10
オルガさんに、女だということを打ち明けろ、と言われて六日目、つまり明日が約束の期日である。
言う機会なら腐るほどあった。
当然だ。
私はエドアルド様の専属執事で、さらに言えばオルガさんにあの日、片時も傍を離れるな、と言われている。
つまり、よっぽどの事がない限り、執務中はずっと近くで仕事をしている。
それも、二人きりで、だ。
1日目……あの後であるけれど、琥珀色の瞳を見つめた瞬間…ダメだった。
早く言わなければとは思うのだが、今までの楽しかったこと、辛かったこと、エドアルド様の鬼のような扱きや、笑顔……まあ、笑顔と手放しで呼べるようなものを見たことは無いが、怒り顔、怒鳴り声……あれ、あんまり前向きなものがない。
まあとにかく、そういうものが走馬灯のように駆け巡って怖くなった。
エドアルド様に怒鳴られることがでは無い、落胆されることがだ。
2日目、荷物を纏め始めた。
ノロノロと元から私物は多くないから直ぐに片付いてしまいそうでわざとノロノロとしてしまった。情けない……。
3日目、荷物をまとめ終えてしまった。
早く仕事が片付いて何より、ではあるが、私はショックだった。
ここを去る実感が湧いてきたからだ。
4日目、ついに、「エドアルド様」と声を掛けた。
うだうだしていてもしようがないし、そもそも追い出されることは決まっている。
エドアルド様的にも、屋敷的にも早い方がいいに決まっているのだ。
いつものように、なんだ?と不躾に向けられた瞳にあろう事か怯んでしまった。
どんなに怒鳴られても冷たい目を向けられても耐えてきたのに、何故か泣きたくなった。
でも、仕事に支障をきたしたり、エドアルド様を不快にさせてしまっては元も子もない。執事失格である。
お給料だって少なくない金額いただいているのだ。
それこそ、以前の私では一生かかっても稼ぐことの出来なかった額だ。
5日目、前日の情けなさを踏まえて、いつも通りにいることに務めた。
表には出さないようにしてきたが、更に、だ。
ダメなやつだった、で終わらせたくないのだ。
ちなみに荷物を自室の扉の1番近いところに移動させた。運びやすいように。
そして6日目の朝、今までなにかと理由をつけて打ち明けないことを正当化してしまっている。
卑怯な人間だ。私は。
だから、そろそろ本当に本当にケジメをつけなければならないのだ。
私はいつもよりも早く起き色々なことを振り返り覚悟を決めてエドアルド様の部屋の前に立っていた。
今日こそ言おう。
扉を開けて朝の支度をして、部屋を片付けて、朝食の準備をして、エドアルド様がお食事を終えたら今日のスケジュールをお伝えして、それから、
「………それから、言おう」
必ずーーーーー。
頬をパチンと1度自分で叩いた。
昔、スーシェルで領民の喧嘩を仲裁して吹っ飛ばされた時に比べれば、自分で叩いたところで痛くも痒くもないが、まあ、景気付けだ。
「よし。ーーーエドアルド様、お早うございます」
私はノックをした。
ーーーーーーーー
「本日のご予定は、午前は執務室で事務作業ですね、雨の多い夏に向けて、橋と堤防についてそろそろ話を動かしていく必要があります。
それから、お手紙が20件ほど………、こちらは前侯爵様から今朝届いたものです。
内容は存じ上げませんが、早急にお目をお通しください」
「は、またどうせ金の無心だろう」
「どうでしょうか」
手渡した手紙をまるでゴミでも見るかのように温度のない瞳で睨め付け、ピッと封蝋を切る。
急ぎのもの、緊急性が感じられるものを執務室に向かいながら廊下で読むのは彼の常である。
あまり行儀がいいことではないとオルガさんは嘆いていたけれど、まあ忙しいエドアルド様に限っては仕方の無いことだと思う。
「それから午後ですが、本日は面会の予定はございませんが、1度城へと上がっていただき、」
ぴたり、エドアルド様が足を止めた。
話しながら進んでいた私は危うくぶつかりそうになりどうにか踏みとどまって事なきを得る。
と、同時にエドアルド様が左手を軽くあげる。
黙れ、の合図である。
「………あのクソだぬき」
沈黙に耐えかねてエドアルド様の広い背中から少しだけ顔を覗かせると、怒りに手を震わせてエドアルド様が手紙を握りつぶした。
クソだぬき?クソだぬきって、前侯爵様の…
「あ、あの、どうなさいました……」
「ライリー、すまないが今日の予定は軒並み変更だ」
「エドア…」
エドアルド様、そう声をかけようとした瞬間、慌てたように使用人のひとりが駆け込んできた。
それを見たエドアルド様は咎めることもせずに顔を顰めてちっと舌打ちをした。
あのエドアルド様が、である。
「エドアルド様、パーシヴァル嬢が」
「もう来たのか、迷惑な奴だ」
使用人の報告を聞かないまま、忌々しそうに吐き捨てて踵を返した。
パーシヴァル嬢、パーシヴァル嬢って例の、あのしつこ…健気な手紙の…
「ライリー着いてこい」
「は、はい!」
エドアルド様の背中が、背中だけでも分かるほど苛立っている。
大股の彼に小走りでついて行きながら私はため息をついた。
今日は話せないかもしれない。
勤務の後に、例えば夕食後とかご就寝の前とか、時間をいただけたらいいのだけれど。
とか、そんなことを考えていたらいつの間にか来賓室の前にいた。
ぱたりと立ち止まるエドアルド様がやはり苛立ったように音を立てて両開きの扉を押し開く。
「エドアルド様!」
そう感嘆の声を上げたのは私ではない。
後ろからひょこっと顔を覗かせるとソファに座っていた目に痛いほどキラキラした何かが立ち上がりこちらに向かってくる。
「まあ、エドアルド様、お会いしたかったですわ」
「オルティマン伯爵令嬢、突然このようにやってくるとは何事です。不躾にも程がある」
「あら、許可なら前侯爵様からいただいていますもの。ご存知でなくって?」
「貴女が父とどんな交流を持とうが知ったことではないですが、この屋敷の主は俺です。
父が許可を出そうが出すまいが関係の無いことです」
温度のない声で淡々と告げられるそれらは私に向けられた訳では無いのに、怯んでしまいそう。
そのくらいに、どうでもいい、お前に関心がない、さっさと出ていけ、という副音声がついている。
……………冷たい、冷たすぎる。
「だって貴方様ったらお手紙いつも素っ気なくって、良いお返事を返してくれたことがないじゃない」
「そうですね、断っているはずですよ、オルティマン伯爵令嬢。
つまり、来るなということですが、お分かりいただけていませんでしたか」
というか、この方がパーシヴァル・オルティマン伯爵令嬢。
大量の手紙を送ってくる張本人。
その殆ど……というかなにもかもはエドアルド様に利のないことなので私が読んで当たり障りのない返事を書いて、全ての要望をお断りしている……ということを彼女は知らないのだろうな……。
なんか可哀想になってきた。
でも、主が本当に心の底から嫌そうな目で見てきて仕事にも支障が出るのだから仕方がないじゃないか。
というか普段から割と冷静で無表情でしかめっ面のエドアルド様(鬼)がこれだけ拒絶するのもまた珍しい。
嫌い嫌いもなんとやらとかいうアレなのだろうか、実は。
「そのオルティマン伯爵令嬢というのはやめて下さらない?他人行儀だわ。
パーシヴァルとお呼びくださいな」
「ええ、他人ですから。オルティマン伯爵令嬢」
「そんなはずないわ、貴方とわたくしは婚約者よ。ねえ、いつになったら婚姻をするのかしらわたくしもう22歳なのだけれど」
「婚約者?なった覚えはありませんね。
ああ、もしかして俺の父とオルティマン伯爵がはるか昔酒の席で交わした冗談を未だに引きずっておられますか?俺は何度もお断りしている筈ですが」
「まあ、意地悪を仰って」
「それに貴女は家が借金まみれだと知った瞬間一切近寄ってこなくなったでは無いですか。それどころか己の安いプライドを守るためにハインツ侯爵家のあることないことペラペラ吹聴していた事も知っています。
それと、貴方の愉快な男性遍歴もね。相当自由に遊んでいるらしいですね、家の弟でさえ食指が動かないなんて相当でしょう。
まあ、俺としては清々していた訳ですが……持ち直したと思ったらまたこれだ。
5年間売れ残り続けましたか?」
やいやいエドアルド様と言い合っていたオルティマン伯爵令嬢が怒りの形相を呈した。
まさか、図星だったのだろうか、こんなに美しいのに何故。
私よりも遥かに明るい金の髪は輝くばかりにツヤツヤで妖艶に美しく結われているし、肌は真っ白。
ブルーの瞳は宝石のようだしなにより、その女性らしさを全面に押した出した真っ赤なドレスからこぼれ落ちそうな乳。
そして、乳。
スイカでも入っているのだろうか、1度でいいからちょっと触ってみたい。ふわふわしてそう。
乳とケツは男のロマンだとアルフレド様が数年前に熱弁していた。
お前はどっち派だ?と聞かれたから、膨らみもしなかった自分の乳を見下ろして、板のようなケツを鷲掴んで、適当に腕?と答えたらお前……マニアックだな、となんか引かれたけれど。
だってエドアルド様のあの細く見えて、実は鍛えられた美しい筋肉の着いた腕とか素敵じゃないか。
私は筋肉がついてもあまり表に出ないしひょろっと見えるから羨ましい。
まあ、確かにあのあからさまにさあ触りなさい、この豊満な乳を!と主張するあれを目の前にしたら触ってみたい衝動に駆られる。
なるほど、こういうことですか、アルフレド様。
エドアルド様は何が不満なのだろう。
美人だし乳はでかいし、伯爵令嬢だし、乳はでかいし、このエドアルド様に怯まないし、神経相当図太そうだし、乳はでかいし、美人なのに。
ひとり首をかしげていると、恐らくエドアルド様の辛辣な言葉と冷たさに耐えきれなくなったのであろうオルティマン伯爵令嬢がこちらを見た。
不味い、目が合ってしまった。
「ちょっと、そこの。見たことがない顔ね、使用人風情が何故ここに居るの?
さっきからジロジロ舐めるように見てきて、気持ち悪い」
いやあ、でかい乳だな、と思って。
というか、見られたくて出してるんでしょうそれ、と言いそうになるが言わずに微笑む。
面倒くさいことに巻き込まれるのは御免である。
「ご不快な思いをさせてしまったとしたら大変申し訳ございません。
あまりにもお美しくついつい、見入ってしまった次第でございます。御無礼を、失礼致しました。」
「彼は俺の専属の執事です。彼は俺の傍に控えることが仕事ですので、貴女にとやかく言われる覚えはありません」
にこりとしてそう言った私にオルティマン伯爵令嬢は、あら……と言って鼻を鳴らした。
分かっているじゃないと、見下すような視線に苦笑が漏れる。
それから守るようにエドアルド様が私の前へと体をずらした。さすがエドアルド様、愛想はなくともなんてスマートで紳士的な動作だろうと感心する。
……なんというか、オルティマン伯爵令嬢は実家の亡き奥様のような方だなと思った。
気位が高くて自分が1番でないと我慢がならないのだろう。人を見下すのが趣味のような方だったけれどこの人もそういう部類なのか。
だとしたらエドアルド様が嫌がるのも納得である。金遣いは荒いし、使用人を奴隷のように扱うし、相当面倒くさいことを私は知っている。
というか、貴族の令嬢って大抵こういう感じなのだろうか。
ハインツ侯爵家の使用人達は皆(私以外)身元のしっかりしている方ばかりであるけれどそれでも、こんなのは1人も居ないというのに。
なんというか……エドアルド様可哀想。
「そんなひょろっとした、貧弱な情けない男を傍に置いているだなんて、ハインツ侯爵家としてどうなのかしら」
オルティマン伯爵令嬢の言い分も最もである。
もう少し分かりやすく筋肉が着けばいいのだけれど、なかなか難しい。
それに私はもうすぐ、この屋敷を出ていくのでご心配なく…と心のうちで落胆する。
「仕方がないから、未来のハインツ侯爵家を取り仕切るものとしてうちで鍛え治して差し上げますわ。
お前、その情けない顔をしまってこちらにいらっしゃい。
このわたくしに仕えることが出来ること、光栄に思うがいいわ」
「貴方にハインツ侯爵家の事に口を出される覚えはありませんし、彼は優秀です。
貴方の数百倍役に立つし、彼は貴方とは違って望まれてここに居ます。
彼の居場所はここですし、俺の傍にいるのが仕事だと言ったはずですが。
もう既にハインツ侯爵家になくてはならない者です。
ーーーーーー分かったら、さっさとその無駄な脂肪をしまってこの敷地をでろ。
自分で帰れないというのであれば、家の私兵に送らせるが、もう二度と顔を見せるな。
ハインツ侯爵家の財産は諦めて、他を探すべきだな。貴方のお父上にもきちんと話を通しておこう」
突然、声音をどす黒く変えて唸ったエドアルド様にオルティマン伯爵令嬢は顔を羞恥に真っ赤に染め上げ、かと思ったら真っ青にして私を睨みつけながら部屋を出ていった。
私はというと、その拍子に無駄に揺れる‘無駄な脂肪’
に反応もせず、先程エドアルド様が凛と言い放った言葉に胸を打たれていた。
何だか動悸息切れがする。
体も何だか熱っぽい気がするし、風邪なのかもしれない。体調は悪くないけれどエドアルド様が見れない。そしてとにかく胸が握りこまれるように痛い。
「ライリー、嫌な思いをさせてすまない。今までは直に諦めるだろうと適当にあしらってきたが父に媚を売るとは予想外だった。
本格的に、二度と家と関わらないよう…………どうした?顔が赤いぞ、体調が」
「い、いえ!も、もも問題ありません!」
麗しい無表情がどこか心配そうに見えるのは私の欲目だろうか。
こちらを覗き込んでくるエドアルド様の顔が近付いて思わず飛び退く。
しまった、主相手になんてことを………。
せっかく心配してくださったというのに。
これは罪悪感だろうか、この苦しさは、未だに主を騙していることの。
………早く、早く告げなければ。
そう思うと、更に胸が傷んで、私はそれを無視した。




