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52.月曜日午後7時
ホールの中央付近で、《店員》は待ち構えていた。一人ではなかった。少女がいる。歳のころ、十歳前後。無表情に前方を見据え、《店員》と手をつないでいる。無理やりではなかった。少女には、そもそも意思など存在していないかのようだ。人形という表現が、ぴったりだった。
十中八九、この少女が世良たちのさがしている行方不明の少女なのだろう。
「状況は?」
世良が、そう訊いた。
「やつがいる。少女もいっしょだ」
それを耳にすると、世良は一歩前に出た。
「水谷雫ちゃん!?」
少女に呼びかけるが、反応はない。
「ムダだよ。この子に自我はない。そういうふうに育てられてはいないのだ」
《店員》が口を開いた。
「やっぱり、さっき会った男だな」
世良の耳は、やつの声をすでにとらえていたようだ。
「茨城の山中でも会っているのだよ」
「あの狙撃は、おまえか」
「そういうことだ」
おれにはわからないやりとりだった。
「浅田光二は、警視庁の人間に拘束された。おまえの要求どおりに止めたんだ。その子を放せ」
「ご苦労さま。さすがは、私の相棒が唯一恐れる男だ」
「だれが相棒だ」
おれは言い放った。それに、世良のことを恐れているわけではない。そのことは言葉にしなかったが。
「だが、まだだよ」
「なにがまだなんだ?」
「もう一人、説得する人間が残っている」
《店員》が、こちらを見た。つまり……。
「おれということか?」
「そうだ、世良王海。あなたには、この男も説得してもらいたい。私を殺さず、すべてを丸くおさめるようにと」
都合のよすぎる言動に、おれはムカついた。だが言い返したのは世良のほうだった。
「殺させはしない……だが、おまえにも報いはうけてもらう」
「報い? まさか、警察が私をどうにかできるなんて思ってないだろうね?」
自信たっぷりに、《店員》は言った。この男の罪は、裁けない。殺人教唆、誘拐──もし一般の犯罪者であっても、証明することはできないだろう。
「すでに察しているかもしれないが、ここに警察は踏み込んでこない」
外にいるのは、《おおやけ》ということだ。
「おまえは、まだ所属しているのか?」
「まさか」
世良の問いに、《店員》は仰々しく答えた。
「古巣なのは否定しないが、もう関係は切れている。世良王海、君と立場は同じだよ」
「ではなぜ、公安が動く?」
「それは直接、彼らに聞いてくれ。関係は切れているとはいえ、知人ならいるだろう?」
世良は否定しなかった。まだ《おおやけ》とのパイプは残っているようだ。
「では、おまえはいま、どの勢力についている?」
「バランスだよ」
唐突に、その言葉が響いた。
「世界はバランスによって成り立っている。力の均衡が崩れたとき、世界は終わる」
「なんの話をしている?」
「理だよ。カンパニーは、バランスをたもつために今回のことを望んだ。だから、私の存在は許されているのだ」
カンパニーという表現に、おれは不審なものを感じた。
公安=カンパニーではないだろう。
公安とは切れていると自ら語ったばかりだし、公安をそのように呼ぶことはない。ハム、もしくはおれのように《おおやけ》……。
カンパニーと呼ばれる有名組織をおれは思い浮かべた。世良も、同様だったらしい。
「……CIAか?」
「単なるビジネスパートナーだ。べつに所属してるわけじゃない」
ふくみをもたせるように、《店員》は笑みをみせた。世良にはわからないだろうが、余裕にあふれ、この場をコントロールできると確信している表情だった。
「所属しているのは、そうだな……NSAとでもしておうか」
言葉どおりに受け止めるわけにはいかない。おそらく、その下請け。もしくは、さらに派生した組織。
それにはかまわず、世良が話を進めた。
「アメリカの意向で動いているということか?」
「世良王海、君になら少しは理解できるだろう? 私のときは、もっと酷い時代だった。安保闘争もとっくに終わり、東西冷戦もゴルバチョフの登場で雪解けムードがあふれていた。そんなときに配属されたんだよ。まだオウム事件もなかった。まあ、カルトの監視は同じ『公安』でも、調査庁が本流だがね。いまの現役は幸せだ。テロとの戦争という大義名分があるのだから」
《店員》の年齢など考えたこともなかったが、四十代後半から五十代半ばほどだ。警察官になったのは、一九八〇年代中盤のようだ。ペレストロイカは、ゴルバチョフが書記長になった一九八五年ごろからはじまっている。オウム事件の発覚は、九五年。テロが世界の脅威と決定づけられた9.11は、二〇〇一年。
過激派の摘発から、東西冷戦の防諜機能としての存在。そして、カルト教団の監視へ──。
時代はうつろい、いまは対テロリスト主導にシフトしている。世良の頭でも、そのことがめぐっているはずだ。いや、そこに属していたのだから、そんなことはいまさらおさらいすることでもないのかもしれない。
世良が現役のころは、すでに9.11は起こっていた。が、日本においては、まだそれほどテロは身近なものになってはいなかったはずだ。カルトのほうは一段落がつき、ある意味《店員》と同じような谷間を経験しているのかもしれない。
「君は、信じるか? 公安部に所属していた人間の大半が、リクルートされていたなんてことを」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。ロシアに……いや、当時はまだソビエトだったな。KGBにスカウトされた者もいた。東ドイツ、ルーマニア、ポーランドに寝返ったやつも知っているよ。それにくらべれば、私は正義にのっとっていた。同盟国なんだからね」
世良は言葉をなくし、《店員》の声に耳を傾けていた。元同僚として、どのような心境がわきあがっているのか……。
「私の任務は、いたって簡単だったよ。それこそバランスだよ。この国のバランスをとることだった。右に行き過ぎるのでもなく、左にも行かせない。そういう舵取りだよ」
「それは、政治家の仕事だ」
ようやく、世良は反論した。
「そうだよ。だから浅田光次郎が出てくるのだ。私は、この国のフィクサーになるための段取りをつけ、そしてあの男は君臨することができた。バカ息子のほうは警察庁に入庁し、公安畑を歩もうとしていた。もうわかるだろ。バランスだよ、バランス」
そのときから《店員》はコウモリとなり、二人の親子を天秤にかけていた。
「それもこれも、任務のためだ」
「その子が可哀相だとは思わないのか?」
「気の毒だとは思うよ。だが、つきものだろう? 何事にも、割りを食う人間はいるものだよ」
その言い種に、おれは怒りを抱いた。悪の側にいる人間ですらそうなのだから、世良の怒りは想像だにできない。もしかしたら、おれへの復讐心よりも、それは勝るのではないか。
「これから、おまえはなにをするつもりだ!? 浅田親子は、もう終わりだ」
世良の言うとおりだった。
父親は、おそらく助からない。もしかしたら、すでに息絶えているかもしれない。息子のほうも、警察に逮捕はされなくとも、はたして権力者として返り咲くことができるのか……。
「そこは、心配にはおよばない。このあとのシナリオは決めてあるさ」
「人工衛星というやつか?」
世良の言ったことに、おれもうなずいた。世良たちも、その真相に行き着いていたのだ。浅田光二が推し進めていた計画を、なにかに利用するつもりなのだろう。
「技術をアメリカに売りつけるつもりか?」
その取引相手が、CIAということなのか?
「それはない。軍事衛星など、あの国はいくらでも飛ばせるし、すでに高性能なものをいくつも所有している」
では、なにを?
「バランスと言っているだろう? 世界のバランスをとるんだよ。『北』に、この技術を売る」
とても、荒唐無稽な内容だと感じた。
「北の衛星は、テクノロジーと呼べるものではない。他国のものをコントロールできる機能など必要としていないだろうが、喜んで金を出すだろう。北の暴走をカンパニーは望んでいるのだ。本来ならイラクの次は、イランだった。すでに攻め込んでいるはずだったのだが、状況がいろいろ変わり、イランとの戦争はなくなった。原油の魅力も薄れているし、それはそれで悪いことばかりではない」
まるで戦争が良いことのように、《店員》は言った。
「大統領が代わり、また戦争の需要が出てきたのだよ。求心力を得るのに最も効果があるのは、軍事侵攻だからね。あの国の歴史を見ても、それはわかるだろう?」
「だから北なのか?」
「アジアの紛争など、微細な小事だ。あの大国にとっては、政権の正当化と軍需産業をうるおわせるための材料にすぎない」
それは《店員》だけの考えなのか、それこそ合衆国政府の思惑なのか……。
「この私を殺すということは、大国に盾突くということだ。おまえにだって、どういうことなのかわかるだろう?」
《店員》は、おれに言葉を投げかけた。そんな脅し文句が通用しないことぐらい、長年のつきあいでわかるだろうに。
「その顔じゃ、わかってくれないようだな」
「あたりまえだ」
「だからこそ、世良王海……君が説得をせねばならんのだ」
今度は、世良に向かって発言する。これが、この男のテなのだ。まさしく、おれと世良を天秤にかけている。
「世良、まどわされるな! やつの声を聞くな」
「いいや、聞いてくれ」
「こいつの声は、セイレーンの歌だ」
「ふふ、詩的な表現だな」
これ以上の言い合いは危険だと判断した。おれは、浅田光二から奪った銃をかまえた。あらためて握ってみて、それがPSSだと認識した。銃器にはそれほど詳しくないおれでも、話には聞いたことがあった。幅広のグリップはまちがいない。ソ連製の消音拳銃だ。サイレンサーを装着せずに、発射音をおさえることができる。
「この銃は、おまえが浅田光二に渡したのか?」
「そういえば、そうだったかな」
曖昧に《店員》は答えた。
「アメリカについたっていうのに、年季もののソ連製とは、なにかのシャレか?」
「いつだったか、護身用に銃が欲しいというから、くれてやったものだ」
おれはその様子で、あることを想像した。
この男は、浅田光二が父親を撃つことを願っていたのではないか……と。いや、そう仕向けたのだ。ならば、おれがこうしてここで命を狙うことも、この男は想定していたにちがいない。だから、こうまで冷静でいられるのだ。
おれは、一刻の猶予もないことを悟った。
撃てるときに撃たなければ、こっちがやられる。
とある時機に、とある方法で──。
「待て!」
引き金に力をこめようとしたときに、世良が声で邪魔をした。おれの殺気を感じ取ったのだ。
「止めるな。この世には、早いうちに消しておかなければならない命もあるんだ。まさか、人の命は地球よりも重い、なんておとぎ話を信じてるわけじゃないだろう?」
世良からの返事はなかった。ただ、すさまじい気迫で銃口を向けていた。おれのとはちがって、いまでも現役の拳銃だ。シグ・ザウエルのP230。これを世良が《おおやけ》から奪ったのなら、三二口径バージョンのはずだ。
「まだ、警官のつもりなのか?」
「……」
「といっても、おまえは正義の使徒じゃない。あの男のように、《おおやけ》だったんだぞ」
それだけ言っても、世良の心には届かなかった。
「おれのまえで殺しはやらせない……この眼にかけてな」
あくまでも、引いてはくれないようだ。
「はははっ! それでこそ、陰と陽の邂逅だ。私は、この光景を知っていたよ。こうなることを計算していた」
勝ち誇ったように、《店員》が哄笑を響かせた。
この男の余裕の源は、世良の存在なのだ。世良がいれば、たとえおれから命を狙われたとて、必ず殺されないとわかっていたのだ。
おれは、銃をおろした。
「この男を殺さないとして……どうするつもりだ?」
「まずは、その子をこっちに渡してもらおうか」
世良が《店員》へ向け、要求を放った。おれが、かまえを解いたことは、気配と声で察したようだ。銃口は、おれから《店員》に移っていた。
「いいだろう」
《店員》が、少女の手を解放した。
しかし、少女は動かない。ただそこに立っていた。
「水谷雫ちゃんだね? こっちに来るんだ」
世良の言葉にも反応しない。やはり感情が欠落しているのだ。
「その子になにをした!?」
異常な様子を、見えないながらも感じ取ったのだろう。
「私はなにもしていない。この子供は、あらゆる感情を押しとどめるように教育されている。育ての親の命令がなければ、どんな行動もとらない。ただの人形だよ」
育ての親とは、別荘にいた老夫婦にほかならないだろう。
「あの二人は、自害したか?」
気になっていたので、おれは訊いた。
「ああ」
無念そうな世良の返事だった。この男でも止められなかったようだ。ならば二人が死んだいまとなっては、あの子は人間にすらなれないのだろうか。いや、たとえ老夫婦が生きていたとしても、そんなものは「人」と呼べない。
「世良……おまえは、あの子をこんなふうにした人間たちを許せるのか!? いまから浅田光二も始末してやろうか?」
世良は答えなかった。
「私は、手を離したぞ。どうする? 君たちのどちらかが、ここまで引き取りにくるか?」
試すように《店員》は言った。やつまでの距離は、5メートルほど。おれが行っても、世良が行っても、少女を確保した瞬間に、やつは攻撃を加えてくるはずだ。少女がいっしょでは、あきらかに不利となる。その場合、おたがいの協力が必要だ。だが、おれが行ったとしたら、眼の見えない世良に援護は期待できない。
「世良、わかってるだろ? おまえが行け」
世良が、慎重に前進した。
おれは、狙いを《店員》に合わせた。気休めにしかならないことは、世良も理解しているはずだ。至近距離では、銃器よりもナイフのほうが速い。やつは凶器をあらわにしていないが、確実に接近武器を仕込んでいる。それに世良の見立てが正しければ、ここでの発砲に使われた拳銃も所持しているはずだ。
「止まれ。そこにいる」
世良が、《店員》と少女にたどりついた。おれは、それを声で知らせた。
「さあ、おいで」
世良は手で少女をさがしあてると、少女の腕を取った。
おれは、《店員》のこれからの行動を予測した。
いま世良を襲ったとしたら、おれからの反撃をうけるだけだ。むしろ、世良は殺したくないと考える。やつが消したいのは、このおれのほうだ。
そのとき、やつが世良と少女の陰に隠れて、死角に入った。
射線がさえぎられた。そこで悟った。
おれと世良の二人を消すつもりだ!
「伏せろ、世良!」
おれは叫んだ。
世良も《店員》の思惑に勘づいていた。
世良は少女をかばうように伏せた。
再び射線が得られた。《店員》が、いままさに銀色の刃を振り抜くところだった。
おれは引き金を絞ろうとした。
「世良さんっ!」
その声が、場の時間を制止させていた。《店員》すら虚をつかれたように、動きを止めた。
女だ。
あの女が、慌てたように駆け寄ってきた。
「来るな、さゆり!」
世良の忠告も聞かずに、女が世良のもとまでやって来る。
「大丈夫ですか、世良さん!」
女におびえた様子はなかった。なんと不可思議な光景なのだ。
《店員》も困惑に、なにもできずにいた。次の動作を決めかねているのだ。このまま世良を切り裂くか、それともおれに向かって凶器を投げつけるか。
「世良さん、その子はわたしが!」
いけない……おれは悪寒が走るのを自覚した。
その女に少女を渡してはいけない!
だが、女は少女の手を取ってしまった……。
おれは、最悪の事態を予測した。
「動くな!」
おれは《店員》ではなく、女に告げた。
「おまえは、おれの顔を知ってるな!?」
「だめだ、この男を見るな、さゆり!」
女が、おれのほうを向いた。
次の刹那、《店員》が刃物の切っ先を世良に突き出した。世良の意識が完全に女とおれに集中するのを見計らっていたのだ。
おれは、女から照準をはずすことができなかった。
世良の援護はできない。
動いたのは、女のほうだった。《店員》へ大きく踏み込むと、女は《店員》の凶器を手にする右腕を受け流すようにつかまえた。
無造作な動きだったはずなのに、《店員》の手から凶器がなくなっていた。
自らの敗北を悟った《店員》は、女から距離をとった。
おれたちの殺害をあきらめて、逃走をはかるつもりだ。
おれは、《店員》の背中に銃口を向けた。
おれの射撃よりも速く、女がナイフを放っていた。
そうなのだ。至近距離では、ナイフのほうが攻撃は速い。
《店員》の背中に突き刺さっていた。
「ううッ……」
やつは、呻きながら膝をついた。
急所は、はずれている。この一撃で死ぬことはないだろう。
おれにはわかった。女が、わざとはずしたということが。
おれは銃を向けたまま、《店員》に近づいた。
「観念しろ。動かなければ、世良の望みどおり殺さないでやる。だが少しでも動いたら、撃つ」
《店員》に反撃の素振りはなかった。いや、そんな余裕などない。無駄に動けば、出血多量で死ぬこともありうる。
おれは、世良と女を確認した。
女は、一度は放した少女の手を、再び握っていた。世良は、なにがおこったのか理解できていないように、耳を澄ましている。
「なにがあった!? さゆりは無事か!? 雫ちゃんは!?」
「無事だ。《店員》も確保した」
おれは世良にそう答えると、女の瞳をみつめた。
世良に察知されないように、銃を向けた。
声には出さず、口だけを動かした。
(おまえは、何者だ)
女も、おれに合わせて、唇の動きだけで応答した。
(こいびと──)
おれは、この女をどうするか迷っていた。
あのとき見逃したのは、まちがいだったのか?
ここで、殺しておくか?
「おい? どうした!?」
世良の声で、おれは銃をおろした。だが、女が少女になにかしようとしたら、その瞬間に殺すつもりだ。
(おまえは、悪人か?)
女は、首を横に振った。
「おい!? さゆり!? なにかあったのか!?」
「わたしは、大丈夫よ」
「女の子は?」
「無事よ」
「ヤツは?」
「あの人は……」
おれは姿を消そうとしていた。気配を殺し、非常階段へ向かう。
「待て!」
世良の鋭い声が飛んだ。
さすがはバケモノだ。おれの逃げる方向を的確にとらえていた。
おれは、立ち止まった。
「おまえのために、弾丸は残してある」
世良の言葉に応えるように、おれも銃を向けた。
「おれの戦いは終わった。もう過去を振り返ることはない」
なんで、こんなことを口にしたのだろう。
「おまえがおれを撃つつもりなら、それもでもいい」
おれは、銃を捨てた。
世良の耳なら、それがわかったはずだ。
〈バンッ!〉




