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遠い声  作者: てんの翔
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       39.19日午後7時


 銃声が聞こえた。


        * * *


 利根麻衣の実家を出たときには、五人の気配は無くなっていた。まだ近くに潜んでいる可能性はあったが、いまは気に留めておく程度でいいだろう。

 世良たちは、県内の山中にあるという祖母の家に向かった。車で一時間ほどかかった。「山のなかの田舎」と言った両親の言葉は嘘ではなかった。見えなくても、緑の匂いでそれとわかる。

 在宅していた祖母に、麻衣が来なかったかをたずねてみたが、やはり来ていないという。彼女が、よく立ち寄っていた場所も質問した。幼いころから、山のなかを自由に行き来していたそうだ。周囲一帯が、彼女にとっては庭のようなものだと。

 とくに有用な情報もなく、祖母の家を出たときに、世良は銃声を耳にしたのだ。

 遠くから。だがハッキリと、方角と距離は把握した。

 本能的に駆けだそうとした世良を、長山の声が止めた。

「世良さん! もう陽が暮れています! 山に入るのは、ムリですよっ」

 長山は忘れていた。世良にとって、闇は《闇》ではない。

「大丈夫です。おれ一人で行きます」

 さきほどから、風が強くなっていた。

 感覚が研ぎ澄まされている。

「無茶ですッ」

「王海さん!」

 三人を残して、世良は山のなかへ駆けた。

 見える。

 もちろん、視力が回復したわけではない。

 風の音が、脳内で絵を描くように風景を映し出す。斜面に当たれば、それを。樹木に当たれば、樹木を。草花。それらが、まるでコンピューターグラフィックのように描画されている。

 世良の知っているグラフィックと、現在のそれとは技術的に開きがあるのだろう。健常者にとってみれば、前時代的なものかもしれない。それでも、世良にとっては見えるに等しい。

 走った。

 いいぞ。もっと、吹け。

 風が道標になってくれる。

 鋭く尖った枝に、手や頬をひっかかれはするが、木の幹に激突することもないし、傾斜に足をとられることもない。

 駆けた。走った。

 風だけのおかげではない。

 こんなにまで感覚が冴えているのは、はじめてだった。

 まるで、未知の新薬を投与されたかのようだ。

 銃声のした付近に入り込んでいた。

 周囲に人の気配はない。風のおかげで、おおかたの地形は察知できるが、眼で見るのとはちがうから、正確な風景がわかるわけでもない。

 そこから、慎重に一歩一歩を踏み出していく。

 なにかに、爪先が当たった。やわらかいものだ。

 それが人間だと、すぐにわかった。

 しゃがみこんで、手で触った。息はあるようだが、意識は完全に飛んでいるらしい。

 血の匂いはしない。この人間を倒したのがだれであれ、流血を生むような方法は使っていない。ということは、銃を発砲したのも倒したほうではない。

 もっと詳しく、鼻をきかせた。

 火薬の匂い。倒れている人間の手にふれた。

 拳銃が握られたままだった。この人間が発砲し、逆に返り討ちにあった。

 そのとき、パキッとかすかな音がした。それほど近くではない。だが、こちらの様子をうかがっているようだ。

 世良は、握られている拳銃を手に取った。

 音の方角に銃口を向ける。距離感に自信はあったが、さすがに命中させることまではできないはずだ。

 少しずつ、歩を進める。

 隠れている人間が、自分の眼について知っているかどうかは賭けだった。もし知らなければ、銃をかまえているだけで威嚇になる。

 むこうも銃を持っていて、さきに撃たれたら危険だ。が、闇のなかでは、狙いをつけられないはず。いわば、五分五分。いや、闇に慣れている世良のほうが有利──。

「だ、だれかいるのか!?」

 世良の気配を察知した何者かが、声をあげた。男だ。恐怖のあまり、出さずにはいられなくなったようだ。

 世良は答えない。ゆっくり近づいていくだけだ。おそらく山中では常夜灯もないから、想像以上に真っ暗なはずだ。世良の位置も把握できないようだから、ライトのたぐいも所持していない。もしくは、持ってはいたが、いまは手放している。

〈バンッ〉

 銃声が襲いかかった。

 音の大きさに驚きはしたが、怖くはなかった。見当はずれの場所を弾丸が通過したのがわかったからだ。

 やはり、今日は冴えている。

 風の動きで、すぐ右横に木があることがわかった。拳銃を左手だけに持ち、右腕を伸ばした。まちがいではなく木があった。

 男のいる方角を考えて、木の陰に入った。

「あなたは、だれだ?」

 世良は、問いかけた。

 闇のなかでは、大まかな場所までは知られない。また発砲されたとしても、木が盾になってくれるし、そもそも当たりはしないだろう。

「た、助けて……くれ!」

 男の声は、ただただおびえていた。

「仲間は、だれにやられた?」

 倒れていた人間と敵対しているとも考えられたが、世良はあえてそう訊いた。

「や、やめろ! く、来るな!」

 会話は成立しそうになかった。男は、暗闇のなかで正気を失っていた。

 おそらく、《U》の仕業だ。世良は思った。男たちも、一般の人間ではないはずだ。それなりのプロをこうまで戦意喪失させるのは、並大抵の力ではできない。

 彼らは、《U》を襲撃した。だが、それはかなわず、このザマだ。

「あなたたちは、《U》を狙った」

「か、怪物だ!」

「安心しろ。そこで倒れている人間は、生きている」

「五、五人……いたんだ……それを一瞬で」

「五人?」

 利根麻衣の実家周辺に潜んでいた五人だ。

「おれのことを知ってるな?」

「だ、だれだ!? み、見えない……」

「利根麻衣の実家で、見張ってたろう」

「あ、あのときの捜一か!?」

 どうやら、桐野だと勘違いしているようだ。

「ちがう。四人いたろう。おれのことは聞いていないのか?」

 すくなくとも、自分の声は知らないのだと世良は考えた。

「ま、まさか世良王海か!?」

「そうだ」

 名乗るのは、危険かもしれなかった。

 相手が眼の見えない人間だとわかったら、男が攻撃してくるかもしれないからだ。

「た、助けてくれ! 同じハムだろう!?」

 しかし、男にその気はないようだった。

 ハム──男は、自身が公安であることを認めた。

「むかしの話だ」

「嘘をつけ! 知ってるぞ……おまえが、まだうちの意向で動いていることを……」

「なんのことだ?」

「《人工衛星》だ」

「人工衛星?」

 意味がわからなかった。

「《人工衛星》のために動いている……こっちの世界じゃ、常識だ」

「なんのことを言ってる?」

 シュッと、風を切る音が会話をさえぎった。強い風にも負けない鋭さがあった。

 男の声だけでなく、息づかいさえも途切れていた。

「おい!?」

 返事はなかった。おそらく、即死だ。

 世良は、気配をさぐった。

 風にまぎれてさだかでないが、何者かが、サイレンサー付きの銃で狙撃したのだ。

 どこだ!?

 木の陰にいたことが幸いしたようだ。むこうからも、狙えない位置なのだ。

 風の音に集中する。

 だれかがいれば、その箇所に気流の乱れがあるはずだ。

 だが、そう簡単にはいかなかった。相手もそれをよくわかっている。もしかしたら、風にあたらないよう、同じように木陰へ逃れているか、地面に伏せているのかもしれない。

 どれだけの時間が経っただろうか。

 わずか数秒のことかもしれないし、数十分は経過していたかもしれない。

 風が急激に弱まっていた。世良の感覚も、だいぶ鈍くなっていく。それを待っていたのか、気配が動いた。

 その方角に、発砲した。

 気配は、そのまま遠ざかっていく。風の音がやんだために足音はよく聞こえるようになったが、逆に距離感はとらえづらくなっていた。

 世良にも、本当の闇が訪れた。

 さすがに自力では、へたに動けない。

 すぐに数人の足音がした。三人。桐野たちだろう。世良は、ため息をついて安堵した。



「どういうことだ?」

 桐野の声が、詰問口調だった。

「おまえがやったのか?」

 拳銃を手にしているからだろうか、そう問われた。

「ちがう。サイレンサー付きだった」

「何者かが、こいつを殺したのか? こいつらは?」

「公安だ」

「撃ったのは?」

「わからないが、秘密をしゃべってもらいたくなかったんだろう。そいつのことは撃ったが、たぶんはずれた」

 まだ風がやみきるまえだったら、命中していたかもしれない。

「いましたよ、三人」

 周囲を探索していた長山がもどってきた。

「生きてましたか?」

「まだ気を失ったままです。やったのは、その狙撃者ですか?」

「ちがいます。《U》だと思います」

「どういうことですか?」

「五人は──殺された一人と、そこでのびている一人、そして長山さんが確認した三人は、利根麻衣さんの実家にいた人員です。おれたちを尾行してきた……いや、それはないな。《U》と麻衣さんを追って、ここまで来たのか……それもない」

 自分たちよりもさきに移動していたし、そのさらにまえにここへ向かったはずの二人を追ったとも思えない。

「最初から、二人の目的地がわかっていたのかもしれない」

「ますます、わからなくなりました。公安は、なにをしようとしていたんですか? 《U》と麻衣さんを殺すことですか?」

「それはわかりませんが、なんにせよ、ヤツに返り討ちされた。そしておれが、そのときの銃声を聞きつけて、ここに来た」

「《U》は、ここでなにをしようとしていたんでしょう?」

「それもわかりません……ですが、麻衣さんが関係しているのかもしれない」

 数秒間、沈黙が訪れた。微風にゆられた梢の音だけがざわめく。

「生き残ってるやつらを叩き起こして、吐かせるか?」

 桐野の提案には、賛成できなかった。

「ムリだ。さっきはパニック状態だったから、ペラペラと秘密をしゃべろうとしたが、おれたちの尋問では口を割るまい」

「ならば、どうする? 《U》を追うか? それとも狙撃者のほうか?」

 答えは決まっていなかった。どちらを追うにも、行方がわからない。まだ近くにいるかもしれないが、遠ざかっているのは、両者とも同じだろう。

「ここも、麻衣さんの祖母の山か?」

「あ? いや、ちがうみたいだ。というより、土地はもってないそうだ。ここら一帯、地主の土地らしい。そこをむかしから無償で借りてるそうだ」

 自分が飛び出したあと、桐野が祖母に聞き込んだのだろう──そう世良は解釈した。

「地主?」

「元総理大臣だよ。この土地は代々、浅田家のものだ」


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