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32.日曜日午前10時
「おばあちゃんに会っていったらダメですか?」
麻衣は訊いてみた。
「いまは遠慮してくれ」
「その答え、予想してました」
祖母の家を見下ろしながら、山道を登っていた。ユウとともに、おぼろげな記憶を頼りに歩いていく。
三〇分ほどして、
「まったく見当がつきません」
夢で見た場所をさがしあてるなんて、まさしく雲をつかむようなものだ。さらにそれから一時間ほどさまよってみたが、そんな場所はどこにもない。
あれは実際の記憶ではなく、本当にただの夢だったのではないか……。
「さすがに、これ以上は……」
幼かったころの自分が、こんなにまで遠くに行くことはできないだろう。
「しょうがない……今日は、これぐらいにしよう」
ひとまず、山を下りることにした。
「実家にもどれば、なにかわかるかも……」
麻衣がそう進言したから、車は土浦市内に向かって走っていた。祖母の家からの風景は、子供のころから、よく知っているものだった。
「当時のアルバムとか見れば、なにか思い出すこともあると思うんですよね」
しかし、彼の表情は浮かない。
「心配しないでください。逃げようなんて、考えてません」
実家で両親に助けを求めるのではないかと疑っているのだろう。
「そんなことじゃない」
彼は言った。
「まちがいなく警察が張ってるだろう。まともなほうならいいが……」
それはつまり、まともでない警察が待ち伏せしているかもしれないという危惧のようだった。
警察が信用できないことは、麻衣にも理解できる。昨夜のこともあるし、ユウの話からも推察できる。
「《おおやけ》が、いるかどうか……それだけじゃない。仲間……仲間だった人間がいる可能性もある」
「《店員》さん……ですか?」
「あいつもバカじゃない。どうやら、きみがあのときの少女だと気づいているようだ。というより、殺し屋をさしむけたのはヤツだ。ヤツを尾行して、ヤツの会っていた逃走役をさらに尾行して、おれはあのホテルに行き着いたんだ」
それで、自分を救ってくれたのだ。
「《店員》さんは、知ってるんですよね? 問題の場所」
「ああ。だが、ヤツは口を割らない。どんな拷問も無意味だ。殺されても吐かない」
「罠にかけるとか、できませんか?」
「どうやって?」
「そこに行くようにさしむけるんですよ。死体を掘り起こしたって嘘の情報を流して。そしたら、確認せずにはいられなくなるでしょう? そこを、わたしたちがあとをつけるんです。ミステリーでよくあるでしょう?」
「相手が素人なら、その手は有効だろう。プロ中のプロには通じない。そういう状況ならヤツはなおさら、その場所には近づかないようにするはずだ」
いくつか、そんなやりとりをした。
実家には、一時間ほどで到着した。市内の住宅街だ。周囲には一戸建てが密集している。背の高いビルはなく、山が遠くに見える。
少し離れた場所に車を停めて、さきに彼が偵察へ向かった。
「不審な車がある」
もどってくるなり、彼が告げた。
車内からは、実家は見えない。麻衣も降りて、曲がり角から実家をうかがった。
たしかに、黒い車が停まっていた。
「きみの家のじゃないよね?」
「ちがうと思います……」
最後に連絡をとったのは二週間ほど前だが、新車を買うなど言っていなかった。
と──。
そのとき、実家から見知らぬ男性が出てきた。緊張がはしった。自分の命を狙っている勢力が、両親に危害を加えようとしているのではないか。
思わず、家に駆け込もうとしてしまった。
それをユウに制された。
「まて!」
見知らぬ男は、車に乗り込んだ。
すぐには出発しない。
「大丈夫だ。あの男が殺し屋なら、一目散に姿を消している」
* * *
考えられることは、三つ。
その数は、彼女を狙っている勢力の数とイコールだ。公安、刑事部、そして《店員》の一派──そのいずれか。
刑事部は、言い替えれば、まともなほうの警察だ。一人の女性が拉致されたわけだから、当然のごとく動いていなければならない。
しかし《おおやけ》の存在が、それを邪魔していることもあり得る。
彼女の件で、はたしてどちらが主導権を握っているのか。《おおやけ》──公安部が握っていれば、あれは「まともじゃない」ほうの警察官だ。
残る《店員》の勢力だが、いまのところ、その可能性は低い。こんな白昼、ことにはおよばない。行動するにしても、できるだけ人目を忍ぶはずだ。
警察官であるということは、どうやらまちがいなさそうだった。
どうすべきか……。
あれが同業者や《おおやけ》だったなら、消えてもらうという選択もある。が、真っ当な警察官に手をかけるわけにはいかない。倫理的なことだけではないのだ。もしそれをすれば、警察は血眼になっておれを検挙しようとするだろう。いまでも逮捕はしたいはずだ。しかし彼らの同僚を殺すという愚行は、彼らの必死を引き出してしまう。それこそ死に物狂いで、おれを追ってくる。
いらぬ敵をつくるべきではない。
「どうするんですか!?」
苛立たしげに、彼女が耳元で囁いた。
車は、いっこうに発進しようとはしない。
乗っているのは、一人だ。
刑事課の私服捜査員ならば、普通は二人で行動するものだ。もう一人は、まだ家のなかに残っているのだろうか。
「あれ?」
「どうした?」
彼女が、気になる声をあげた。
「え……いえ、あそこで歩いてる人、急にあらわれたような……」
「ん?」
歩いてる人?
そんな人物はいない。彼女の実家の前の道路には、あの黒い車が停まっているだけだ。
「!」
いや、確かに歩いていた。
しかも、あれは……。
「かかし」
「え? かかし?」
昨夜、会ったばかりの男だ。おれと同じように、気配を自在に殺すことができる。
《かかし》は、車を通り越し、その場に留まった。乗っている刑事は、はたしてその存在を察しているのかどうか……。
「来い!」
彼女を引っ張って、自分たちの車まで引き寄せた。
かかしに接近するのは危険だ。いまはあの刑事のおかげで、かかしの注意はこちらに向けられなかったが、それがなければ、おれたちのことは察知されていただろう。
かかしの目的は、彼女だろうか?
いや、それは考えづらい。
なぜなら、ここに来たのはイレギュラーだからだ。
かかしは、おれたちがここへ来るような真似はしないと推理するはずだ。彼女一人ならべつだが、このおれがついているのだから。もちろん、かかしがそう考えたとしても、依頼主の指示で、そうすることはあるだろう。が、それよりも、彼女の実家を監視することで、どの勢力が彼女を追っているのかをさぐろうとしているのではないか……おれは、そう答えを導き出した。
「だれなんですか、あの人?」
「きみは、あの男のことが見えたんだな?」
「あのおじいさん……おじさんかな」
彼女の眼には、老人のようにも、初老のようにも映るのだろう。
なるほど、と思った。
《U》とまで呼ばれるおれの顔を覚えられたのも、彼女の才能なのだ。
「きみは、おれのような人間の姿を見破る能力がある」
あきらかに、なにを言われたのか理解していない表情が返ってきた。
「とにかく車に乗るんだ。ここから離れたほうがいい」
「え、でも……」
「おそらく車の男は、刑事だ。きみの両親に危害を加えるようなことはしない」
かかしは、どうだろう?
おれは、そう自問した。
ヤツの目的は監視だ。すくなくとも、いまのところそれはない。
「いいから乗れ!」
すると、おれたちのいる路地から、あの車が動き出したのが見えた。かかしは、そのまま家の前から離れないだろう。
麻衣が助手席に乗り込むのを確認すると、おれも運転席に滑り込んで車をバックさせた。
同じ通りに出ると、かかしに目撃されてしまう。路地を逆方向に進んで、そこで突き当たる通りに出ることにした。その通りからも、同じ道にいずれ合流することができる。
彼女にまとわりつこうとする人間・勢力を把握しておきたいと思った。刑事でまちがいないとわかっていても、職務に忠実な正義の使徒ばかりではない。もし悪に染まった外道なら、早いうちに始末しておくのも選択の一つだ。
予防線を張るなら、完璧に。