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8.火曜日午後11時
繁華街が、これほど落ち着くものだということを、はじめて知った。
人の多い通り、人の多い店を選んで、麻衣は移動を続けた。
しかし、忘れていた。夜が更ければ更けるほど、人の数が減っていくということを……。十時を過ぎれば、ほとんどの店は閉まってしまう。遅くまでやっているのは、居酒屋やカラオケ──どれも、一人では入店しづらいところばかりだった。
二四時間営業のレンタルショップがあったので、そこで一時間ほどつぶした。さすがに店員の眼が痛くなったので外に出たら、人生で一番の後悔を味わった。
もう深夜と呼ばれる時間に入っていた。新宿とか渋谷とか、不夜城と称される街でもないかぎり、この時間になると交通量は激減している。
どうしよう……。
ここにいるのも、危険だ。再び、レンタルショップに入ってしまおうか……。こうなったら、恥も外聞も関係ない。
(冷静になるのよ)
麻衣は、自分に言い聞かせた。
店のなかも、閑散としていたではないか。店員一人と、客が二、三人。もしその客のなかに、あの殺人者がまぎれているとしたら? 背筋も凍る想像だった。
見る人、眼に映る人、だれも信用できなくなった。
家のなかが、最も安全なのだ。
部屋に急ぐんだ!
麻衣は、自分のアパートに足を向けた。
アパートへ近づくにつれ、人影が急激になくなっていく。ここでも後悔……。やっぱり、繁華街のほうが安全だ。
泣きそうになった。
暗い暗い夜道。街灯の光が、むしろ怖い。
光の届かない闇に、あの殺人者が潜んでいるのではないか!?
(考えちゃダメ、考えちゃ……)
走り出そうとした。だが、すくんでうまく動いてくれない。
家に帰ろう。家に。
(でも……)
帰ったところで、結局は一人だ。孤独な部屋で、あの殺人者の影におびえつづける。
茨城の実家に帰ろうか……。
大学は、実家からでも通える。つくばエキスプレスができてからというもの、東京が近くなった。開通時、麻衣はまだ小学生だったが、それでも便利になった感覚がある。通学時間がかかりすぎるから、というのは口実にすぎない。独り暮らしをしたかっただけなのだ。部屋を引き払って、すぐにでも実家に帰ろう──麻衣は、そこまで考えた。
考えたことが幸いしたのか、アパートが見える位置まで、いつのまにかもどっていた。とはいっても、あと直線距離で五十メートルはある。いつもなら、あっという間の家路なのに、今夜は遠い。
さらにここから、街灯の間隔があいてしまう。
恐怖。昨夜も感じたそれは、いままでホラー映画や怪談話で抱いたものとは、異質に研ぎ澄まされていた。所詮、それらは作り話だ。命の危険などありはしないのだから。
一歩一歩が、重い。
(よく考えるのよ……)
あの殺人者は、わたしの存在なんて気づいていない。だから、おびえる必要なんてない……。
そのとき、人の気配を感じて血の気が失せた。
「!」
悲鳴を我慢したのではない。声も出せないほど驚いてしまったのだ。
アパートの方向──前方から、だれかがこちらに歩いてきた。
まさか、殺人者!?
(落ち着け! あれは、ただの通行人)
そうだ。むしろ、いま人と出会うのは歓迎すべきではないか。
心細さを、まぎらわせよう。
人影との距離が近づくにつれ、それがだれなのかわかってきた。
(派遣さん)
となりに住む……鈴木、という名前の人だ。いつも不規則な時間に出ていくから、いまから仕事だったとしても不思議ではない。深夜から早朝にかけての業務なのだろう。
知っている人だからか、本当に心細さがまぎれた。
すれちがいざま、会釈もした。
いつもどおり、むこうの態度はそっけないものだった。無視というほどではないが、一瞬、眼を合わせて、ほんの気持ちていど頭が下がっただろうか。
すれちがって、何歩かすぎたころ……。
なにか頭に引っかかるものがあった。
(なんだろう?)
でも、その正体がなんなのか、よくわからない。
アパートは、もう目と鼻の先だ。
麻衣は、気づかなかった。
なにかを思い出しかけたとき、派遣さんがさぐるように後ろを振り返っていたことを──。
* * *
おれは、夜道を進んでいた。
この町に潜伏して、もう何ヶ月になるだろうか。いつもなら、一ヶ月もしないうちに移動する。ここまで長くいるのは、例外だ。
この町は、擬態するのに適しているのだ。
昆虫、爬虫類、魚類。巧みに擬態する生物は、数限りない。擬態とは、生き残るための進化であり、餌を捕食するための最大の武器なのだ。
哺乳類。もっといえば、人類こそが、その擬態を一番うまくあつかえる動物だ。
おれは、そんなことを考えながら歩いている。
自分の名前は、忘れた。
子供のころは、なんと呼ばれていたんだっけ……。
いや、覚えている。だが、思い出すことはしない。
いまのおれには必要のないことだ。
過去はいらない。未来もない。それが、自分の生き方だ。
いまの名は、鈴木。
下のほうの名前は、本当に忘れた。
部屋を借りるときに書類には記したはずだが、一郎だったか、和夫だったか。
住宅地と呼ばれる区画を抜け、繁華街へ出た。ひっそりと寂しげな空気が、それなりに賑やかなものへと変わる。とはいっても、人通りは時刻が時刻だけに、少ない。
さきほど通りすぎた女。
となりの部屋に住んでいる、利根麻衣という女子大生だ。
昨夜は、見られた。
彼女に──。
おれは、レンタルショップに入った。
二四時間営業で、深夜十二時に近いというのに、客は二、三人いるようだ。ほかに人のいないエリアに足を運んだ。
アニメDVDのコーナーだった。
知らないアニメだ。むかしの作品のようだが、よく見れば、そのシリーズが棚にずらっと並んでいる。おれが知らないだけで、人気作なのだろうか?
そこへ、店員がやって来た。何本かの展示用空ケースを手にしていて、おれの見ているとなりの棚へ、持ってきたケースをもどしはじめた。
おれは、一本を手に取った。
「お客さん、ツーですね」
店員が話しかけてきた。
おれは、眉をしかめた。なにが『ツーですね』だ。
アニメになんか興味はない。ほかの客に会話を聞かれないために、このコーナーを選んだだけだ。
「──あいかわらずの手際だが、事後処理はどうする?」
店員は棚を整理する手は止めずに、素知らぬ顔でそう切り出した。
「見られたんだろ?」
「気づかれてない。いまのところは」
おれも、手に取ったケースの裏面を読みながら応える。傍目には、棚を整理する店員と、商品を選んでいる客にしか見えない。
「どうしてわかる?」
「いま確かめた。帰ってきたところをすれちがった。おれの顔を見ても、反応はなかった」
「いま?」
店員は、手を止めることなく考え込んだ。
「女子大生ふうの女が、さっきまでうろうろしてた。あれか?」
「たぶん、そうだ」
「なにかにおびえてたが、おまえにか」
「だから、おれだとは気づいていない」
「だが、仕事を目撃された。いまはわからなくても、じき思い出すかもしれない」
「顔は見られていない」
「断言できるか? 殺人を目の当たりにしたショックで、記憶が曖昧なだけかもしれん。時間が経てば……」
「そのときは、処理する」
「できるか? 何年前になるっけ、あの警察官」
「忘れた」
おれは、嘘をついた。
あの男のことは、よく覚えている。
「おまえは、殺せなかった」
「殺す必要がなかったからだ」
「……わかった。話を変えよう」
店員の棚整理は、延々と終わらない。
「次の仕事だ」