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遠い声  作者: てんの翔
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       5.9日午後4時


 誘拐された少女・水谷しずくの家からは、甘い香りが漂っていた。住宅街にあり、平均的な一戸建て──という感想を、峰岸から耳打ちされたばかりだった。

 ふっくらした座り心地のソファ。警察署のものより一段上等だ。テーブルはガラス製だろうか、手触りが硬質だった。紅茶が出されたことはわかるが、それ以外にもなにかあるはずだ。

 すると、遅れてテーブルになにかが置かれた。

「うちで焼いたケーキです」

 夫人らしき女性の声だ。とても穏やかで、丸みをおびている。薄い水色のように感じられた。

「どうぞ、おかまいなく」

 世良は言った。たぶん夫人は、自分が盲目であることには気づいていないだろう。

 横で、峰岸がさっそくケーキに手をつけている気配が伝わってきた。甘い香りの正体は、これによるものか。

(いや……)

 世良は、そう思う。物質的な香りのことではない。世良の感じる『甘い香り』とは、あくまでも比喩だ。この家は、甘いイメージに満ちあふれている。

 正直、誘拐事件のおきた家だとは思えなかった。

「こちらは、世良王海おうみさんです。声の専門家なんですよ」

 長山が紹介した。

 世良の右どなりに峰岸が、長山は左の席についている。正面に夫人がいた。

「そうなんですか……」

 夫人はそう答えたが、それがなにを意味するものなのか理解していないようだった。返事の戸惑いが、それを物語っている。

「ご主人は?」

 世良の質問自体には、あまり意味はなかった。答えはわかっているからだ。

「仕事です。帰ってくるのは、いつも遅くて……」

 透明感のある灰色の声に変わった。夫に対して、不満を抱いている証拠だ。

「当時の話になりますが、犯人の声に心当たりはないですか?」

 これも、答えはわかっている。

「いえ、ありません。初めて聞く声でした」

 覚えがあったら、とっくに警察に話しているだろう。

「娘さんの声は、残っていませんか?」

「え? 声……ですか?」

「録音か、録画されているものです」

 少し考え込む時間があいた。

「ホームビデオに録画していたものならありますけど……」

「それを聞かせてもらえますか?」

「は、はい……」

 そう言うと、夫人がどこかに足を運ぶ気配がした。階段を上がっていく。五分ほどして降りてきた。

「どうぞ」

 世良の耳に、音声が飛び込んできた。おそらく映像もいっしょに流れているはずだ。

 そこではじめて、母親から悲しみの情が漂ってきた。涙を我慢するような声がもれる。家に充満していた甘い香りまでが、なくなったような気がした。

 小さな女の子の、はしゃぎ声。

 父親と思われる男性の笑い声。

 幸せな家族の姿だった。

 世良は、心が痛んだ。彼女は……この家は、悲劇を必死で忘れようとしていた。きっと少女のことを、もうあきらめているのだ。もう死んでしまったものと……。

 そして美しい思い出のなかに、少女を閉じ込めた。

 非難はできない。希望はもちつづけているのだろう。しかし、それにすがるのは、つらすぎる。だから、もういないものだと……。

 それを、無理やり思い出させてしまったようなものだ。

『大丈夫か?』

 その声が聞こえたのは、そのときだった。それまでは笑い声だけだったから心当たりはなかったが、いまの声には聞き覚えがあった。

 たしか事前に長山から聞かされた一家の詳細では、父親の名前は『水谷健三』といったはずだ。知らない名前だ。どこで、この声を聞いた?

 思い出せない。

 そんなことが、自分にあるのか?

 これまでは一度耳にした声なら、どこで聞いたのか、神がかり的にわかった。それが、なぜだかわからない。

(いつ聞いた?)



 水谷家をあとにした世良は、車のなかで長山に、水谷健三にも会いたいと申し出た。

「家に行って、なにか気づいたことがありましたか?」

 返事を即答せず、長山は訊いてきた。

「いえ、とくにありません」

 世良は、健三の声に聞き覚えがあったことを伏せておこうと考えていた。いつ、どこで聞いた声かわからない以上、ただの勘違いかもしれないからだ。

「ただ……」

「ただ?」

「あの奥さんは、どこかぼやけていました」

「……ぼやけてる?」

 正気ではないという表現をためらったのだ。すぐに長山にも思い当たったようだ。

「仕方がないのかもしれません。娘が誘拐されたら、だれだって自分を失う」

「そうですね」

 数秒間、沈黙がおとずれた。

「……わかりました。会えるようにお願いしてみます」

 水谷家に行った目的は、事件の雰囲気に入り込むことだった。眼の見えない世良には、視覚的なイメージをすることが困難だ。音、香り、肌の感覚、それらに身体を没入させることで、事件をイメージさせる。

 それが、世良のスタイルだった。


        * * *


 水谷健三に会えることになったのは、その二日後だった。

 健三の会社は蔵前の隅田川沿いにあった。川独特の淀んだ水の匂いがした。五階建てのビルだと、峰岸から説明をうけた。先導していた長山が、なにかに触れたような音がした。たぶん、エレベーターを呼んだのだろう。

「一階から五階まで、この会社が貸し切ってますね」

 峰岸が言った。

 けっして大きくはないビルとはいっても、賃料だけで相当な経費がかかるだろう。どうやら健三の貿易会社は、かなりの儲けが出ているようだ。

「それとも、自社ビルなんですかね」

 エレベーターの扉が開いた。

「どうでしょう。事件当時は、ここではなかったようですが」

 長山がそう応えながら、なかに入っていくのがわかった。峰岸が続き、世良も乗り込んだ。

「調べておいてもらえますか?」

 世良は、お願いした。

「なにをです?」

「ですから、ここの経営状況などです」

「現在の……ですか?」

「そうです」

 腑に落ちないようだった。

 エレベーターが開く。世良が先頭になっているので、自らが降りた。そのまま歩いていく。峰岸がなにも言わないということは、真っ直ぐ廊下は続いているはずだ。

「扉があります」

 ノックした。

「どうぞ」

 なかから声がする。水谷健三だ。

 ノブを握って、扉を開けた。

「すみません、お忙しいところを」

 世良は室内に入り込んだ。後ろから、二人がついてくる。

「刑事さん、お待ちしていました」

 おそらく長山の顔を見て、そう言ったはずだ。

 すすめられて世良は、ソファに腰をおろした。自宅のソファよりも硬かった。

「突然ですみませんが、私のことを知っていますか?」

「は?」

 すぐに、疑問符が返ってきた。裏のない反応であることはまちがいないだろう。どうやら、世良の顔には見覚えがないらしい。

 しかし世良のほうは、健三の声に聞き覚えがある。ということは、顔を合わせていないのか……。いや、ほんの一瞬、会っただけなら、記憶には残らないだろう。

 せめて、いつごろ聞いたのか判明すれば……。

 世良は、もどかしく感じた。こんなことは、はじめてだった。

「いえ、気にしないでください」

「は、はあ……」

 お茶が運ばれてきた。濃い緑茶の香りが漂ってくる。

「この方も、刑事さんなんですよねぇ?」

 長山にたずねた。

「そうです……以前は、なんですが」

「以前?」

「まえは、公安部にいたんですよ。この世良さんは」

「こ、公安……」

 空気が変わった。公安、と耳にしたからか?

(そうか……)

 声の記憶がハッキリしないのは、まだ眼の見えるときに聞いた声だからだ。

 どこだ?

 いつだ?

(潜入先か?)

 いや、そんな身近にはいなかったはずだ。それならば、さすがに声を聞けばわかるだろうし、むこうも顔を知っているはず。

(わからない)

 やはり、答えには行き着かなかった。

 しかし、ヒントを得たことは大きい。もし水谷健三が、公安時代の捜査に関わっていたのなら、なにかしらの左翼系団体に所属していた可能性が高い。

 それから世良は、いくつかありきたりな質問をしただけで、健三の会社を去った。

 帰りの車で、長山が不服そうにしているのが伝わってきた。

「事件の糸口はつかめましたか?」

「なんとなく、です」

 世良は、つぶやくように答えた。


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