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遠い声  作者: てんの翔
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       7.12日午後1時


 水谷健三の会社を訪れた翌日、世良は事務所にこもって、CDに焼いた犯人からの電話を何度も聞き直していた。

 水谷健三の声を思い出し、その二つをくらべる作業を頭のなかで繰り返す。

 二つの声は、接点をみない。

 水谷健三の声を過去に聞いていることはまちがいない。おそらく、眼を潰されるまえ──公安部時代に。犯人の声は、警察官のときに聞いた記憶はない。しかし犯人と健三とのあいだに、そういう因縁がふくまれている可能性は大いにある。

 長山からの報告では、健三の会社の経営状況は、可もなく不可もなく……だそうだ。

 それ以外に、水谷健三に関する特別な内容は言ってこなかった。ということからも、水谷健三の人物像は、あまり重要視されていないことがうかがい知れる。

 世良の考えは、こうだ。

 たんなる誘拐事件ではなく、左翼闘争の末に、娘が誘拐されたのではないか。報復なのか、内ゲバなのか……。

 飛躍しすぎだろうか?

 だが現代の過激派というものは、全体の運動が劇的に縮小されているのに反比例して、よりコアで、粘着性をもっているものだ。

 いまでもそっち側に残っている人間は、あきらかに変わり者だ。偏屈であり、融通がきかない。根っからの天の邪鬼。みんなが右を向いているから、左を向いているだけ。イデオロギーもナショナリズムもあとづけで、運動の根本は世の中への反対行動である。

 もちろん、その評が100%正しいと断言するつもりは世良にはないが、一部分は確実に切り取っている自信がある。

 これまでの印象から、水谷健三は『赤』ではない。すくなくても表立ったところでは、赤い旗は振っていない。

 当時、世良が潜入していた組織は、二つある。その一つは、ほんの数週間だけの短期であり、とある労働組合との関係が深い組織だとされていた。

 公安部の国内捜査対象は、左翼過激派、極右組織、新興宗教団体というのが三本柱として有名だ。そのうち、左・右派のほうは年々縮小が続き、カルトだけが増えている現状がある。世良が現役のころにもそれは顕著だったので、もしかしたら最新事情は、もっと進んでいるのもしれない。

 そのなかにおいて、国内には、かつて盛んだったが、現在は下火になっている捜査対象がほかにもある。

 それが、労働組合関係だ。

 労組には、その性質上、反権力思考の持ち主が集まりやすい。全盛期には、それなりの人数をかけて監視をしていたという。が、当然、世良はそのころを知らない。むしろ、潜入のチュートリアルとしての認識しかもっていなかった。

 危険もなく、有用な情報も必要とされていない。だからこそ、そこで潜入の基礎知識を学ぶことになる。

《S》の資質を試されるのだ。

 世良は、水谷健三が労組の関係者にいたのではないかと考えている。長期の潜入をおこなった左翼系組織であれば、中心人物でなかったとしても、なんらかの記憶には残っているはずだ。残っていないということは、労組関係であることを疑うべきだろう。

 水谷健三は、いまの会社を起業するまえは中古車の販売を手掛けている中堅企業のセールスマンとして働いていた。誘拐事件がおこったときには、すでに退社し、起業していたが、そのころのことが要因にあるのかもしれない。健三の過去を洗いなおすべきだ──世良はそう思いはじめていた。

 事件当時にも、そういう怨恨のたぐいは疑っているはずだ。それでも網にかからないということは、ずっと深い場所に、なんらかの秘密があるのか……。

 思い過ごしでもいい。自分は警察官ではない。失敗を恐れる必要はないのだ。

 峰岸の足音が近づいてきたので、音声を止めた。ヘッドホンをしていても、それぐらいはわかる。峰岸のほうでも、わざと接近を知らせるために大きく足を踏み込んでくれている。ヘッドホンを取るのを待っていたように、峰岸が話しかけてきた。

王海おうみさん、あんまり煮詰まりすぎないでください。王海さんの耳は確かなんですから、聞いてわからないことでも、時間が経てばわかるようになりますよ」

 その慰めに、笑みが浮いていた。

「気分転換でもしてきてください。最近、さゆりさんにも会ってないでしょう?」

「あ、ああ……」

 そこまで気をつかわれていることに、戸惑いがあった。そんなにまで、自分は追い詰められているだろうか。

「べつに、そういうわけじゃないですよ。単純に、お二人の仲を心配してるだけです」

 顔に出てしまったのだろうか、峰岸は言った。だが、依頼が進まない焦燥感のことを指摘されるより、彼女との仲を心配されるほうが恥ずかしかった。

「ぼくのほうから連絡しときましょうか?」

「いい」

 キッパリと断った。

「そうですかぁ」

 どこか、残念そうだ。きっと、彼女の声を聞きたいのだろう。

「それよりも、峰岸君には連絡してほしいところがある」

「どこです?」

「長山さん」

 見えなくてもわかった。峰岸の表情が、面倒くさそうに歪んだのが。長山と彼女を天秤にかければ、致し方のないことだ。

「なにを伝えるんですか?」

「調べてほしい人間がいる」

 世良は、数人の名前を教えた。メモをとる音がする。

「この人たちは?」

「むかし、関わったことのある人たちだ」

「警視庁のころの?」

 世良は、うなずいた。

「わかりました」

 そう応えると、峰岸の足音が遠ざかっていく。世良は、手をのばした。テーブルの上にある携帯をつかむ。

 思わず、ため息が出た。

 気が重かった。耳からは、コール音がする。

 彼女の名は、人見さゆり、という。

 職業は、特殊だ。ナレーションや洋画の吹き替えをおもにしている声優だ。年齢はハッキリとは教えてくれないが、おそらく三十を少し過ぎたほどだろう。公式なプロフィールでも、そこは謎となっているようだ。

 芸名は、夢見まりも。

 かつてはアニメ声優として活躍し、アイドル声優としてCDを出したり、ライブをひらくなど派手に活動をしていた。

 どうやら、本人はそれを「黒歴史」と思っているらしく、過去についてはふれたがらない。そのことを聞いたのも峰岸からだった。峰岸は、彼女のファンだったのだ。だから彼女の声を聞きたがる。ちなみに、峰岸が彼女にハマっていたのは、まだ子供のころのことだ。

 ルックスも、きれいだ、と峰岸は言う。

 どういう容姿なのか峰岸が説明しようとするのだが、世良はそれを聞かない。眼の見えない自分には不要な情報だ、と世良は考えているのだ。

『もしもし』

「もしもし」

 しばらく、こそばゆい沈黙が流れた。

『連絡、ずっとなかったね』

 とても洗練された透明な声。

 彼女の声は、そこから、どんな色にも変化する。赤になったり、青になったり……。

 声に惹かれた。

 喫茶店にいたときに、この声が聞こえた。彼女は打ち合わせの真っ最中だったのだが、世良は思わず声をかけてしまった。恥ずかしいことだが、ひとめ……いや、ひとこえ惚れだった。

 彼女は眼の見えない世良にも、迷惑がる素振りはみせなかった。それとも声に出なかっただけで、態度ではどうだっただろう。そんなことはない……彼女には、表も裏もない。

 恋は、盲目か。

『どうしたの? おもしろいことでもあった?』

 笑みでも、もれていたのだろうか。視力のない自分にも当てはまる言葉だったのが、どうにも可笑しかったのだ。

「いや、そういうわけじゃない。今夜、食事でもしないか?」

『いいよ、って言いたいところだけど、今夜は仕事なのよ。いまなら、少しあいてるけど……』

「いまから、会える?」

『いいよ。いつもの喫茶店でいい?』

「ああ」



 喫茶店についたのは、三十分後。彼女が来たのが、そのさらに十分後だった。

「待った?」

「少し」

 タバコの匂いが、強い。

 喫茶店に来ておいてなんだが、世良の嫌いな臭気だった。眼の見えたときからタバコは吸わなかったが、匂いが嫌いだったわけではない。視力を失ってから、それが顕著になった。

 警察官時代、やはり周囲の喫煙率は高かった。最近では禁煙派が主流となっているようだが、世良が現役のころは、まだそこまでの流れはなかった。

 視覚が無くなるということは、そのかわり、ほかの感覚が研ぎ澄まされるということだ。耳もしかりだが、匂いを嗅ぎ分ける能力も常人よりは高くなっている。タバコの煙が、これほど不快だったとは……。

 コーヒーの香りも、どちらかといえば苦手だ。

 ならば、こんなところへは立ち寄るな、と抗議をうけそうだが、眼の見えていた時代から通うここは、世良のオアシスのような場所だ。簡単には捨てられない。

 あのころと、内装が同じなのかはわからない。掛かっていた絵。観葉植物。テーブルの配置。

 世良の頭のなかでは、あのころのままだ。

 紅茶の香りが、鼻孔に届く。

 きっと上等の紅茶というわけではない。どこにでもあるものを出している。が、なぜだかここの紅茶は、うまく感じる。

 飲むと、鮮明な色が脳裏に焼きつく。

 まだ色を判別できたころの記憶がよみがえるのだ。

「忙しかったの?」

 彼女──人見さゆりが問いかけてきた。

 しばらく連絡をしなかったからだろう。

「そっちは?」

 べつにはぐらかすつもりはなかったが、世良は質問をそのまま返した。

「わたしのほうは、普通かな。いつもどおり」

「おれのほうもだ」

 会話は、予想よりもはずまなかった。

 いや、予想どおりか……。

 二人の仲が、うまくいっていないわけではない。しかし、進展もしない。世良のなかには、このまま彼女と進んでしまっていいのか──そう思う心が強くある。

 障害者とはいっても、世良の場合は特異だ。生活は、健常者とほぼ変わらない。だが、いっしょに寝食をともにすることになれば、ハンデキャップを負った部分が、やはり彼女にも重くのしかかる。

 そのことが、気持ちにブレーキをかけるのだ。

 いまの、この関係がちょうどいいのかもしれない……。

 自分の境遇を呪いはしない。しかし、ふと想像することがある。

 眼の見えたままで、出会っていたなら──。

(出会うことはなかった……たぶん)

 そうだ。見えていたら、話しかけることはなかった。彼女の声に惹かれることもなかった。たとえ峰岸の言うとおり美人だとしても、ナンパまがいのことなどしなかった。

 それをしたのは、追い詰められていたからだ。視力を奪われ、職を奪われた。さきの見通しはなく、まさしく暗いだけの未来。

 それを、彼女の声が変えてくれた。

 光を無くした自分にとって、彼女の声が光だった。

「どうしたの?」

「ん?」

「なんか、重いこと考えてたでしょ?」

 一瞬、心を読まれたようでドキリとした。

「そんなことない」

「仕事のこと? いま、警察を手伝ってるんでしょ?」

「峰岸君か……」

 嘆くように、世良はつぶやいた。

 なんとなくわかってはいたが、峰岸は頻繁に彼女と連絡をとっているようだ。

「わたしのほうが、お願いしてるの。なにかあったら教えてって。だって世良さん、つらいことがあっても、相談してくれないでしょ? いつも一人で抱え込む」

 否定はできなかった。

「誘拐事件なんですって?」

「ああ」

「わたしじゃ、なにも協力はできないと思うけど、愚痴でもなんでも吐き出して。聞くぐらいならできるから」

「ありがとう」

 身体のすべてが、リフレッシュされていくようだった。

 彼女のやさしさが、眠っていた闘争本能に火をつけた。

 必ず、たどりつく。

「早速、一つお願いしてもいいかな?」

 それが、とても意外だったのか、戸惑いの間があいた。

「もちろん。なんでも言って」

「祈っててくれないか。女の子の無事を」

 見えなくてもわかった。

 彼女が笑顔になったのが。


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