45
45.20日午前0時
足立区綾瀬にある水谷健三の家についたころには、深夜をまわっていた。
「本当にたずねるんですか?」
長山が、戸惑ったような声で問いかけた。
「はい。少女の命がかかっています」
強い意志を込めて、世良は答えた。
車を降りて、長山のあとに続く。峰岸と麻衣には車中で待機してもらうことにした。
インターフォンを長山が押した。家のなかから、かすかにだがその音がする。が、応答するような気配はない。
「寝ていますよ、時間が時間ですから」
世良は、門を開けて扉に近づいた。段差があったが、一度来ているから、つまずくということもない。
ドン、ドン──と、わざと大きな音をたてるように扉を叩いた。
「せ、世良さん!」
長山の驚きも、意に介さなかった。
「水谷さん! 水谷さん!」
それでも起きてこない。
違和感がわきあがった。
ノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
「踏み込みます」
「世良さん!」
戸惑う長山を置いて、世良は扉を開けた。
記憶を頼りに、リビングへ向かった。失礼だとは思ったが、靴は脱がなかった。不測の事態を予想していた。
人の気配を感じた。
わずかばかりの血臭も。
「水谷さん、いますか!?」
部屋が暗いのか、灯がついているのかわからない。こちらの存在を知らせるために、大きめに声を放った。
荒い息づかいがする。そしてもう一つ……とても穏やかな呼吸音も。
状況がつかめなかった。
「世良さん! これはどういう……!?」
あとから来た長山の声も、疑問に満ちていた。どうやら電気はついていたらしい。
「水谷健三さんが椅子に縛られてます! かなり傷を追ってます」
そう説明してから、
「水谷さん、水谷さん! わかりますか!?」
身体を揺さぶるような擦過音がした。
呼吸があることはわかっている。死んではいない。リビングにはソファしかなかったはずだから、椅子はダイニングから持ってきたものだろう。縛られているということは、拷問されたのだ。
つまり、なにかの秘密を知っていて、それをしゃべらされた。
「意識があります!」
長山に反応をみせたようだ。
「もう一人は?」
「奥さんがいます」
「どんな様子ですか?」
「どんなって……」
表現に困ったように言葉を詰まらせた。
「しゃがんでます……普通に」
部屋のすみで、虚ろな眼をして座っているのだという。怪我もしていなければ、泣き叫んでもいない。感情が欠落しているようだ、と長山は教えてくれた。
もともと精神的に弱っていたことは、これまで二回の訪問であきらかだ。夫が拷問にあっていたあいだも、同じような様子だったのだろう。
「話はできそうですか?」
「どっちとですか?」
「ご主人のほうと」
「難しいですね……」
「長山さんは救急車の手配をお願いします」
手さぐりで、水谷健三が縛られている椅子をみつけた。長山は、携帯で119番にかけている最中だった。
「水谷健三さん、雫さんはちがいますね? 報道で流れている画像は、雫さんではない。私が聞いた映像の声も、ちがう」
「う、うう……」
うめき声だけがする。
それだけでも、かなりの痛手が予想できる。しかしそれでも、追求の手を緩めるわけにはいかなかった。
「奥さんがみせてくれたホームビデオの少女は、だれですか!?」
「あ、姉……三歳上でし、た……六歳のときに、死、だ」
途切れ途切れだが、三歳年上で六歳のときに死亡した姉、ということらしい。妻が精神的に弱った原因は、雫の誘拐だけではなかったのだ。
「だれにやられたんですか!?」
「や、やつ……ら……」
「なにをしゃべらされたんですか!?」
「し、しずく……は……」
「雫さんが、どこにいるのか知っていましたね!?」
「う、う」
うなずいたように感じたが、眼で確認できないので、さだかではない。
「雫さんを誘拐したのは、浅田光次郎ですか!?」
「う、ち……」
今度は、首を横に振ったような……。
ちがう──と言いたいようだ。
「雫さんは、浅田光次郎の別荘で生活していました。人里離れた山奥です」
「世良さん、これ以上は、もう」
手配を終えた長山に言われた。
「もう少し……」
世良は、水谷健三の身体を揺さぶった。
「雫さんは、別荘から何者かによって連れ去られました! なぜですか!?」
「や、やつが……」
「やつとはだれですか!?」
「う、うえす、ぎ……」
「広陣という会社と関係がありますね!? 堤のことも知っていた」
うなずいたようだ。
「し、しらなかった……うえす、利用……」
知らなかった、上杉に利用されていた──世良には、そう聞こえた。公安との関係はやはりなく、知らないうちに使われていただけなのだ。
「私は、あなたの声を知っていました。どこで聞いたものですか!? 山本義彦という名を知っていますか!?」
川崎と堤については質問していたが、山本の名は出していなかった。
「したこと、あ……る、で、んわ」
したことある、でんわ。
思い出した。リーダーの山本が電話していたときのことを──。
初めて山本に面会したときだ。部屋には最初、佐賀がいて、すれちがうように部屋を出ていった。そのすぐあとに電話がかかってきたのだ。ほかに雑音はなかったから、当時の世良でも、むこうの声がよく聞こえていた。
そのときは、込み入った話をしていない。世良がいたために、またあとでかけてください、と山本は電話を切ったのだ。
「どんな話をしたんですか!?」
「う、うう」
「水谷さん!?」
「ムリです。完全に意識を失いました……」
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。
「どうしますか、世良さん?」
救急隊員が現状を見たら、犯罪性の高いことがわかってしまう。いかに刑事の長山がいっしょでも、警察を呼んで事情を話すしかないだろう。
「浅田光次郎がなにかしらの事情を知っているのは、まちがいないでしょう」
「相手は、超大物ですよ」
「大物でも、関係ありません」
「……わかりました。救急隊員に説明したら、われわれはこの場を離れましょう」
「大丈夫ですか?」
「ここをどこだと思ってるんですか?」
そうだった。ここは足立区だ。
「本来の管轄ではありませんが、誘拐事件はうちに移管されています」
いまのこれが、それに関係しているのだとしたら、鹿浜署に通報してもおかしくはない。のちに正式な管轄である綾瀬署が出てくるのだとしても、しばしの時間稼ぎにはなる。
「刑事課の連中は、みんな息子のようなもんですよ」
「ですが、なぜここにいたのかと、問題視されませんか?」
「私は自由にやらせてもらってます。とくに上からも指示はありません」
「公安が口を出してきたら?」
「定年間際の私に、圧力はききません。署長も年下ですから、正直、私に頭の上がる人間はいませんよ」
長山は、軽やかに言った。
一分もしないうちに救急車が到着した。家の外に出て、状況を説明する。長山は、隊員の一人に身分証を提示したようだ。警察への通報は、自分がやっておくと伝えていた。
すぐに数台のPCがやって来た。白黒パトカーなのか、覆面なのか世良ではわからないが、到着した捜査員に長山が説明していく。
「行きましょう」
一通り伝えおわると、長山に言われた。
「長山さん、そちらの方は?」
捜査員にそう問われたのだが、長山がうまくあしらってくれた。
「われわれは、まだ捜査で行くところがある」
「こんな時間にですか!?」
「緊急を要するんだ」
「長山さんは、未解決事件をやってるんですよね?」
「そうだ。今回の被害者は、誘拐された少女の親だ」
長山がそう告げると、その捜査員が緊張に息を呑んだことがわかった。
峰岸と麻衣の待っている車に乗り込んだ。
「今夜は、いろいろなことがおこりますね」
「出してくれ」
発進してから数分後、
「で、次はどこに?」
ようやく、峰岸が目的地を訊いてきた。
横では、麻衣が寝息をたてはじめていた。
「こんな時間じゃ、どこに行くにも適していない。どこか休めるところはないかな?」
「わかりました」
おのおのの自宅はやめたほうがいい。長山と峰岸の自宅なら、まだなんとか安全であるかもしれないが、万全をきすなら、ちがうほうが懸命だ。
明確な目的地を得た運転は、エンジン音まで軽快になったようだ。三十分ほど走って到着した。
「ここは?」
「健康ランドですよ。二四時間やってます。仮眠室もあるので、うってつけでしょう?」
なるほど。
麻衣を起こして、入店した。規模の大きなところのようで、こんな時間でも客は多いようだ。銭湯とはちがい、このテの店は手ぶらで来ても大丈夫なところが大半だ。風呂で疲れをとったあと、四人そろって食事をとった。深夜でも食堂はやっていた。
「とりあえず、眠ろう」
仮眠できるフロアに移った。男女は別々なので麻衣とは別れることになるが、ここなら危険はないはずだ。
五時間ほど眠った。朝八時に健康ランドを出た。
「よく眠れましたか?」
運転席の峰岸が、だれにともなく問いかけた。だれも返事はしなかった。みな、まだ眠いというのが本音だ。
「本当に、浅田邸でいいんですか?」
「頼む」
浅田のお膝元は茨城県だが、それは選挙のための基盤であり、実際には東京在住だ。都内の一等地に邸宅をかまえ、浅田御殿と巷では呼ばれている。
まだ眠気はあるとはいえ、少し脳を休めたことで、昨夜よりは思考力がよみがえっていた。
さきほどから、ある考えが浮かんでいた。
あの別荘をつきとめたのだから、ヤツも浅田光次郎をマークしているだろう。だが、なにかがしっくりこない。
その理由までは、わからない。が、ヤツの──《U》の行動をひもとけば、その答えもじきに出るはずだ。
「ここでいいんですよね?」
それは、峰岸が長山に確認したものだ。
「ここです、御殿は」
「どんな様子ですか?」
「あいかわらず、大きな家ですよ」
長山が以前にここへ来たことがあるのかは知らないが、そうでなくともテレビ映像で眼にする機会は多い。
「あ、見たことあります、ここ」
若い麻衣でも覚えがあるようだ。
「さて、ここからです。普通にたずねても、門前払いされるだけでしょう」
長山の言うとおりだった。
一線から退いたとはいえ、大物政治家だった人間に、いかに長山の警察手帳を使ったとしても、おいそれと会うことは難しい。
そのとき、トントン、と車窓をノックする音が響いた。
それまだ無かった気配が、一気に開放されていた。だれなのか、すぐに予想することができた。
「どんな人物ですか?」
わかってはいたが、世良は訊いた。
「昨日の得体の知れない人です……」
答えたのは、峰岸だった。
「あ! 《かかし》さんだ」
麻衣の明るい声が、車内に響いた。《U》とは面識があるはずだから、行動をともにしていた彼女も知っていて当然だ。
叩かれたのは、助手席の窓だった。ウインドーが降りる音がして、外の喧騒も大きくなる。開けたのは長山だろうか、運転席からも操作はできるから、峰岸だろうか。
「どうも」
《かかし》のほうから声をかけてきた。
「なんのようですか?」
慎重に、長山が問いかける。
「わしの依頼主が、お会いになるそうです」
「依頼主?」
「そのために、ここへ来たのでしょう?」
見えなくとも、長山と峰岸が自分のほうを見ていることを世良は感じていた。
「浅田光次郎ですか?」
静かに言葉を投げた。
「会えばわかりますよ」
「あなたの役割は?」
「あの男の監視です」
それが《U》を指していることは、これまでの状況を考えればまちがいないだろう。
「ヤツは?」
「もう監視の必要はなくなりました」
「なぜ?」
「彼はすでに、答えにまで行き着きました」
「答え?」
「詳しいことは、なかでお話があるでしょう。さあ、浅田御殿に案内しますよ」




