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41.19日午後8時
車で山道を進んでいた。街灯もなく、道幅も狭いようだ。運転している桐野が、「怖い」と素直に感想をもらしていた。無論、見えない世良にとっては恐怖の対象ではない。
「大丈夫ですか?」
そうたずねた峰岸も、不安そうだ。峰岸は助手席に、長山と世良が後部座席にいた。
「大丈夫じゃなかったら、この斜面を真っ逆さまだ」
桐野が冗談で応じる。ふ、と長山が吹き出していた。
「道はあってるんですよね?」
「っていうか、この道しかないんだ」
目的地は、浅田家の別荘だった。
浅田光次郎というのが引っかかる。元総理大臣であり、現在でも政治権力に大きく影響のある人物だ。
《U》がこの周辺にいたということは、あながち無関係とも思えない。
利根麻衣の祖母の話によれば、普段は別荘を管理している老夫婦が常駐しているということだった。麻衣も幼いころから、よく遊びにいっていたそうだ。
「あれですか?」
峰岸が言った。
「電気がついてます」
いまのは、世良のために説明してくれたのだ。
停車した。
長山がさきに降りて、世良がそれに続いた。
遅れて、桐野も車外に出た。峰岸は車で待っているようだ。桐野が峰岸に、待機しているよう指示していた声が聞こえていた。警察関係者でない彼を、《U》がいるかもしれない闇に引っ張りこむわけにもいかない。
「大きな別荘だ。むこうには、別宅かな? あれが管理人の住んでいる家かもしれない」
峰岸のかわりに、桐野が情景を教えてくれる。
「電気がついているのは、大きな建物のほうだ」
長山を追い越して、桐野が先頭に立ったようだ。世良は、長山のあとを追った。
「玄関扉だ。チャイムを押すか?」
だれに問うでもなく、桐野は言った。
「声が聞こえる」
世良の耳には届いていた。なかの会話が聞こえた。
老人──歳は七十前後、もしくはもっと高齢の男性。太いが老いている声。まるで、焦げ茶に黒の斑が浮いているような色だ。
『この娘を殺されたくなければ──』
会話の相手は……。
ヤツだ!
「どうした、世良!?」
「《U》がいる。そして、ここの管理人と思われる老人だ」
「どういう状況だ?」
「わからないが、人質をとられているようだ……」
「どっちが!?」
おそらく桐野と長山にも、どちらが卑怯な真似をしているのかわかっているはずだ。
「どういうことですか!?」
「ここの管理人が、まともな人間じゃなかったってことでしょう」
長山の問いに、桐野が答えた。
「どうする!? いや、訊くまでもないか」
そうだ。人質にとられている可能性があるのは、一人しかいない。
ヤツだけなら助けることはない。犯罪者だからという理由だけではなかった。わざわざ手を貸す必要がないからだ。
「鍵は?」
桐野が、扉に手を触れたことがわかった。
「開いてる」
「行こう」
世良は、別荘のなかに入った。もちろんのこと、はじめての建物内は、まったく見取図が脳内には浮かばない。風もないから、一人だけでは歩行も困難だ。
先行する桐野の足音を頼りに前進した。長山も後ろからついてくる。
桐野が立ち止まった。
「この先にいる」
ごく小さな声で囁いた。
世良は、さきほど奪った拳銃を握りしめた。
ここでは正直、自分は戦力にならない。が、武器があるのとないのとでは、戦局にちがいがでるかもしれない。
桐野が、ゆっくりと歩を進める。世良も慎重についていった。同時に、耳を澄ます。
「もう一度言うぞ。この娘を助けてほしかったら、おまえが殺されるんだ」
距離は、だいぶ遠い。おそらく、桐野と長山には聞こえていない。そして、むこうにもこちらの足音や気配は届いていないはずだ。いや、なにもしていない状態であれば、察知されているかもしれない……だが緊迫している状況では、それに気づくことは、かなりの手練であっても不可能だろう。
「どうした? この娘を見殺しにするのか? それでもいいだだろう。いや、それでこそプロというものか」
いま《U》は、利根麻衣の命を天秤にかけている。
彼女を救うのか、見捨てて自らの命を守るのか……。
ヤツは、殺し屋だ。
麻衣を犠牲にして、自身を守ろうとするだろう。警察官のように、彼女を助けなければならない職業倫理などないし、むしろそういう観念とは対局に位置する存在だ。
だが……。
(迷っている)
世良は、そう思った。
《U》は、選択を決めかねている。
チャンスがあれば、麻衣を助けて、自らの命も守るつもりだ。
なぜだか世良には、その心のもちようが手に取るようにわかった。
ならば、そのチャンスをこちらがつくってやればいい──。
腕を伸ばして、桐野に触れた。桐野は立ち止まり、世良は桐野の前に出た。先導者がいないことは、行動にいちじるしく制限がかかる。しかし、いざというときに、桐野の存在が壁になってしまうかもしれない。
集中力を高めた。耳。足の裏。世良のもつ四感のうち、聴覚と触覚を研ぎ澄ませる。わずかな空気の揺れをも肌で感じ取るのだ。
一歩、一歩。
もうじき、こちらの気配を察知されるはずだ。
一歩、一歩。
「しかたあるまい。おまえに殺される気がないのなら、この娘を殺す」
「そんなことをしたら、おれはおまえたちを殺す」
「かまわんさ。わしらは、ここで死ぬつもりなのだ」
わしら──ということは、一人ではない。
もう一人いる。老夫婦が管理している、という話を思い出した。ということは、その妻も犯行に加わっているのだ。声の様子から、夫のほうが麻衣を人質にとり、婦人のほうが《U》を追い詰めていることになる。
夫のほうはどうかわからないが、婦人のほうは銃器などの飛び道具は所持していないようだ。もし持っていたら、とっくにそれで攻撃している。おそらく、刃物使い。
「おっと、どうやら今夜は、客人が多いようだ」
察知された。
だが、こちらの正体まではわからない。
それに対して《U》ならば、知っている。
「その子を殺すのだとしても、そんな猟銃ではやめてくれ」
ヤツが言った。
こちらに情報を知らせたのだ。
「せめて、この婆さんのナイフにしてくれ」
やはり、婦人のほうもいるのだ。想像どおり、刃物を使っているようだ。
「時間稼ぎか? あれは、おまえの仲間なのか?」
声の方向は、把握している。反響などから、彼らのいる部屋までは一直線。大きな障害物などはない。
老人と《U》のいる、おおよその位置もわかる。あとは、麻衣と老婆の位置だ。
会話の内容から、すでに猶予は残されていないだろう。
ヤツが、なにかの合図を送ってくる。
それを待って、反応するしかない。
あとは、部屋までのあいだに小さな障害物がないことを祈るだけだ。
「一つだけ教えてくれ」
ヤツが、そう言葉を投げた。
「なんだ?」
「あんたらは、悪人か?」
「なにを言っている?」
「あんたらは悪人なのか?」
「それを聞いてどうする? 悪人かどうかはしらんが、善人でないことはたしかだろう。任務のためなら、なんだってやる……やってきた」
「そうか。おれはな──」
世良は、足を早めた。
「悪人しか殺さない」
42.日曜日午後8時
悪人しか殺さない──。
合図は送った。あの男なら、必ずそれに応えてくれる。
おれは、老婆に迫った。
刃が突き出された。老いているとは思えない峻烈な一撃だ。
おれは、風と同化した。ゆらゆらと漂っているようで、けっしてとらえることはできない。刃物の一閃を、まさしく受け流した。
得物をつかんでいる腕を取り、相手の勢いを使って、そのまま背中で絞り上げる。老婆の手から刃物が落ちた。
老人は、麻衣を突き放して、猟銃をおれに向けた。それはわかっていた。この老夫婦に、彼女は殺せない。おれが悪人しか殺さないように、この夫婦にも自らに課したルールがあるのだ。いや、課したというよりも、自然にそうなってしまったのだろう。
老婆を盾にして、老人と対峙した。
撃つはずだ。彼女は殺せなくとも、それ以外はべつだ。任務のためなら、長年連れ添った妻であろうと犠牲にする。
装填されているのが散弾ならば、貫通はしない。拡散する一粒、二粒がかするぐらいだろう。通常弾ならば、貫通するかもしれない。
猟のための銃なのか、人を仕留めるための銃なのか。
彼らの任務とやらを考慮すると、後者。
だが長年、山の住人を続けていたのなら前者。
おれは、老婆ともども前に出た。
老人が、引き金の指に力を込めたのがわかった。
刹那!
「伏せろ!」
あの男の身体と声が、割って入った。
〈バンッ〉
老人よりも、あの男──世良のほうが、さきに撃った。
弾は、老人の顔よりも、だいぶ高い位置にそれた。
はずれたのではない。威嚇のための発砲だ。
老人の意識が、世良に流れた。
銃口が、世良へ向く。見えない彼には、察知できない。
おれは、老婆を前方に押し出した。夫婦が激突する。
「動くな!」
再び、世良が撃った。天井に向けて。
「警察だ!」
遅れて、あのホテルで会った、桐野と名乗った刑事が駆け込んできた。
おれは、手近にあったあの甲冑の兜を手に取った。だいぶ重くできている。かまわずにかぶった。
視界はかなり遮られてしまったが、状況はよく見える。刑事のほうは、銃器は所持していなかった。だが、世良が寸分たがわず狙いをつけている。老夫婦が激突したときの音で、正確に位置を把握したのだ。
まさしくバケモノ!
「無事ですか!?」
さらにもう一人がいた。青山の現場で、世良といっしょにワゴン車から出てきた人間だ。歳はいっているが、たぶんこの男も警察官。
桐野とベテラン刑事が二人がかりで老人から猟銃を奪い取った。
おれは隙をついて、老婆が放した凶器を手にした。
「動くな!」
世良が、また警告を発した。老夫婦に対してのものではない。ピタリと銃口が、こちらに合っていた。
「彼女は返す」
突き飛ばされていた麻衣は、床にヘタリこんだままだった。
「おれのことは見逃せ」
おれは言った。
「なにをするつもりだ?」
「おれには、まだこの続きがある」
なんのことだか、さすがの世良にもわからないようだった。
右手に凶器、あの設計のような書類を左手に。
その左手をかかげて。
「これだ」
「なんだ?」
見えないのだから、それは意味のない行動だったかもしれない。
「紙を持ってる」
桐野がそう伝えた。
「それは、なにを意味する?」
「おれにもわからない」
正直に告白した。
「何者かが、おれをどこかに導こうとしている。その道筋を、おれはたどる」
「なぜだ?」
「かつて忘れたものを取り返すためだ」
そのとき、麻衣が立ち上がった。猿ぐつわは自力ではずしたようだ。
「これからは、このバケモノについていけ」
「……いいの?」
「約束だ」
「わたし、顔を見てるのに」
「約束は守る」
まだ、麻衣はなにかを言いたそうにしていた。
「どうした? おれと離れるのに、未練があるのか?」
「いま、なんかカッコイイ言葉の応酬をしてましたけど……それかぶってたら、ちょっと間抜けです」
言わなくてもいいことを言われた。
苦い顔になったのも、彼女にはわからないだろう。
世良は、まだ銃口を下ろしていなかった。
かまわずに、後退をはじめた。
「世良?」
ためらいがちに、桐野が問いかけていた。
世良は、なにも答えずに動かない。
おれは、それを了承と受け取った。
「その二人は、自ら命を断とうとするだろう……だが、まだ死なすんじゃない」
見逃してくれるのと交換で、おれはある情報をくれてやることにした。
「おまえは、少女の誘拐事件を追っているんだったな? その二人に訊け」
「どういうことだ!?」
「この別荘には、その夫婦と孫娘が住んでいたそうだ」
それだけ言えばわかるはずだ。
「なぜ、誘拐された少女だとわかる!?」
「その事件をたどって、おまえもここへ来たんだろう? だったらおまえも、このおれと同じように導かれているんだ」
「……」
「だれかの思惑なのか、神の意思なのかは知らないが」
そう。得体の知れない力によって──。
「おたがい、たどりついた先で、また会うかもしれない。そのときは敵になるのか……」
「おれたちは、最初から敵同士だ」
「その眼の復讐を果たすか?」
「ああ……決着はつける。だが、いまじゃない」
最後に、おれは麻衣へ言葉を向けた。
「いままで、楽しかった」
「……ユウさん」
世良の銃口が下りていた。
おれは、背中を見せて走り出した。




