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遠い声  作者: てんの翔
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       31.19日朝


 九時過ぎに、さゆりの部屋を出た。

 峰岸に車で迎えにきてもらい、車中で長山に連絡をとった。かいつまんで、昨夜の出来事を告げた。さすがに長山は、驚いたようだった。

 とりあえず、事務所で待ち合わせることになった。長山がさきに行き、安全を確保してくれるという。鍵は閉まっていないはずだった。

 事務所には、三十分ほどで到着した。

 まだ長山がついていないかもしれないので、契約している近くの駐車場で、車を降りずに待っていた。

 すぐに長山から、峰岸の携帯に知らせが入った。

王海おうみさん、大丈夫だそうです」

 自分の事務所に向かった。まるで、他人の敵地に挑んでいくような心境だった。

「災難でしたね」

 入ると同時に、長山の声が降りかかった。

 なんと答えればよいのか思い浮かばなかったので、世良はあえてなにも言わなかった。

「とくに、なかは荒されてませんでした。盗聴器などは、ざっと見たところ、仕掛けられてないと思います」

 本当は坂本の一派によって、すでに仕掛けられているのだが、そのことは伝えなかった。話を聞かれて困ることはないし、坂本に限っていえば、敵というわけでもなさそうだ。

「これからは、一人にならないほうがいい。相手が何者なのかもわからないし」

「あの殺し屋じゃないんですか?」

 峰岸に問いかけられた。

 世良は、首を横に振った。

「あれが《U》なら、おれは生きちゃいないよ。それに、ヤツはあんな手を使ったりはしない」

「言い切れますか?」

 長山だった。

「《U》は、冷酷な殺し屋なんでしょう? 気配を感じることも困難だといいます。そんな殺し屋なら、そういう襲撃もするんじゃないですか?」

「ヤツがおれを殺す気なら、九年前に殺しているでしょう。眼を潰したということは、ヤツなりの情けです」

「ただの気まぐれだったのかもしれない」

「そうかもしれません」

「どうしてでしょう、世良さん。私は、あなたが殺し屋に信頼の情をもっていると感じるんですよ」

 言われて、世良もそれを自覚した。

 自分は、あの殺し屋を信用している。

 すくなくとも、公安や周囲の事件関係者よりも。

「それは、危険じゃないですか? 殺し屋は殺し屋です。ただの殺人鬼です」

「わかっています。ヤツは、おれの敵です。いつかは決着をつけるべき相手です」

 長山が、その答えに納得がいっていないことは気配でわかった。

「話題を変えましょうか」

 長山のほうが、いまの空気を嫌った。

「広陣についてわかったことを報告します。日本人の社員は五十人ほどいたようですが、名簿などは残っていないようです。なんせ捜査したのが公安ですから、そのときの資料もどこにあるのやら」

 最初から存在していないことも考えられる。捜査自体、適正におこなわれたのか疑わしい。

 関税法の摘発は、普通、税関が主導でおこなうものだ。輸出入が禁止されている貨物を、輸入もしくは輸出しようとすること──いわゆる密輸が一般的な違反行為となる。外国の貿易船が入港または出港が許されていない港のことを『不開港』というのだが、許可なく不開港に立ち入った場合などにも関税法違反となる。

 警視庁でいえば、生活安全部の生活経済課六係が関税法を専門にあつかっているはずだ。偽造有価証券などがふくまれる場合には、捜査二課が専門にあたり、銃器や違法薬物になると組織犯罪対策部が捜査にあたる。

「ただ……上杉という人物が浮かんできました」

「どういうところから?」

「簡単です。マレーシア本社に問い合わせたんです」

 むこうで現存している企業ならば、それが利口だ。

「本社でも、日本支社のことを知っている人間はほとんどいないようでした。とにかく、上杉という人間の名前だけが出てきたんですよ」

「問い合わせは、長山さんがしたんですか?」

 その素朴な質問は、峰岸だった。

「英語が通じたので、私が」

 長山が英語をしゃべれるということに、峰岸は感心したようだった。息づかいが興奮したように荒くなっていた。

「上杉……という人間について、わかっていることは?」

「その名前しかわかっていません。年齢はおろか、性別もわからない」

 それでは、さがしあてることは難しいだろう。

「そこで、二課にいる知り合いに、広陣と上杉について調べてもらっています。なにかわかったら、すぐに連絡をくれるようになっています」

 摘発が経済がらみの案件であったならば、捜査二課の網にかかるかもしれない。

 まさしく、一縷の望みだ。

 すぐに電話が鳴った。しかし、長山の携帯ではなかった。事務所の固定電話だ。峰岸が出る。

「桐野さんです」

 世良がかわった。

『世良か? ぜんぜん携帯に出ないから、どうしたのかと心配したぞ』

「事務所に置き忘れたんだ」

 説明が面倒だったから、それですますことにした。

『《U》と女性の行方はまったくわからない。手掛かりもなしだ。事件にもなってないから、人員もさけない』

 予想どおりの展開だった。公安は、秘密裏に事態を収拾しようとしている。刑事部である桐野を巻き込めたといっても、それ以上はあの坂本でも許してはくれないようだ。

『で、彼女の実家に行ってこようと思ってる』

「実家?」

『茨城県だ。普通の誘拐事件だとした場合、家族に身代金の要求があるものだろ?』

 だが、今回は普通の誘拐ではない。

 当然、桐野にもそれはよくわかっているはずだ。

『なにもすがるものがないんだから、それに賭けてみようと思う。身代金の要求は考えられんが、なにか接触があるかもしれん』

「茨城のどのあたりなんだ?」

『土浦市内だ』

「おれも行く。彼女を守れなかったのは、おれの責任でもある」

 犯人が《U》だとすれば、自分がそれを阻止しなければならなかった。公安(らしき人間)から彼女を守ってくれたというのは、楽観的な想像でしかないのだ。

 そこで、ふと世良は思いをめぐらせた。

 なぜ、ヤツは利根麻衣をつれていった?

 公安(らしき人間)から、守るため?

 それだけでは理由にならない。考えられるとすれば、ヤツにとっても重要な人間なのだ……彼女は。

 坂本が言っていた目撃者。彼女が、なにかを見たという。おそらく、《U》もそのことを知っている。だから、彼女に近づいた。アパートのとなりに住んでいたのだ。

『わかった。とにかく、おれが先行して実家に行ってくる。詳しい住所は、あとでメールしておく』

 電話は、そこで切れた。

 世良の思惑は、桐野には伝わらなかっただろう。

「利根麻衣さんの実家に行くんですか?」

 電話の声がもれていたのか、長山にそう訊かれた。

「はい。こっちの捜査に進展がないようなら、桐野に合流しようと思ってます」

「彼女の家族には、どう伝えるつもりなんですか?」

 答えに窮するような質問をされた。

 誘拐は、事件になっていない。へたに家族に話せば、いらぬ混乱や公安との軋轢を生んでしまうかもしれない。とはいえ、なにもないとも言えない。

「どうにかしますよ」

「どうにかって……あ、待ってください」

 長山の携帯が鳴り出した。

「おう、どうだった? え? え?」

 二課にいる知り合いのようだ。

「取締役の堂本。え? 所在不明? で? 佐賀? その男は? そうか、わかった。ありがとう。今度、おごるよ」

 携帯をしまって、

「上杉という人物のことは、わかりませんでした。ですが事件後、生安の経済犯担当のほうも広陣という会社についてはひととおり調べていたみたいです。その関係で、税関ルートで二課にも情報が入ったそうで」

 公安が摘発したことに怒りをおぼえたのだろう。

「取締役の堂本という男は、保釈中に姿をくらませたそうです。現在でも行方不明らしい」

 保釈中の逃亡というのは、軽いおこないではない。が、あまり知れ渡っていないということに、公安臭さを感じた。

 公安のみが追っているのか、それとも公安自らが逃がした──もしくは消すなどして、追う必要がないのか。

「新たに、佐賀武という人物の情報を得ました。広陣の中枢にいた社員のようで、現在は経営コンサルタントになっているようです」

「佐賀?」

 聞いたことがあると思った。

「あ、経営コンサルタントの佐賀武のことですか? テレビとか出てる」

 そのひらめきは、峰岸のものだった。

「知りません?」

 そのことについては、知らなかった。テレビは観ない。が、有名人ならば、だれかの口から耳にしたことがあるのだろう。

「あー、ラジオには出てなかったかなぁ……」

 すぐに、そのことに思い至ったようだ。気をつかうように記憶をめぐらせたようだが、続きがなかったところをみると、ラジオへの出演はないようだ。

「では、その佐賀武というコンサルタントに会いに行きましょう」

「わかりました。すぐに所在を調べてみます」

 直接、誘拐事件に関係しているかわからないことでも、すでに長山は開き直っているのか、すんなりと了解してくれた。

 警察の力があれば、午後にでも会うことができるはずだ。


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