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53.20日午後8時
大勢の捜査員、鑑識の人間がイベントスペースを占領していた。
むろん、世良には正確な情景はわからない。すでに《店員》は、公安と思われる人員に連行されていった。残念ながら逮捕されたわけではない。だが、二度と《店員》が裏舞台で暗躍することはないはずだ。
公安のことは、公安のなかで……。
公安の不祥事は、公安の手で──。
その自己完結の法則にのっとり、適切な処置がされるだろう。
CIAやNSAにも見捨てられ、助けてくれる後ろ盾はなくなったはずだ。
残酷な結末を哀れとは感じたが、因果はめぐる。そういう生き方しかできなかった《店員》の自業自得だ。
「無事だったようだな」
桐野の声がした。いまでは公安は撤収し、捜査一課が現場を掌握している。ただし、桐野は別荘での件で警視庁を離れていたはずだから、正式な出動ではないだろう。
「ああ、なんとかな」
「浅田光二がいるんだって?」
そのとき、ちょうどその当人の騒ぎ立てる声がした。
「私をだれだと思ってるんだ! おまえら懲戒免職ものだぞ!」
どうやら、連行されることに怒っているらしい。
この男も、後ろ盾を失ったことになる。はたして、権力者として返り咲けるのかどうか……。すくなくとも、捜査一課に強制連行されようとしているのだから、なにかしらの罰はうけることになるはずだ。
「証拠はあるのか、証拠は!? なんの罪があるというのだ!?」
「拳銃を所持して、ここにたてこもったという証言があるんだ!」
捜査員が言い返すのだが、浅田をさらに暴れさせただけだった。
「拳銃など、どこにあるんだ!? 私は知らない!」
彼の拳銃は《U》に奪われ、非常階段の入口近くに落ちていたはずだ。が、それはすでに公安によって回収されている。二度と表には出てこないだろう。控室で殺された影武者も、しかり。それだけを考慮すると、浅田に有利な展開なのかもしれない。
世良の耳元で、桐野が笑った。
「さっき本庁にもどってみたら、差出人不明の郵便物が、おれ宛に届いてた。バイク便だったらしい」
そう言って、駄々をこねる子供のような浅田光二に、桐野は近づいていった。
「浅田さん、これを聞いてください」
『いまさらおまえを相手にとぼけるつもりはない。少女を誘拐するよう命令したのは私だ』
浅田の声が流れた。桐野がICレコーダーのようなものを取り出して、再生したのだ。
『なんだったかな……そういえば、雫といったか……水谷雫だ』
『そうだ。私の命令だ。私が、おまえに殺害を依頼した』
『名前など知らん。人工衛星の設計者だとしか』
「な、なんだそれは!?」
「浅田さん、あなたの声ですよね?」
「し、知らん!」
浅田光二は、必死に否定した。だが鑑定にかけなくても、世良の耳は、彼の声だと断定した。
「茨城県の山中で、白骨化した遺体が発見されています」
利根麻衣とともに掘り起こしたという、あれのことだろう。
「とにかく、いっしょに来てもらいますよ」
「わ、私は現職の国会議員だぞ!?」
「ですから、丁重におもてなししますよ。警視庁本庁舎のほうへお越しください」
それでも四の五の文句を言っていた浅田光二だが、捜査一課員によって連行されていった。
「いまの録音は、ヤツからか?」
「おれに手柄をたてさせてやると、ホテルで言われた」
その音声がどれほどの証拠になるのかは、微妙だ。なにせ、殺し屋の録ったものだから、裁判で証拠採用されることはないだろう。
「ま、追及できるだけしてみるさ」
そう言い残して、桐野も本庁へもどっていった。
「終わりましたよ」
次いで、長山の声がした。
軽やかな足音もしたから、さゆりもいるようだ。
人質となっていた被害者の聴取がおこなわれていた。さゆりの番が済んだようだ。
「驚きましたよ。私が眼をはなした隙に、いなくなっていたんですから。まさか、犯人のもとに突入していたなんて」
長山の声は、あきれているようにも、感心しているようにも聞こえた。
「ごめんなさい。世良さんの役に立ちたくて……必死で」
「でも、あなたのおかげで、水谷雫ちゃんと、世良さんが無事でいられたんですよ」
長山の言うとおりだった。
「殺し屋の顔は見てないんですよね?」
「はい。とにかく見ないようにしていましたし、あの人のほうでも見せないように手で隠していましたから。でも本当に、あの人は凶悪な殺し屋なんですか?」
「どうしてですか?」
「あの人が、世良さんを救ってくれたんですもの。世良さんがナイフで襲われそうだったのを、逆に奪って、犯人に投げつけたんです……」
世良は、さゆりの言葉を黙って聞いていた。
「あの女の子は?」
「いま、うちの婦警が話を聞いています。あ、来ましたね」
現在の年齢は、十一歳。普通の少女なら話はできるだろうが、あの子では、はたして……。
世良は、少女の将来をはかなんだ。父親は重症で、母親は精神的に病んでいる。しかし、帰るべき家はあるのだ。できれば、これからの人生を幸せにすごしていってもらいたい。
「しずくちゃん!?」
そのとき、明るい声がした。利根麻衣の声だった。
* * *
麻衣が呼びかけると、少女は笑った。
「しずくちゃん!」
「……おね……」
* * *
世良は、奇跡を見た……いや、耳にした。
「……おねちゃん……」
「また、あそぼっか」
「おねえちゃん!」
それまで感情が欠落したようだった少女に、歓喜の声がほとばしった。
「元気だった?」
「うん」
世良は、これまでの努力が報われたような気持ちになった。
人形のようだった水谷雫に、魂がやどったのだ。
つらい境遇が消えるわけではない。
だが、希望だけは……。
* * *
しばらく建物には入れなかったのだが、茨城の別荘で会った桐野という刑事が入れてくれた。世良たちのいる五階へ行くと、なつかしい姿があった。あのころよりも少し成長していたが、おばあちゃんの山で遊んだ、あの子だった。
麻衣が抱きしめると、しずくちゃんは笑顔で喜んでくれた。
世良が、とても微笑ましくそれを見ていた。彼の眼には……心には映っているのだと思った。
そんな世良に、問いかけられた。
「これからきみは、捜査に協力しなければならないかもしれない。きみは、ヤツの顔をハッキリ見ているね?」
「いえ……見ていません」
麻衣は、嘘をついた。
「見ないようにしていましたから」
「本当に?」
なぜだろう。これほど心の痛まない嘘は、はじめてだった。
世良の口許は、ほころんでいた。
きっと、見抜かれている。
「そうか。見ていないんじゃ、協力できない。ですね、長山さん」
「ま、まあ……そうですかね。私が担当することはないと思いますので、なんとも言えませんが……」
ふられた長山刑事も困ってしまったようだ。
「あの……」
今度は、麻衣が質問する番だった。
「ユウさんは……あの人は、どうなったんですか?」
逮捕されたような雰囲気ではない。それに、捜査に協力、というからには、そうなっていないのだろう。
世良が、一方を指さした。
「え?」
そちらを向いた麻衣は、壁に傷が入っているのを眼に留めた。なにか小さなものが、めり込んだような……すぐに、弾痕だと気がついた。
世良が、ユウを撃った……。
「怪我したんですか!?」
世良は、首を横に振った。
「はずれたよ。この眼では、当たるわけがない」
では、ユウは……うまく逃げられたのだ。
「世良さん」
長山刑事が、なにかを言いたそうだった。
「なんですか?」
「……本当は、わざとはずしたんじゃないですか?」
世良は、さらに笑った。
彼も嘘をついている。麻衣は、そう感じた。
思わず嘘をついた者同士で、笑いあっていた。
54.?曜日
おれは、生き方を変えられない。
明日も、血なまぐさい世界を歩いているだろう。
とある標的を、とある方法で──。
エピローグ
ホテルの部屋で、男女が忍んで会っていた。
これから情事がはじまるわけではない。表の顔から、裏の顔へ。
「ご苦労だった」
男は言った。女やその周辺の関係者には、坂本と名乗っている。
女は、坂本のねぎらいの言葉にも無言だった。
「不快な任務だと言いたそうだな」
女の名は、人見さゆりという。
彼女の両親──戸籍上ではなく、本物の両親は、かつて赤軍派に属し、その後、国際テロリストとなった犯罪者だった。ハイジャックで国外に渡り、空港銃撃や爆弾テロをくわだてたことで知られている。現在でも、世界のどこかに潜伏しているだろう。
彼女は幼少期を、凶悪犯の娘としてすごした。不遇な人生を送り続けるはずだった彼女に、公安は手をさしのべた。
戸籍を操作するかわりに、彼女を《S》にしたてたのだ。
戦闘訓練もほどこし、工作活動にも従事できる優秀な人材となった。最初の任務は、とある左翼組織の監視だ。正規の人員も潜入させていたが、他国の意向で動いている裏切り者がいたために、万全をきすことになったのだ。リーダーの山本義彦の女として、入り込ませた。
だが山本は、裏切り者の雇った殺し屋に暗殺され、彼女はその現場に居合わせた。殺し屋の姿を見た彼女も、殺されるはずだった。しかし彼女は、なぜだか殺し屋に見逃された。
「だが、抜けることは許されない。これからも、あの男の監視を続けるのだ」
彼女のいまの任務は、ある人間の監視だった。
山本を暗殺した殺し屋を追って、両眼を潰された男。正規の潜入をおこなっていた世良王海という人間の監視だ。
彼女と世良──どちらも殺し屋に関わり合った者同士。
世良の恋人となるよう接近させた。
「まさか、本当に愛している、なんて言い出さないだろうな? 君に幸せな人生など待ってはいないのだ」
「わたしは、幸せです」
彼女は言った。強がりなのはわかっていた。
「愛しています……あの人のことを」
「それは、偽りの愛だ。彼が知ったら、どう思うだろうなぁ? 任務のために近づいてきた女だと知ったら」
卑劣なことは、百も承知だった。だが、それが公安の常套手段なのだ。
女の逃げ道を塞ぎ、一生を、われわれのために捧げてもらう──坂本は、そう目論んでいた。
「ははは……」
彼女が笑った。本来なら、そこは坂本が笑うシーンのはずだ。
絶望のあまりにもらした笑いともとれたが、坂本にはそう聞こえなかった。
彼女は、愉快そうに笑っていたのだ。
「なにが可笑しい?」
苛烈な任務で精神をやられたのかと思った。正規の公安部員でも多い症状だ。
「あなたは、あの人を……世良さんを、自分がコントロールしていると考えているでしょう?」
彼女は、あたりまえのことを口にした。
「あの男も、今回はよくやってくれた。まさしく、私の思惑どおりにね。あの殺し屋ともども」
かつて同胞だった裏切り者を倒し、この国にとって害になりはじめていた権力者親子を失墜させたのだ。せめて功労賞ぐらいはあげてもいいだろう。
「それがまちがっています」
「なにが言いたい?」
「コントロールされているのは、あなたのほうです」
「なんだと?」
「あの人も、わたしのことを愛しています」
「だから、それは偽りの愛だ。真実を知ったら、あの男は君に失望するだろう」
また、彼女が笑った。
「あの人が、気づいていないと思ってますか?」
「なに!?」
「あの人の眼に……心に、見通せないものはありません。あの人は、わたしのすべてを見通したうえで、それでも愛してくれるのです」
坂本は、衝撃に包まれた。
「ま、まさか……」
彼女の笑顔に、敗北感を植えつけられた。
あの男……おもしろいじゃないか!
坂本は戦慄とともに、興奮を味わった。
世良王海という男に、ますます興味を惹かれた瞬間だった。




