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「え、?」
ずいっと、視界に現れたぴかぴかの小さな革靴に私は慌てて顔を上げた。
「来てやった」
視線の先には昨日見たばかりのプラチナブロンドの少年がふんぞり返っていた。
「………本当に来たんですか」
面倒くさい……。
帽子を深く被り直して、脂でよごれた顔を腕で拭った。
生成色だったはずのシャツはもう煤汚れて何色だったのか分からない。
「来るといったじゃないか」
まあ、言いましたけど……。
まさか本当に来るとは思はなかった。
とりあえず代金は先払いと言っていたし、と思って靴を磨くと、やはりぴくりと一度引かれそうでしかし堪えたようにそこに踏みとどまった。
………いやなら辞めればいいのに。
なんだろう。金貨を払ってしまったからいやでも、元を取り返さないと気が済まないのだろうか。
さすが、強欲な貴族様である。
ちらりと視線を動かすと少し離れたところに大人の履き慣らされた靴があった。
ゆっくりと視線をあげると人の良さそうな初老の男性が立っている。
執事服のようなものを着ている。
今日はきちんと従者を連れてきたのか、それはいい事だ。
ちらりと、伺っただけなのに、男はこちらを見てなんだか探るように微笑んだ気がして慌てて視線を逸らした。
「お前、名前はなんて言うの」
「……私ですか?」
「お前しかいないだろうが」
「ライリーと申します」
ふうんライリーね、自分で聞いたくせに興味がなさそうに呟くとそれきり、少年は黙り込んだ。
まあ、どうでもいいか、名前なんてあってないようなものだ。
ここで働いて名前を聞かれたことは初めてだったけれど。
なんとなくどうでもいいことを考えてせっせと靴磨きに集中する。
とっとと終わらせておかえり願おう。
「僕の名はセレスディア」
「………」
「お前には特別にセレスと呼ぶことを許そう」
「………」
「………おい、聞いているのか!?」
「聞いてますよ、セレスディア様」
煩いな…。
靴をキュッキュと磨きながら頭上にかかる言葉に答えた。
答えたというのにセレスディア様は憤慨したように脚を引いた。
ああ、もう少しで終わるところだったのに!
「セレスだ!セレス、でいい!」
「…分かりましたよ、セレス様」
目尻を釣りあげて怒る少年に、はいはい、とそう言うと彼はいささか溜飲を下したらしく、ふんと鼻を鳴らした。
やれやれ、と思いため息が出そうなのをぐっと堪える。
セレス様の後ろでは例の従者が読めない笑顔でこちらを見ていた。
「じゃあ、セレス様……続きを」
「もう良い、もう帰る。僕は忙しいんだ」
ああ、そうですか、それはよかった。
昨日と同じセリフを吐いたセレス様は代金は?と言った。
どうやら学習したらしい、正当な金額を払うつもりのようだ。
しかし、セレス様昨日のことをすっかり忘れていますよ。
「昨日いただきましたので、いりません」
セレス様はなにか言いたそうにしていたが、従者に窘められ背を向けた。
そうそう、素直にさっさと帰ってくれ。
「また来る」
最後にそう言ってセレス様は帰って行った。
それからもセレス様は現れ続けた。例の従者を伴って。
彼は徐々に生ぬるいなんとも言えない笑みを浮かべるようになって、それが居心地悪かった。
確か2人は週に3回は来ていたと思う。
1度の時間は短かったけれど私達はそれなりになんとなく、いろいろな話をした。
だいたいはセレス様の話を私が聞くばかりだったけれど。
「姉様が口うるさい」とか「家庭教師から逃げてきた」とか「今度王都に行く」とか。
なんやかんやで1年くらいそれを続けて、私達は自然と友達、とも呼べそうな関係になっていたと思う。
セレス様は私にできた人生初の唯一の友達で、多分セレス様もその面倒くさくて天邪鬼な性格からしてあんまり友達いないんだと思う。
じゃなきゃわざわざこんなところ来ないだろうし。
「ライリー、来てやった」
「こんにちは、セレス様」
そうして、一週間前、いつものようにセレス様はやってきた。
しかし、いつもの従者はいなくて、代わりに若い男が後ろに控えていた。
ピシャリと使用人の制服らしきものを着こなした男の目はすごく鋭くて、蛇のようだと思った。
いつもの従者の生暖かい微笑みよりも数倍居心地が悪い。
私は目を逸らして、いつものように靴を磨き、いつものようにセレス様の話に相槌を打ち、銅貨1枚をもらってセレス様を見送る。
最後の最後まで、あの蛇のような目がこちらを見ていて私はやはり、帽子を深く被り直した。
それから、昨日。
しばらく現れなかったセレス様がどこかおかしな様子で現れた。
珍しく誰も供をつけず1人だった。
「セレス様?どうしました?従者の方は…」
「ライリー」
硬い声音に、はい?と呑気に答える。
どう考えても様子がおかしかった。
翡翠色の瞳はなんだかよく分からない感情でゆらゆら揺れていて、眉の間にはしっかりとシワが刻まれている。
「セレス様?」
「お前、おんななのか」
思わず目を丸くした。
まっすぐに顔を向けられているのに、帽子を被り直すことも忘れて、驚いてその翡翠色を見つめる。
出会った時は自分と同じか少し小さいくらいと思っていたセレス様の目線は気がつくと私よりもうんと上にあった。
「えっと、はい、なんか、騙していたみたいですみません」
正直、男だと名乗った覚えはないし、聞かれたこともなかったから、自然と勝手に彼がそう思っていたのだろう。
まあ、それもそうだ。
パッと見短髪に見えるし、服だって兄のお下がりで、体つきは栄養が足りないのか女性らしくはない。
顔はもう随分と長いこと見ていないのであんまり覚えていないけど、どうせ、煤だらけで真っ黒だ。
騙したつもりも、騙すつもりもなかったが、勘違いされているだろうそれをほおって置いたのは自分だし、そもそも、わざと、男の子に見えるような見た目にしていたのも自覚はある。
私のへらりと笑った言葉に、セレス様は動揺を隠すことなく1歩下がるときっと睨んできた。
「……なんで」
「はい?」
俯いてしまったせいで声が聞こえなくなりそう聞き返すと、彼は右手をあげ私の帽子を奪った。
はらはらと零れ落ちる伸ばしっぱなしの金の髪。
暗い路地裏では陽の光に当たることなく、脂で固まったそれがばさりと背に落ちる。
セレス様はこれでもかと目を見開いて一瞬泣きそうな顔をした。
それから、懐から何かを取り出し私と距離を一気に詰めてくる。
「えっちょっ」
その焦燥さえ見て取れる形相に困惑して、セレス様に怯えた。
命の危機すら感じた。
彼が私の薄汚れた帽子を握り締めている反対の手に握っているそれ。
キラリと鈍く光るそれに血の気が引いた。
「……んで、なんで、女なんだ!騙していたのか!このっ!おま、お前は!お前は、女なんかじゃない!!」
彼が左手を振り回し目をつぶった瞬間、ジャキリと聞きなれない音がした。
途端に足元に散らばる薄汚れた金の髪。軽くなった頭。肩ほどに触れる毛先。唖然とした。
彼の翡翠の瞳は水の膜に覆われていて、声をかける前に脱兎のごとく走り去っていってしまった。
私はしばらく唖然とし続けていた。
何が起こったのだろう。
セレス様にとって私が女だということはそれほどまでに辛いことだったのだろうか。
肩のあたりを触ると切りそろえられた毛先にぶつかる。
帽子は持っていかれてしまったけれど、これなら誰も女とは思うまい。
この国で女性は髪を伸ばすことが美徳とされている。
平民でもそれは変わらない。
もう顔も忘れてしまったけれど旦那様……お父様譲りのこの金の髪は、こんな格好をしてこんな生活をして生きる私が唯一、女であるという証だったのだ。
2人の兄が唯一綺麗だとしかめっ面で言ってくれた髪だった。
瞳は母…つまり旦那様の愛人になるのだけれど母に似たらしく家の誰ともにつかない漆黒だったけれど。
金の髪だけはあの中で居場所をくれているような気がしていたのだ。
思いのほかショックで自分で自分に驚いた。
そして、そんな自分の中での大事件に浸る間もなく、次の朝を迎える前に、馬車に詰め込まれ、何時間も走り、そして、何が何だかよくわからないまま、どこかよく分からない草むらに打ち捨てられたのだった。