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27.19日午前0時
『広陣』という貿易会社。
女子大生・利根麻衣。
調べを進めるべきは、どちらだろう?
七時ごろにあった坂本の電話からずっと、自宅へもどることもなく、世良は考えをめぐらせていた。気がつけば、深夜になっていたらしい。時計の鐘の音が、十二回響きわたった。
まだ八時か九時ぐらいだろうと思っていた。たいして頭のなかが進展していなかったので、まさかそんなに時間が経っていようとは……。
事務所の時計は一時間ごとに、その時刻の回数だけ鳴るようになっている。そしてそれ以外にも三十分に一回、音が出るようになっていた。が、十一時半までの鐘の音を聞いた記憶は残っていなかった。いや、そういえば耳にしていた。していたが、集中力が落ちるので、聞き流していたのだ。
世良は毛布を用意して、ソファに横たわる。事務所に泊まることも多いから、窮屈に思うことはなかった。
室内の電気は、はじめからつけられていない。今夜は峰岸が早く帰っているので、明るくする必要がなかったのだ。つまり考え事をしているあいだ中、真っ暗闇のなかにいたことになる。眼の見える第三者が立ち会っていたら、異様な状況だと思うだろう。
『広陣』という会社は、マレーシアの貿易会社であるという。現在、日本支社はなくなっている。かつて公安の摘発を受け、それが原因で撤退したと。
その企業と、一連の事件が関係しているというのだろうか?
(彼女は……なにを見た?)
そして利根麻衣は、どういうふうに絡んでくるのか……。
──なにかを目撃している。
坂本の言葉を信じれば、そういうことになる。公安が動くほどのなにかを……。
「!」
眠りに落ちようとしていたときに、忍ぶような気配を感じた。
闇に溶け込もうとする努力は認めるが、同化はできていない。それに世良にとって、闇は不都合な環境ではないのだ。
階段を上がってくる。
事務所の扉が開いた。
そのまま眠ろうとしていたから、鍵はかけていない。
光源を所持しているのか、何者かは、つまずくこともなく、ソファのもとまでやって来る。
世良は、眠ったふうをよそおっていた。
相手の出方を見極めたかった。
侵入者は一人だから、闇のなかでは充分に応戦できる。
空気の動きで、なにかを取り出したのがわかった。
カチ。
安全装置をはずしたのだ。
世良は飛び起きた。
足音の止まった場所から、何者かの手にした拳銃の位置を推定した。身長は、175センチぐらいと予想。あてずっぽうではない。足音の響きから、人物の大きさを割り当てたのだ。
引き金が絞られるまえに、世良は拳銃をつかんでいた。自動式だった。これで、スライドは動かないはずだ。
侵入者は、拳銃を両手で持っていた。ということは、光源を手にしてはいない。懐中電灯などを所持していた場合、拳銃をかまえた段階でそれをどこかに置いていなければならない。しかし、そんな物音はしなかった。かといって、頭に装着するタイプのライトでもない。これだけ近づいても、光の熱が伝わってこないからだ。
何者かは、暗視スコープのようなものを装着している。
でなれば、いくら都会の夜とはいえ、電灯の消えた室内を自由に移動などできない。
「くッ」
突然の抵抗に、侵入者が慌てている。
撃ちたいのだろうが、世良も必死にそれを阻止する。少しでも握力をゆるめたら、発砲を許してしまう。
なにかが太股に強く当たった。
おそらく、侵入者の足だ。
だが、それほどのダメージはなかった。
相手は、一方的に仕留められるとタカをくくっていたのだろう。まさかの反撃に、むこうもパニック状態なのだ。
世良は、蹴り返した。
膝が鳩尾あたりに命中したと思う。
いまならば、一瞬だけ手を放しても大丈夫なはずだ。
方向感覚は狂っていない。
室内のどこになにがあるということは、身体が覚えている。
世良は、侵入者から離れた。
壁のあるほうに向かった。
スイッチ。
部屋の灯をつけたのだ。
暗視スコープをつけているのなら、突然の光量に、相手の視力は奪われる。
「うわッ!」
呻きとも悲鳴ともつかない声がもれた。
次に世良が向かったのは、出口だ。
一度離れてしまえば、侵入者の体勢がわからなくなる。正面を向いているか、背後を向いているかで、拳銃の位置が大きくちがってくる。いくら眼くらましをかけたとて、銃器を持っている人間に近寄るのはリスクが高い。部屋の外に逃げるほうが懸命だ。
事務所を出ると、階段を駆け降りる。
後ろは振り返らない。振り返っても、見ることはできないのだ。
よく知っている土地だから、足の動きに淀みはなかった。
近くに人の気配はない。時間が時間だから、人通りは皆無だろう。だが表通りに出れば、この時間でも交通量は多いはずだ。
路地から、国道四号線に出た。
こういう非常事態においても、世良の距離感は完璧だった。現在地点の把握にまちがいはない。普段から、ガードレールやビルの壁を印にしている。手触りが、自分のいる位置を教えてくれる。
公衆電話に向かった。10メートルほど行けばあるはずだ。
追手の気配はない。むろん深夜とはいえ、幹線道路ともなると車通りは途絶えることがない。昼とは桁がちがうが、通行人もそれなりにいる。そのなかに、さきほどの侵入者がまぎれている可能性は捨てきれない。
さすがの世良でも、すべての足音、物音、騒音を聞き分けることは困難だ。静かな場所で、数も限られていれば、リズムの乱れなどから敵を察知することもできるのだが……。
公衆電話のボックスからは、話し声がしていなかった。携帯がこれほどまでに普及した現代においては、使用されていることのほうが珍しくなっている。とはいえ、深夜になるとホームレスが寝床として入り込んでいることもあるので、慎重に踏み込んだ。
携帯は置きっぱなしだが、幸いなことに財布は所持していた。
峰岸の携帯番号にかけた。機械まかせにせず、主要な番号はすべて暗記してあった。こういうときのためだ。
出ない。すでに寝ているのだ。
長山にかけた。こちらも留守電になっている。
桐野も出ない。
世良は、決断を迫られた。
このまま、事務所へもどってみるか。それとも、もどらないか。
もどるのならば、だれかの助けが必要だ。さきほどは不意をつけたから逃げられたが、逆に待ち伏せされていれば、簡単に消されてしまう。
べつのどこかに行くとしても、一人では不都合が多い。二四時間営業の店に入るとしても、やはり自分一人では難しい。入ったことのある場所でなければ、いつものような振る舞いはできない。
110番へかけて、おおごとにするか?
命を狙われたのだから、それが安全だろう。
だが、そうはしたくなかった。
個人的なつきあいのある長山や桐野はべつだが、警察組織へ一般市民のように助けを求めてしまうと、ヤツに笑われてしまいそうな気がしたからだ。
根拠のない意地だった。
それだけではない。もし、いまのが公安の仕業だとしたら、警察自体に信用がおけないのだ。ありえない話でもなかった。
どうやら、坂本の一派とは敵対しているわけではないようだ。だがその反対勢力が、こちらを敵対者とみなしているかもしれない。
なんとかしてみせろ──。
そんな《U》の言葉が聞こえてきそうだった。
「……」
もう一人……もう一人だけ、連絡できる人物を頭に思い描いた。そういうときの「像」は、むかしから知っている者を除いて、視覚的なものではない。
声。
声からイメージを受ける、想像だけの顔。
世良は、番号を押していく。
『もしもし、どちらさまでしょう?』
夜中なのに、彼女はすぐに出た。
当然のことながら、公衆電話からかけているので、彼女からすれば、見知らぬ番号からの電話ということになる。
一瞬、世良は言葉がみつからなかった。
『……世良さん、ですか?』
「どうして、わかったんだ?」
『なんとなくです』
彼女の声は温かくて、緊張していた心と身体をほぐしてくれた。
『なにか……あったんですか?』
熱のこもっていた緋色に、青みがかったくすみが入った。それは不安が色になったものだ。
『どこからかけてるんですか?』
「近くの公衆電話から」
おそらく公衆電話だということは、出たときにわかっているはずだ。あのブザー音が鳴っただろうから。
「事務所に泊まってたんだが、いろいろあってね」
『どうしたんですか?』
「ちょっと、もどれない」
『事務所で、なにかあったんですか!?』
「そっちに、泊めてもらいたい……ダメかな?」
質問には答えず、世良は言った。
『いまからいきます!』
「いい。場所を教えてくれれば、こっちから行く」
『バカいわないでください』
彼女の声は、怒っていた。
「タクシーなら、すぐ前を通ってるはずだ。それに乗る」
『ムリです! わたしが行きます! 事務所のそばですね!? 四号線沿いですね!?』
それを確認すると、彼女のほうから電話を切っていた。
それから三十分ほどで、彼女はやって来た。なんとかタクシーをつまえて、ここまで急行したようだ。深夜だから、簡単なことではなかったはずだ。世良は、申し訳なく思った。
「もっと、わたしを頼ってください……わたしは、あなたのなんなんですか……!?」
その感情が伝わってしまったのか、彼女は言った。
「ごめん……」
「あやまらないでください!」
ますます怒らせてしまった。
「きみの家に行きたい」
「わかりました」
少しだけ、彼女の──人見さゆりの機嫌が直ったような気がした。




