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36.日曜日午後3時
のどかな田舎の街道を歩いている。
ふと立ち止まると、そこに『かかし』が立っていた。
──まるで、そんな光景だと麻衣は思った。
「おやおや」
その場を動かなかった男が、感心したように声をあげた。
左の頬に、トランプのダイヤ型の痣がついている。
「話をつけにきた」
ユウが言った。どこかサバサバした覚悟のようなものを感じた。
堂々と顔を見せているのだが、同じ裏社会の人間にならかまわないそうだ。
「いまから、彼女の実家に入らせてもらいたい」
「ほう」
「で、それを見逃してもらいたい」
「ずいぶん、都合のいいお願いですな」
怒りだすのかと考えたが、穏やかな口調だった。
「どんな命令でここにいる? 彼女を殺すことか?」
「いえ。あくまでも監視です」
「じゃあ、あの家に入ることは、妨害しないな?」
「それはどうでしょう。こちらの行動は、こちらにまかせると……」
それはつまり、ここで危害を加えるも加えないも、この男のさじ加減一つということだろうか。
「では、あらためて頼む。しばらく眼をつぶっておいてくれ」
「ほうほう。これはおもしろい。《U》と呼ばれるビッグネーム中のビッグネームが、このわしに頭をさげるとは」
「できれば、依頼主にも報告しないでもらいたい」
「ふふふ」
それこそ、今度こそ怒り狂うのかと思ったが、やはり《かかし》と呼ばれる男は、むしろ笑っていた。
「いいでしょう。しかし……わしもプロだ。なにか見返りがなければ」
「情報、というのはどうだ?」
「どんな?」
「さっきこの家に入ったのは、警察官だ」
「そんなことは、わかっていますよ」
「いや、わかってない。あの男は、真っ当な警察官だ」
「……真っ当?」
「そうだ。真っ当な警察官というのは、正義のためなら、悪魔のような執念をみせる人間のことだ。あんたが、どんな指令をうけているのかは知らない。だが、まかりまちがって、さっきの刑事を殺そうというのなら、あんたは後悔することになる」
「どんな後悔だというのです?」
「眼の見えないバケモノが、あんたに食らいつく」
それは、あの世良のことを言っているのだと麻衣にもわかった。
「眼が見えないバケモノ?」
「そいつ自身も、真っ当な警察官だった……いまは探偵だが、ヤツの執念は本物だ。おれでも勝てるかどうかわからない……それほどの相手だ」
「……ふふふ、ははは! いいでしょう。素晴らしい情報です。しばし、眼をつぶりましょう」
本当に《かかし》は、瞼をおろした。
* * *
「うまくいったね」
明るい声で、麻衣が言った。声はひそめている。彼女の実家の、彼女の部屋だ。両親にみつからないように忍び込んでいた。
彼女だけなら普通に入ることも、もちろんできる。が、それをすれば、両親に危険がおよぶかもしれない。顔を合わせないほうがいいだろう。
彼女にしてみたら、両親に会いたい気持ちも強いのだろうが、ここは堪えてもらうしかない。これまで感じたように、彼女はとても賢い女性だ。だから、そのことをねだるようなこともなかった。
彼女の部屋は、独り暮らしをはじめるまえと、まったく変わっていないということだった。
二階。庭に植えられている木を使って、窓から入り込んだ。
彼女はすでに、アルバムを収納のなかから引っ張りだして、食い入るように写真を眺めている。小さいころからの記録をたどっているのだろう。おれには、ないものだった。自らの半生を振り返るのは、つらいことだらけだ。暗く、禍々しく、血にまみれている。
必要なことであっても、思い出したくはない。
「これが、おばあちゃんの家」
山村の風景に、彼女と祖母と思われる老女が写っている。
「う~ん、とくになにもない……か」
もちろん、目的の場所を切り取った写真があるなどと、おれは考えていない。
「当時の記憶がよみがえってくるかもしれない。ゆっくり思い出してみようか」
「……」
「ここは、きみの部屋じゃない。おばあちゃんの家の近く……山のなかだ」
「……」
「あの日にもどってみよう。きみは、あそこまでたどりついた」
彼女の眼が、ある写真から離れない。
その写真も、祖母といっしょに撮ったものだ。だが、彼女自身はカメラのほうを向いていない。下を向いている。なにかで遊んでいるのだ。
スコップ。
そうだ。見覚えがある。あのとき、忘れていったスコップだ。
「あ……」
彼女の表情が、あきらかに変わった。
「思い出したか?」
「かもしんない……」
そのときだった。部屋のなかに気配が忍び込んできた。
一瞬で判断し、おれは机の上にあったシャープペンシルを手に取り、気配めがけて突き刺した。
「物騒ですな」
突きは受け止められた。
《かかし》だった。
「せっかく、教えてあげようと思ったんですから」
おれも彼だと察知したから、突きの途中で力をゆるめたのだ。
「すぐに、ここへ人員が配置されます。逃げたほうがいいですね」
それは、親切心だけで言っているのではない。なかにおれたちを入れたのであれば、彼の責任ということになる。実際にこの世界で責任を追求されるということはないが、プロとしての評判には大きく影響してしまう。
「え!? う、うちの親を……」
両親を殺しに来ると考えた麻衣が、悲鳴のような声をあげた。
「それはありません。警視庁の刑事がここを訪れたことを、依頼主は重く受け止めたのでしょう。こんな、おいぼれ一人にはまかせられないということでしょうな」
《かかし》は、笑みを溜めながらそう言った。謙遜が嫌味になっていなかった。彼が、そんなロートルでないことは、おれのこれまでの経験と勘が告げている。
「すまなかった。礼を言う」
「いえいえ、次に会うときは敵になるかもしれないわけですから、お気遣いなく──」
彼女の不安が消えていないことは明白だった。あれから実家をあとにすると、急いで山にもどった。夕暮れ。あたりはオレンジ色に染まっている。斜面を登りながら、彼女の顔色は冴えない。
「どうして、こんなことになったんですか!?」
これまでの不満を吐き出すように、彼女は言った。
「巻き込んだのはすまないと思ってる」
「……」
「気休めにしかならないと思うが、もしきみの家族に危害を加える者がいるとしたら、おれはそいつを許さない」
「縁起でもないこと言わないでください!」
火に油を注いでしまったようだ。
「じゃあ、こう考えよう。一分でも早く、この状況を抜け出すために、あの日のことを思い出すんだ」
「……ずるい。結局、あなただけが得するじゃないですか」
「そんなことはない。きみも、このおれから解放されて、また日常にもどれるんだ」
「あなたは、そうかもしれない……でも、いまわたしの命を狙っている人たちも同じだと言えますか?」
「約束しよう。きみの命は、おれが守る」
「殺し屋の言うことなんて、信用できません……」
「そこは、信用してもらうしかない」
「殺し屋に守ってもらうなんて……」
いまの境遇を嘆きながらも、足だけは止めていない。
木々のあいだを抜け、少し開けた場所に出た。
「ここです……」
彼女が、自信なさげにつぶやいた。
祖母の家からだと、一時間ぐらいの場所だろうか。幼かったころの彼女が、一人で移動したとは思えないほど遠くへ来ている。
「あっち見てください」
彼女は、ある一点に眼を向けた。
壮観な景色が広がっていた。地上が見渡せて、空も彼方まで続いている。
「小さいころ、よくこの光景を眺めていました」
「一人でここまで来たの?」
「そうです。いま思えば、すごく遠いですよね」
子供は、ときに突拍子もないことをしでかすというが、まさしく幼き日の大冒険だ。
「あのスコップを持って、ここで景色を眺めながら、遊ぶんです」
視線を下に移した。
薄く草が生えているが、剥き出しの地面もところどころある。当時といまの現状ではちがいもあるだろうが、少女がここで砂遊びをする姿が想像できた。
「たぶん、ここの近くです」
彼女の足が、再び動きだした。明確な目的をもっているようではない。たどたどしく、しかしなにかを感じている。
深い樹木の群れに舞いもどるや、儚げに歩みを続けていく。それがしだいに、力強い足取りへ変わっていくではないか。
雑草の生い茂る場所で、彼女は立ち止まった。そのほかの地面は木々に邪魔されて陽光が届かないのか、生えていても低い草や苔のたぐいしか見られない。だが、そこの一帯だけ、人の腰ぐらいまで丈がある。
おれは、雑草をかきわけて奥へ進んだ。
覚えがあった。
「ここか……」
さきほどの地点よりは開けていないが、それでもあのときのように、穴を掘って埋めるだけのスペースがある。人の腰ぐらい──それは、あの当時の彼女の胸ぐらいになるだろうか……いや、頭ぐらいかもしれない。後ろを振り返った。すぐそこに彼女はいる。
草の陰から覗いていた幼き日の彼女と、いまの彼女が重なった。
「ここです」
確信をもって、彼女は言った。




