30
30.日曜日午前6時
夜が明けた。
うっすらとした外の光が、建物のなかを満たしている。
麻衣は、ほとんど寝つけなかった。
あてがわれたソファの上で、眼をつぶっていただけだ。
ユウも、すぐそばで横たわっていた。麻衣のように瞳を閉じているだけなのか、本当に眠っているのか……よくわからない。顔は、むこうを向いている。それが偶然の姿勢ではなく、故意に顔を見せないようにしていることは理解していた。
麻衣は、起き上がった。
「あの……まだ眠ってますか?」
「いや」
ユウからの返事は、素っ気なかった。
姿勢はかわらず、声だけがした。
「これから、どうするんですか?」
恐ろしいと思っていた夜が過ぎてくれた。これからの日中は、少し不安が解消されるはずだ。
そうなってくると、今後の方針が気にかかる。
「どうしたもんかな……」
これまでに見せた俊敏な殺し屋のイメージとはほど遠い、茫洋とした言い方だった。
「そうだ、きみの田舎に行こう」
まるで軽い思いつきのように、その答えを導き出すと、ユウは背中を向けて起き上がった。
「田舎……ですか? わたしの実家?」
「いやいや。おばあちゃんの家だよ。山があるっていう」
「ほ、本気で言ってます?」
冗談のように聞こえるから、真偽を確かめる必要がある。
「本気だ」
「外へ出ても、大丈夫なんですか? また、襲われたりしませんか?」
「襲われても、おれがいる」
「信用できません」
「おれの腕を信用しろ」
「そういうことじゃありません」
「ん?」
「だって、あなたは殺し屋なんでしょう? それだけで信用できません」
「もっともなことを言うな」
「わたしが足手まといになったら……邪魔になったら、消すんでしょ!?」
麻衣にとっての殺し屋とは、そういうものだ。似たようなシチュエーションの映画かドラマか漫画を見たことがある。
「裏切ったりしない。昨日約束したように、きみが思い出してくれたら、身の安全も保証する。たとえ、おれの顔を見たとしても」
そう言うと、ユウは振り返った。
「え?」
一瞬、頭のなかが真っ白になった。
いけない!
記憶してはいけない。
だが、彼の顔が脳内に突き刺さる。
朝の薄い光に照らされて、ユウの……残忍な殺し屋の素顔が!
これまでに、アパートやその付近で何度か眼にしたことがあるはずなのに、そのときどきの印象とはだいぶちがう。
というより、これまでの印象は「無い」。
印象をもっていないのではなく、薄い……ちょうど、いまの室内の明るさのように、不確かで、とりとめがない。
まるで、そこにいないかのような……。
しかし、いまの彼は、確固としてそこに有る。
存在している。
(わたし、知ってる……)
麻衣は、思った。
知っているのは当然だ。
だが、そういうことではない。
知っているのだ。どこかで……。
アパートに越してくるよりも、ずっとまえから……。
「何度でも繰り返そう。おれは、悪人しか殺さない」
「……」
「だから、きみに手をかけることはしない」
「……」
「信用してもらうしかない」
「……どっちみち、顔を覚えちゃったから、あなたに協力するしかないんでしょう?」
麻衣は、腹をくくった。
それからすぐに出発した。
車は、昨日とはちがうものだった。車種のことに詳しくない麻衣には、それがなんというメーカーのなんという名称のものなのかわからない。ただ、昨日はグレーだったものが、赤い車になっていた。
「この車は、どうしたん──やっぱりいいです」
訊くのをやめた。どうせ、犯罪が絡んでいるにきまってる。
「ナンバーの知られていない車が必要だったんだ」
ユウは言った。
「昨夜の連中に車は見られてるから、最初の隠れ家に置きっぱなしのやつは使えない。まあそれに、あれは逃走役の人間が用意したものだろうからな」
途中のくだりからは、意味がよくわからなかった。
助手席に、外からの風が入ってくる。
麻衣の髪が、ゆるく、時折、激しくなびいてゆく。
運転するユウは、もはや顔を隠していなかった。
「どうした?」
こうしていると、普通にドライブを楽しんでいるかのようだ。
年齢は、いくつなのだろう?
ふと、麻衣はそんなことを考えた。
世良と因縁があるということは、二十代ではないだろう。が、眼の前の彼は、二十代にも、三十代にも、四十代にも見える。
若いのか、結構いっているのか、それすら見極められない。
ここでも、とりとめがない。
「あの……としは……」
そんな質問をして、はたして素直に答えてくれるだろうか?
有名な殺し屋なのだから、経歴は不詳なのではないか……。
「年齢?」
「あ、いいです……なんでもありません」
「途中でやめる癖、なおしたほうがいい」
「べつに、癖じゃありません」
「年齢は、秘密ってことで」
やはり予想どおりの答えだった。
「殺し屋の経歴は、不詳ってのがカッコイイだろ?」
「まんま、そう言うだろうと思いました」
「……」
ユウは、苦い顔になった。
運転しながら、ときたま彼は顔を下に向ける。最初、なんだろうと不思議に感じていたが、しばらく走っているあいだに、その理由を麻衣はさがし当てていた。
カメラだ。
高速や幹線道路には、必ずといっていいほど車のナンバーや運転者を撮影するためのカメラが設置されている。
Nシステムで警察は監視の体制をととのえていると、ネットのニュースで読んだおぼえがある。それに、スピード違反を犯したときに撮影されるオービスもある。ユウは、それを警戒しているのだ。
感心すべきなのは、そういうことを意識的にやっているのではなく、自然にこなしているということだ。となりにいるからこそわかる。彼は、人に顔を見せない動作を本能でおこなうことでがきるのだ。
「わたしは、なにを思い出せばいいんですか?」
麻衣は、たずねた。それを教えてくれれば、記憶をさぐるヒントになるのではないか。
「穴を掘っているところ……なんですよね?」
昨日、彼はそう口にしていた。
小さいころ、茨城にある祖母の家の山で、何者かが地面を掘っていた。自分が、それを目撃しているという。
「ああ」
「なにかを埋めたんですか?」
「それを知りたいんだ」
たしかに、そうなのだろうが……なぜだろう。ユウが、それを知っているのではないかと麻衣は感じていた。
「見当はついてるんですよね?」
「見当はついている」
「なんなんですか?」
「死体だ」
聞かなければよかったと、心底思った。
「……だが問題は、だれの死体なのかってことだ」
「埋めたのは、だれなんですか?」
「それは知らないほうがいい」
「……ユウさんも、それに関わっているんですか?」
決意を込めたように、麻衣は訊いた。
「殺したのは、おれだ」
背筋に、冷たいものが走った。
「だったら、だれだかわかるんじゃないですか?」
「聞きたいか?」
あらためて、ユウは言った。
本当は耳にしたくなかったが、凄惨な内容であろうと、話を聞かなくてはならないと感じた。
「おれに依頼があったのは、十三年前だった──」
* * *
当時はまだ駆け出しで、裏の世界でも無名だった。
腕には自信があった。だが、それだけでは仕事はこない。地道に依頼をこなして名をあげるしかないのは、表でも裏でも同じことだ。
手っとり早いのは、ヤクザ・暴力団がらみだ。ヤツらは日常的に殺しを必要としている。ライバル組織への報復、外国マフィアとの抗争、一般人をやるのに殺し屋を使う場合もある。
一般人への殺しはべつにしても、大半の依頼は「悪人」を殺すことになる。悪人からの依頼で、悪人を殺す。おれにとって、これほどおいしいシチュエーションはなかった。
そしてあるとき、特殊な依頼が舞い込んできた。ある人物からの紹介だった。いまでも彼の名前は知らない。《店員》と呼ぶことしかできない。
依頼主とヒットする人間の情報は、知らされなかった。それは、おれのやり方に反するから、最初は断った。だが、これからパートナーとして営業を担当してやるという《店員》(当時はまだ特定の呼び名はなかったが)の言葉にのって、唯一の例外をつくることにした。
現在でも例外は、そのときの一回きりだ。最近請け負った例の二件についても例外といえば例外になるが、悪人であるということだけは耳にしている。そのときだけは、悪人であるかどうかもわからなかった。
素性の不明な人間を、《店員》の指令どおりに殺害した。殺し自体は、とても簡単に完了した。
きっと「悪人」であるだろうと信じて、息の根を止めた。
その依頼が特殊だったのには、もう一つ理由がある。本来なら殺しを担当する人間が、その処理をおこなうことはない。いや、もっとランクの低い殺し屋ならば、処理も同時に請け負う人間もいるだろう。しかし、それなりの腕を売りにしている殺し屋で、それはない。処理をするための人間をべつに雇うことになる。だがそのときは、遺体の処理もこちらもちになった。というより、《店員》と本当の依頼主が、遺体を埋めることになったのだ。
その依頼主の顔は知らない。会ってはいるが、こちらは目隠しをされていたし、むこうにしても、こちらの素顔はわからなかったはずだ。むこうも、こちらも、だれなのかはわかっていない。
目隠しをされ、車で遺棄現場までつれていかれた。山道なのはわかった。曲がりくねっていたから。
どこかで降ろされて、さらに険しい斜面を登らされた。その間も目隠しが取られることはなかった。
樹木と草の匂い。土の香りも。
どこの山なのか、見当もつかない。
《店員》と依頼主が穴を掘っている音がした。
その作業に加えられることもなく、しばらくの時が経った。
ようやく音が途絶えたころに、目隠しが取られた。
そこにいたのは、《店員》だけだった。
依頼主の姿は見えない。どこかに隠れたのだろうか?
《店員》から、いっしょに埋めもどすよう命令された。
意味のわからないままに、穴へ土をかぶせる。そのなかには、自分の殺したターゲットが、うつ伏せに転がっていた。
「依頼主は?」
「そんな人間はいなかった」
《店員》は、嘘を言った。
そんなはずはない。目隠しはされていたが、車中ではもう一人の気配が確かにあった。それに、遺体の処理に依頼主が同行すると、店員自身が語っていたのだ。
「いいか、そのことは忘れてくれ。これから私とおまえとでやっていくつもりなら」
「……」
「こいつの名前だけは教えてやる」
店員は、穴のなかへ顎をしゃくって続けた。
「人工衛星だ」
「それが名前なのか?」
「そうだ。彼は、あるものを飲み込んでしまった。ここで永遠に眠ってもらう」
「教えてくれるのは、それだけなのか?」
素性や経歴は、やはり教えてくれそうもなかった。
穴を埋めもどし、不自然にならないよう細心の注意をはらった。秋ではなかったから落ち葉はそれほどない。近くから雑草を抜いてかぶせたり、石を散らしたりして工夫した。
ちょうど、作業を終えたころだった。
ある小さな気配を感じた。
おれだけでなく、《店員》も同時に気づいたようだ。
その場所から数メートル離れた草むらに、女の子が隠れていた。
すぐとなりから、殺気が放たれたのがわかった。
「やめろ!」
《店員》へ鋭く叫んだ。
彼の動きが止まった。
もし彼が、あのまま女の子を殺そうとしていたら、本気で《店員》のことを消そうとしただろう。たとえ目撃者といえど、まだ幼い子供を手にかけるなど、悪人かどうか以前の問題だ。
「見られたんだぞ」
「殺しを見られたわけじゃない」
女の子に極力聞こえないように、話し合った。
「この場所を知られた」
「そのことに、おれは関係していない。おれの仕事は、殺すことだ」
「だったら、私の好きにさせてもらう」
「それは許さない」
「甘いヤツだな。子供一人殺せないようでは、一人前の殺し屋とはいえないぞ」
「……おれと今後も組みたいのなら、こっちの言うことをきいてもらう」
依頼人やターゲットのことを知らずに仕事を引き受けたのは、彼にいまと同じことを言われたからだ。今度は、こちらが条件を出す番だった。
「……わかった」
そうやりとりをしている最中に、女の子はいなくなっていた。本能的に恐怖を感じ取って逃げたのかもしれない。予感があったので、それまで女の子が隠れていた草むらへ走った。
「どうした? なにかあったか?」
「なにもない」
すぐあとを追ってきた彼に、そう答えた。
嘘だった。
おもちゃのスコップが落ちていた。プラスチック製のやつだ。
「もどるぞ」
《店員》が踵を返したのを見計らって、そのスコップを手に取り、確認した。
名前が書いてあった。
『とね まい』
それから、再び目隠しをされて、山を下りた。彼の運転で、その地を離れたのだ。
「わたし……会ってたんですか?」
「そういうことになる」
「じゃあ……」
「そうだ。きみが、あのアパートに越してきたのは偶然でもなんでもない。そういうふうに仕組んだんだ」
「どうやって?」
彼女は、素直に驚きを表情にのせた。
「十三年前のあのときから、おれはきみのことをさがした。名前はわかっていたが、それは簡単なことではなかった。二年ぐらいかかったかな。きみをさがしあてたあとも、きみの動向をつねに監視していた」
「監視……ですか?」
「といっても、そんな大層なものじゃない。たまに、様子をうかがっていたぐらいのことだ。あのときの仲間に狙われる危険もあったからな」
「わ、わたしを……守ってくれていたんですか!?」
おれは明言をさけた。
「……きみが大学生になり、東京で一人暮らしをすることも知っていた」
「あ!」
彼女は、なにかに気づいたようだ。
「まさか……アパート……」
「きみにあそこを借りさせるために、いろいろと工作したんだ。不動産屋には、裏から手をまわしておいた。仲間には知られるわけにはいかなかったから、なにかと苦労した」
「……だから、いっぱい断られたんですね」
「悪いと思ってる」
彼女は、軽くため息のようなものを吐いた。
「で、どうだ? なにか思い出せたか?」
彼女は、首を横に振った。
「でも……」
「どうした?」
「あなたの顔を見たとき、どこか懐かしくて見たことがあるって」
「そうか」
「不思議ですね……これまでも、アパートで何度か顔を合わせてるじゃないですか。そのときには感じなかったのに」
「ああいうときの顔は、おれの顔であって、おれの顔じゃない」
「いまは?」
「正真正銘、おれの顔だ」
車はまもなく、目的の地域に到着しようとしていた。




