな声をもらした。
「忘れておったわい」
「名前? 名前はもうあるよ?」
「ここに来たからにはねぇ、外での名前は捨ててもらうのさ。親父様に新しい名前を付けてもらうんだよ」
「へー。じゃあ可愛い名前が良いなあ」
「じじいに無茶を言うでないわい。うむむ、そうじゃのう……」
親父様はしばらく頭を抱えると、はっと開眼した。
「決めたぞ! 小娘、貴様は『かぐや』、小僧は『こいし』じゃ!」
「……変な名前」
「文句を言うでない」
「かぐや? かぐや姫?」
「おや、竹取物語を知ってんのかい。博識だねぇ」
「えへへー」
褒められた。嬉しくなって頭をかくと、男の子――こいしに馬鹿を見るような目で見られてしまった。
「名前聞いてなかったけど、必要なくなったな。よろしく、こいし」
「……嫌だ」
「え」
「聞こえなかったのかよ。嫌だって言ったんだ。お前とはよろしくしない。風見、あんたも僕の姐さんじゃないから、馴れ馴れしくするな」
こいしが吐き捨てるように言い放つ。おぉ、これが敵意ってやつか。
親父様の拳骨が飛ぶかと思ったけど、親父様はただ目を伏せてため息をついただけだった。
なんで? 基準が分からない。
「……まぁ無理強いはしないさ。好きにやんな」
「親父、ここで一番になるには鍛えなきゃなんないんだろ。早く僕に必要なことを教えろ。すぐに稼いでやる」
「まぁそう急くな。しばらくはここに慣れるのに専念せい。良いと思ったらわしから声をかける」
「僕はもう……」
こいしの続く言葉を聞かずに親父様は部屋を出て行ってしまった。
「自由な親父だね」
「あの人はああ見えてすごいお人だからねぇ。忙しいのさ。必要なことはあたしが教えてやるから我慢おし」
「でも親父様が特別に鍛えてくれるって言ったよ。なぁこいし?」
頷いて返される。私ともお喋りしてほしい。
「へぇ。随分あんたらに目をかけてるんだねぇ。そういうことなら言われた通り、しばらくはここの生活に慣れることを考えな。修業はその次だね」
「はーい」
「いい返事だよ。こいし、あんたも分かったね」
「…………」
「返事はしっかりおし。あんたが何と思おうと、あたしはあんたの姐女郎で先輩なんだよ」
「……分かった」
「かぐやにも言ってるんだからね。ここは集団生活の場だから、厄介ごとに巻き込まれたくなきゃ礼儀には気をつけな」
「分かりました先輩!」
「……返事は良いんだけど……不安になるね」
じゃあ、と姐さんが立ち上がる。
「とりあえず建物を案内しようか。ここは広いから、しっかり頭に叩き込みな。迷ったらつらいよ」
「はーい。行こ、こいし」
襖を開けて出ていこうとする姐さんを追いかけて私たちは廊下へ出た。
「今いたのはあたしの私室。高位の遊女には自分専用の部屋が与えられるのさ。修業中はあんたらにも部屋が与えられると思うよ。何しろ今は禿があんたらしかいないからね」
「禿?」
「あー、新造……まぁつまり遊女見習いになる前のチビたちのことさ。あんたらだよ。ちなみに禿にもただの禿と引込禿の2種類がいてね、あんたらは親父様から直接教育を受けるみたいだから、引込禿だね。将来有望だよ」
「へー、すごいんだな。禿はどうして他にいないんだ?」
「まぁ、次期じゃないかい? ついこの間まではいたけど、もう新造になっちまったしね」
「ふーん」
「話がそれたね。今あたしたちがいるこの階が最上階。この塔は四階建てだから頑張りな。さんざんこの階段を上り下りすることになるからね」
「うわー、高い」
塔は一階から四階まで吹き抜けになっていて、手すりの隙間から下を覗くと階下で米粒みたいな影がちらちらと動き回っている。落ちたら死ぬなこりゃ。
「こら、身を乗り出すんじゃないよ。危ないからね」
「でも高いところって気持ちいいな。姐さんも高いところが好きだから最上階に部屋があるのか?」
「あはは、違うよ。部屋を決めるのも親父様さ。遊女の格が高いほど上に部屋があるんだよ」
「姐さんはすごいから一番高いのか」
「まぁ、ね」
後ろを不機嫌そうについてくるこいしを振り返る。こいしは私と目が合うとばっと勢いよく顔をそらした。
でもさっき、勘違いじゃなければ気落ちしていた私を励ましてくれた。悪い奴じゃないんだろうなぁ。
「こいしは高いところ好き?」
「…………」
「きらい?」
返事をしてくれないのでこいしの目をじっとのぞき込む。人は目で雄弁に語るから。
じーっと目を見つめていると、こいしの目が泳いだ。
「その感じはきらいか? もしかして苦手とか」
「そんな訳あるか」
「そうなんだー、じゃあ好き?」
「……どっちでもない」
「じゃあ低いところが好き?」
「それこそどうでもいいだろ。低い場所とか、何の見どころがあるんだよ」
「いるかもしれないよ? 俺は低い目線が大好きだ―みたいな人」
「それは変人」
「面白いねー」
やっぱりなんだかんだで無視しきれないのがこいしだ。見てるとちょっとかわいい。
「ほらほら、のんびりしてたら日が暮れちまう。さくさく行くよ」
「はーい」
姐さんについて行って階段を降りる。
「ここが食事処。向こうが厨。腹が減ったらここに来れば何かしらあるからね」
「ここは……なんだろう、休憩所かねぇ。暇な奴が菓子やら茶やらを持ち寄って駄弁ってるから、たまに顔を出すと良いよ」
「ここは洗濯場。井戸もここにあるから水くみはここでしな」
「ここは大浴場。共用だからきれいに使うんだよ」
「ここは親父様の部屋。呼ばれたらすぐに行くんだよ。遅れたらあの拳骨が降るからね」
「ここは……」
歩き回りながら姐さんはいろんなところを紹介してくれた。
「はい、ここは渡り廊下。用はないと思うけど向こうには極力行かないようにおし」
「なんで? せっかく廊下があるのに」
「向こうは何なんだよ」
「うーん……説明が難しいんだけどね、向こうは陰間の塔なんだよ」
「かげま? なにそれ」
「遊女ってのは夜の女のことだろう? 陰間ってのは逆に夜の男のことさ。あたしたちが今いるこっち側は遊女の生活区域。向こうは陰間の生活区域なんだ。むやみに境界を侵すようなことはしちゃいけないよってこと」
「……ん? よく分からない。ここは女の人を売る店じゃないのか? なんで男の人もいるんだ?」
「それはねぇ……なんて言ったらいいんだろうね」
姐さんは言葉を探すようにちょっと上を見て、それから口を開いた。
「ここはもともとただのこじんまりとした遊女屋だったんだよ。でも楼主は優しいけど小心な男でねぇ、絶望的なくらい経営には向いていなくて、赤字で傾いて傾いて地に落ちかけていたところをあの親父様が買い取って蘇らせたのさ。それで、その時に別のところで経営してた他の陰間茶屋をこっちに持ってきてくっつけちまったんだよ」
「陰間茶屋っていうのは陰間の人たちのお店だよな。……なんでわざわざくっつけたの?」
「さぁ……まぁおかげで男も女も楽しめる遊び場ってことで『灯篭屋』は大繁盛して裏町一に成り上がったから、最初から深い考えがあったんだろうねぇ」
「へぇ」
「別に仲が悪いって程じゃないんだけど、こっちとあっちはかなり雰囲気が違うから、用がなけりゃ行かないのが無難だね。どうしても必要ならあたしを呼ぶこと。いいね」
「分かった!」
色々あるんだなぁ。
「座敷では遊女も陰間も呼べるから鉢合わせることもあるけど、できるだけ波風立てずにやりすごしな」
「はーい……あれ?」
「ん? どうした?」
「……こいしは男の子だろ? ならあっちの塔で陰間になるんじゃないのか?」
「あー……」
「えっ、こいしって女のこ」
「阿呆か、僕はれっきとした男だ」
「えぇ? じゃあなんで?」
「……親父様にもね、深い考えがね」
「それって何?」
「…………」
「姐さん!? 何で黙るの!?」
「おい、そこはっきりしないともやもやする」
「こいしもこう言ってるよ。もしかして親父様が間違えてたり……」
「いやいやそれはないだろう、流石にね。いやいや……」
「声に力がないよ姐さん」
「もう痴呆が始まってるんじゃねぇの」
「こいし、しー。陰口はこっそり言うものだ」
結局こいしがどうしてこっちにいるのかはよく分からなかった。親父様、本当に大丈夫か?
「まあまあ、そんな話は置いといて、そろそろ風呂にしようじゃないか」
「風呂っ?」
「こいしは特に汚れてるから、さっさと湯につかりたいだろう。この昼の時間ならまだ人も少ないだろうし、今のうちにとっとと入っちまおうか」
「うわー! お風呂か! 入りたい!」
あの子にはよく布で磨いてもらったけどお風呂には入ったことがない。すっごい楽しそう!
「よし、決まり。じゃあ浴場はさっき説明したから覚えてるか試してやろうじゃないか。あたしを風呂まで案内してみな」
「よーし、頑張ろうこいし」
「……勝手にやってろ」
*****
「……全然道分かんなかった」
「まぁ一回目だからね。これから覚えればいいさ。それにしてもこいしはすごいねぇ、一回で覚えちまったのかい」
「こんなの、一回行きゃ分かるだろ」
「私は分かりませんでしたけどー」
「それはお前が阿呆だから」
「うー、今回ばかりは反論できない。完全敗北だー」
「ふん」
赤いのれんをくぐって脱衣所に入る。中には誰もいなくて、衣服を置いておく棚だけがずらりと並んでいた。
「そっか、ここは遊女のための風呂だから女湯しかないのか」
「いや? 男湯もあるよ。下働きには男も多いからね。わざわざ移動させるのも酷だろう。女湯よりは多少窮屈だけどね」
「じゃあ僕はそっちに」
「初めてで使い方が分からないだろう? あたしが教えてやるから今日はこっちに入りな」
「…………」
「もしかして恥ずかしいのか? そういうのませてるって言うんだぞ」
「は? 張り倒すぞ」
こいしはぎろりと私を睨むと乱暴に服を脱ぎ始めた。顔は女の子みたいだけど脱いだらやっぱり男の子だ。
「ん……?」
「なんだよ、じろじろ見るな」
「だってほら、ここ」
体中汚れていて分かりずらいけど、ところどころに痣がある。痛そうだ。
「こんなにたくさん、転んだのか?」
「なんだって良いだろ。見るな、触るな。というか僕に近づくな」
すごい、ハリネズミみたいに威嚇される。取り付く島もないっていうのはこのことだ。
「体な大切にしないとだめだぞ。人はちょっとぶつけただけでも痛いし、下手するとすぐに死んじゃうんだからな」
「……うるさい」
私は腕が取れちゃって修理してもらったこともあるけど、人間は体が壊れてしまったらもう元通りに直すのは難しい。
こいしはさっさと服を脱ぐと浴場に行ってしまった。
「姐さん、帯解いて」
「はいはい、後ろを向きな」
私はまだ一人で着付けができない。だから脱ぎ方も分からないのだ。これは早いうちに習得しないといけないな。でないと迷惑をかけてしまう。
「……かぐや、人には触れられたくないことも沢山ある。そういうのは極力ほっといておやり」
「触れられたくないこと?」
「怪我したところを触られると痛いだろう? それと同じように心にもひどく痛む部分があるんだよ。傷口には触れないでやるのが一番さ」
「でも、人は痛いときや悲しいときって寂しくなるものじゃないか? 誰かに心配してもらいたくないか?」
「そういう時は黙って見ていてやればいいんだよ」
「黙っていたら心配してるのが伝わらないんじゃないかな?」
「……それは……」
姐さんはちょっとびっくりしたような顔をして私を見た。
「あんた、賢いね」
「え?」
「そうだね、伝わらなかったら意味がないね……」
なんでそんなに悲しそうな顔をするんだろう。そういう顔をされると、困る。あの子を思い出す。
「姐さん、よしよし、痛くないよ」
私はちょっと背伸びをして、帯を解くためにしゃがんでくれていた姐さんの背中に手をまわした。
「ありがとう、かぐや。でもあたしは大丈夫だよ。ここで生きてりゃつらいことの一つや二つはある。いちいち傷ついてたら身がもたないからね」
「辛くないならいいんだ」
「あんたは優しいね」
「えへへ」
あ、笑ってくれた。良かった。美人だなあ。
「それにね、これは私の理由だけど……こいしに興味あるんだ。もっと知りたい。私の知らないことをたくさん知っていそうだから」
姐さんのおかげで着物が脱げたので、私もこいしを追って風呂へ向かった。