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遠い声  作者: てんの翔
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       28.土曜日午後8時


 次の建物には、地下室はないようだった。

 内部は、いくつかの部屋に分かれていて、さきほどの隠れ家よりは乱雑としていない。その一つの部屋に、麻衣は押し込められた。

 電気は来ているようだ。裸電球のような簡素なものではなく、この建物の生前(?)の面影をしのばせる、ちゃんとした蛍光灯だった。

 窓はなかった。だから灯をつけていられるのだ。

「大丈夫なんですか……本当に?」

「さっきのほうが、地下にいたぶん安全だったのはまちがいない」

 その言葉が、ますます不安をつのらせる。

 ユウは、再びマスクをかぶっているので、表情はわからない。

「電気消したほうが……」

「外に光は漏れない。みつかるときは、どんなに慎重をきしてもみつかる。みつからないときは、どんなに大胆な行動をとってもみつからないものだ」

 身も蓋もないことを言われた。

「お腹減ってるだろ? 200メートルほど離れたところに、コンビニがある。そこでなんか買ってくる」

「わ、わたしは?」

「ここで待ってろ」

「そ、そんな……」

 一人で、こんなところに……。

 さきほどのことがあるから、恐ろしい想像が浮かんでしまう。

「おとなしくジッとしていれば、なにもおこらない」

「さ、さっきは、ちがったじゃないですか」

「それは、発信機がつけられていたからさ」

「まだついてるかもしれません」

「大丈夫だ。二つ仕掛ける時間はなかった」

 それでもイヤだった。

「わたしも行きます」

「それこそ危険だ」

「わたしを一人にしたら、逃げるかもしれませんよ!」

「それはない。きみもバカじゃないだろう? おれといたほうが安全だということは、もうわかってるはずだ」

 そのとおりだった。彼からは、襲撃者の正体を大まかには聞いている。

 警察すら信用できないのだとしたら、彼しかすがるものはない。もし、べつにいるとしたら、あの盲目の探偵──世良だけだ。

「いいから、ここにいろ。すぐにもどる」

 念を押すように言うと、ユウは部屋を出ていった。

 麻衣は、ポツンと孤独な時間を過ごすしかなかった。


        * * *


 コンビニとは逆へ向かっていた。

 おれは、襲撃を受けた廃工場にもどっているのだ。

 敷地に入ると、謎の《おおやけ》が倒した男たちはいなかった。なかでおれ自身が意識を奪った二人も同様だろう。

 なかの二人は、一時間ほど自力では目覚められないようにしておいた。外の人間は安否の確認しかしていないから、どれほどの痛手を負っているかはさだかでない。まだ生きていたとしか。

 もしかしたら、すでにこの世を去っていることも考えられる。

 自ら立ち上がり、ここを去ったのか。

 それとも、仲間が救出に来たのか……。

 念のため、内部もさぐってみた。

 待ち伏せはされていなかった。あたりまえだ。再びここにもどるとは、だれも考えていない。すでに遠くのどこかに隠れていると思うのが普通だ。

 だが、まだ周囲を捜索している可能性はあった。

 工場を出て、それらしい気配をさがした。

 動いているものはなかった。

 しかし、「動いていない」気配はあった。

「?」

 どこか得体の知れないイメージが、胸を焦がす。

 住宅街へ続く路地の途中。等間隔に設置された街灯が、闇に彩っている。

 電柱に寄り掛かるように、何者かが立っていた。

 細部まではわからないが、その人物は、どこも見ていない。

 いったい、なにをしているというのだろうか……。

 おれは迷った。何者かに近づくべきかどうかを。

 危険なものは感じない。ただの通行人には思えなかったが、近所の住人が散歩に出てきただけなのかもしれない。

 擬態を深くして、おれは歩みを進めた。

 10メートル。

 8メートル。

 5メートル。

 こちらに気づく様子はない。

 人物は、男だった。年齢は五十前後だろうか。もっといっているかもしれない。六十歳少し前と見立てを出した。ただし、老けた印象はない。身体も逞しく、顔つきも精悍だ。

 もう一歩だけ近づこうと考えた。それでなんの反応もなければ、ただの住人だ。

 が──!

(行けない)

 本能が、警告を発していた。

 それ以上は、危険だと。

 この人物のパーソナルスペースを侵すことになる。いや、攻撃圏内と呼ぶべきだろうか!?

 おれは、後ずさりした。

 6メートル。

 7メートル。

「さすがは、《U》と呼ばれるほどの男だな」

 不意に声がした。

 その人物というよりも、まるで電柱から声がしたようだった。

「何者だ? おれの存在がわかるのか?」

 答えはなかった。

「同業者か?」

「用心深いな。そんなものをかぶっているとは……」

 意図したことではなかった。マスクは、取り忘れていただけだ。

「こちらも名乗っておこう。わしは、《かかし》だよ」

 かかし?

 そんな通り名の人間は知らない。

 いや、この業界は、狭いようで広い。それに、おれには同業者の知り合いもいなければ、友人もいない。

「その様子だと、知らんようだね。なぜだかわかるか?」

 おれは、答えなかった。

 答えられなかったというのが、正直なところだ。

「だれにも存在を知られたことがないからだよ」

 なんだそんなことか──おれは思った。あまりにも予想どおりの言葉だったからだ。こんな「殺し屋っぽい」ことを、本当に口にする人間がいるとは驚きだった。

「ほう。そんなことか、と思ったようだな。まあ、それもそうか。おまえさんも、そういう殺し屋なんだからな」

 その内容も、予想どおりだ。

「つまらん男だと、考えたな?」

「……」

 やはり答えられなかった。

「だが、眼をつぶって思慮を重ねてほしい。その正体は謎とされていても、《U》という存在は、警察関係者や裏社会では有名だ。が、わしはちがう」

 おれは、試しに眼をつぶってみた。

 まさかとは思うが、その隙に攻撃してくるなんてことは──。

「!」

 おれは、後方にさがった。

 風圧が鋭く通過する。

 マスクが切り裂かれていた。

「それ、ギャグか?」

 あきれ声で、おれは言った。

「ははは、許せ。本気じゃない」

 たしかに、それはわかった。あからさまな殺気に、あらけずりな攻撃だ。いまので殺されるぐらいなら、最初から真っ当な職業に就いている。

 マスクは地面に落ちて、素顔をさらしていることになるが、大きく後ろへ跳躍したために、ちょうど街灯の届かない闇のなかに降り立っていた。

 それにくらべ、《かかし》の顔は薄い光を浴びている。

 より一層、容姿の細部がわかった。

 やはり整っていて、極悪な感じはしない。

 近所にいれば、中高年の老婦人たちから注目されるであろう二枚目顔だ。かつての銀幕スターといった感じだろうか。ただし、左の頬に特徴があった。角度的に、さきほどまでは視界に入らなかったが、いまはよくわかる。

 ダイヤ型の痣があった。

 大きさは、親指の爪ほどあるだろうか。自然に出来たものなのか、故意につけたものなのかは判断できない。

 通り名にするのなら《かかし》ではなく、《ダイヤ》のほうがいいんじゃないか──とアドバイスをしたくなった。

「で、なんの用があったんだ? おれを待ち伏せしてたんだろ?」

「いや、ちがうよ。雇主はね、おまえさんが、もう遠くへ逃げていると言ったんだよ。だがね、長年の勘からそれはちがうと思ったんだよ。裏をかいて、まだすぐ近くにいるとね」

「……」

「だから、わしだけここでそれを確かめたかったんだ。それだけだよ」

「雇い主は、だれなんだ?」

「おっと、口を滑らせたか」

 わざと滑らせたくせに──おれは、心のなかだけで吐き出した。

「わしは、これで失敬するよ。ああ、安心したまえ、おまえさんがこの近辺にいることは、雇い主には秘密にするよ。そんなこと契約には入っていないしね」

《かかし》は、背中をみせて歩いていく。

 こちらが、なんの危害も加えないと信じきっているように……。

 その仕種は罠で、背後から襲いかかった瞬間に、反撃をするつもりなのだろうか?

 おれは、なにもしなかった。

 罠でなかったにしても、ここであの《かかし》を殺すことになんの意味もない。

 何度でも言おう。プロは、簡単には殺さない。


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