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46.月曜日午前10時
浅田光二が党の若手を集めて勉強会をひらくことはわかっていた。朝のニュースで報じられていたからだ。別段、重要な項目とも思えなかったが、ほかに大きなニュースがなかったのだろう。それが幸いして、浅田光二の居場所を労せずして知ることができた。
場所は、帝和ホテルだった。奇しくも、利根麻衣を連れ出したホテルとは目と鼻の先だ。警戒はされていようが、おれにとっては苦ではない。簡単に近づけたし、侵入もたやすかった。
ただ一つ、注意していたのは《かかし》の存在だった。あの男を雇ったのが、浅田光二である可能性は高い。だが、《かかし》の姿も気配もないようだった。
ホテルの広間にはテーブルが並べられ、一つに四人が着席していた。総勢八十人はいるだろうか。上座には壇がしつらえてあり、そこで浅田光二がマイクを通して若手に論じていた。
話の内容など、どうでもよかった。おれは壁に寄りかかり、じっと浅田を睨んでいた。浅田の言葉が終わると、浅田自身もテーブルの席につき、べつのだれかがもっともらしいことを語っていく。その繰り返しだった。くだらない。そう感じた。
会は思いのほか長く、午後一時三十分まで続いた。政治家たちはその間、食事をとることもなく、話を聞き、もしくは壇に上がってなにかしらの話をした。
ようやく会が終わり、みなが広間を出ていった。浅田も次の予定をこなすため、秘書と今後のスケジュールを確認していた。どうやら、経団連の会長と面談するようだ。秘書は車をまわすため、浅田から離れた。浅田は、ホテルのトイレに入った。警護の人間などはいない。由緒正しいホテルだと安心しているのか、それとも普段からそういう人間がつかないのか。大臣でもない一政治家にすぎないのだから、それは不自然なことではないかもしれない。
だがおれは、一段、深読みをしていた。
用をたしているあいだ、ずっと視線を向けてみた。
「だれだ?」
浅田光二は、言った。どこにいるかはわからないようだが、気配だけは感じたようだ。
「だれかいるのか?」
おれは、気配を消し去った。
「……気のせいか」
浅田の警戒心は、しかしおさまっていなかった。
不審な顔で、周囲を見回している。しかし彼の眼には、清掃の行き届いたホテルのトイレでしかなく、ほかにだれも存在しない。
浅田は、個室の一つ一つを覗き込むように調べてみるが、だれの姿も確認できなかった。
「本当に気のせいか……」
浅田は、出口に向かった。おれは、声をかけてみた。
「人工衛星」
ハッと、浅田は振り向いた。
「おまえは……」
おれは、姿を現した。天井の角にはりついていたのだが、擬態をとかなければ、たとえ浅田が上を向いたとしても、人としては映らなかった。
ただし、顔は見せていない。
「おれのことは、知ってるな?」
「……」
「設計図は受け取った」
「なんのことだ?」
「あれは、あんたが仕掛けたんだろう」
「だから、なんのことだ!?」
「茨城の別荘だ」
「……茨城の別荘? そんなところに別荘などない」
「浅田家の別荘があるはずだ」
浅田は、一瞬考え込んだ。
「……そうか、学生のころ、そんなことを《執事》が言ってたな。なるほど。そういうことか……」
《執事》が、別荘を管理していた老夫婦の男だと考えた。むかしはそういう役回りだったのだろう。
「説明してもらおうか?」
「私は、その別荘には行ったことがない。親父のものだ。仕掛けたのは、親父だ」
「なにを仕掛けたというのだ?」
「……そうか、あの娘はそこにいたのか」
「娘? 誘拐した?」
「いまさら、おまえを相手にとぼけるつもりはない。少女を誘拐するよう命令したのは、私だ」
「少女の名前は、なんという?」
「なんだったかな……そういえば、雫といったか……水谷雫だ」
「なんのために誘拐した?」
「希代の殺し屋には、関係のないことだろう?」
「では、関係のあることを答えてもらう。あのときおれが殺したのは、だれだ?」
「それこそ、《人工衛星》だよ」
「どういう意味だ?」
「おまえが手に入れたという設計図を書いた張本人だ」
「あんたの命令だったんだな?」
「そうだ。私の命令だ。私が、おまえに殺害を依頼した」
「名前は?」
「名前など知らん。人工衛星の設計者だとしか」
「あれは、なんだ?」
「私が言うと思うのか?」
「言わなければ、ここで死ぬまでだ」
「どうせ、殺すつもりだろう?」
「それは、あんたしだいだ」
「言わん。だが、考えてみろ。ここで私を殺せば、おまえの知りたい疑問は、永遠に闇のなかだ」
さすがは、《おおやけ》をあやつるだけはある。気配を察知したことといい、やはりただの政治家ではない。この状況で、駆け引きを挑んできた。
「先生?」
そのとき、トイレの外から声がかかった。浅田が、ほっとしたように入り口のほうを向いた。再び、おれに振り返ったとき──。
「いない……」
殺すことは、いつでもできる。おれは、設計図からひもとくことを考えた。
ネットカフェに入り、人工衛星で検索してみた。三十分ほど調べてみて、ある人物の名を覚えた。
安永和雄教授。東工技術大学。
午後三時になり、大学の構内はまぶしい西日のなかにあった。お茶の水。都心とは思えないほど緑豊かで、広大な面積の学校だった──。
* * *
安永教授は、講義からもどったところだった。
今年で七十歳になるが、まだまだ老いというものを実感したことはない。いや、身体的な老いなら、人並みだろう。夜中、何度もトイレに起きるし、膝が時折悲鳴をあげる。しかし、こと頭のなかに限定すると、若かったころよりも冴えている感覚があるのだ。
「はて……」
そんな教授にも、認知症の兆候があらわれたのかもしれない。教授室の机上に、見慣れぬ設計図が広げられていた。そんなものは知らない。それとも、自分で出したものを記憶していないのだろうか……。ボケてしまったかもしれない。
これはなにかと、となりの部屋にいる助手や研究員たちに訊こうと、ドアノブに手をかけた。
〈教授、その設計図を見てもらいたい〉
突然、どこからともなく声がした。
「な、なんだ!?」
〈見てもらいたい〉
「き、君はだれだ!? どこにいる!?」
〈見てほしい。そういうことはしたくないが……いつでも、あなたを殺すことができる〉
冗談にきまってる。助手たちがイタズラしているのだ。教授はそう考えた。ならば、その冗談につきあってやるのも一興だろう。
「これを見ればいいのだな」
〈なにがわかる?〉
「これをどこで?」
〈詮索はなしだ〉
「君、これは中国の『烽火1号』だぞ」
〈その説明をしてもらいたい〉
「内部の細かな構造までは無論、承知していない。だが、この外観はまちがいないだろう。中国の軍事衛星だよ。AとBの二機があり、Aが二〇〇〇年に、Bが二〇〇六年に打ち上げられている」
〈性能は?〉
「アメリカの軍事衛星とくらべれば、月とスッポン、ゾウとアリだよ」
どちらがゾウでアリなのかは、語るまでもないだろう。
〈日本の技術者が関係しているのか?〉
「そんなわけないだろう。民間衛星ならいざ知らず……」
〈どうした?〉
教授は、なにかを思い出しかけた。頭脳に老いはないと自負していたのに、やっぱり衰えはあるものだ。思い出すまでに、一分ほどかかった。
「こんな噂を聞いたことがある。中国の軍事衛星を日本が動かしている……と」
〈日本製ということか?〉
「わからない。だが、そういうことではないような気がする」
〈どこからの噂だ?〉
「どこだったかな……そうだ、私はだれかからその話を耳にした。十年ほど……いや、もっと最近だったかな。たしかあれは、経済産業省の官僚だった。たぶんその官僚は、防衛省のだれかから話を聞いたようだった」
〈軍事衛星を動かすとは、どういう意味だと?〉
「日本がコントロールしているのかもしれんな」
教授は、壮大な絵空事を言い聞かせるように答えた。
〈ありがとう。あなたはいま、夢を見ていた〉
声がそう言うと、教授はわれに返ったような感覚をおぼえた。
「おい?」
もうだれの声もしなかった。扉を開けて、助手たちに確かめた。
「君たちの仕業か!?」
みな、なんのことですか──そういう顔をしていた。
「とぼけなくてもいい。おもしろい余興だったよ。褒めてやろう」
それでも、助手たちはポカンとしている。
「まだとぼけるのか? 私の机の上に、設計図を置いただろう?」
教授は、部屋へもどって確認した。
机の上には、しかしなにもなかった。
どういうことだ? 夢……本当に夢を見ていたのだろうか!?
「ついにきたのか……」
教授は、頭の老いを実感せずにはいられなかった。




