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25.18日午後6時
なぜ、川崎と堤に行き着いたのか?
それは、声だ。
誘拐された少女の父親──水谷健三の声に聞き覚えがあったからだ。聞き覚えはあったが、いつ耳にしたのかはわからない。そのことから、視力を失うまえに聞いたことのある声だと、世良は判断した。
確固たるなにかがあったわけではない。いわば、思いつきで川崎と堤に興味をもったにすぎない。だが、その川崎も堤も殺された以上は、やはりまったくの的外れともいえないのではないか。
ならば──、水谷健三をただの被害者家族ではないと仮定したらどうなるだろう?
彼も、公安の関係者?
いや、そればかりはない。もしそうであるならば、娘が誘拐された事件を、こうして世良が調査することもないはずだ。公安のことは、公安自身が、公安のなかで──その自己完結の原則を崩すとは考えられない。
そもそも川崎や堤と、水谷健三は関係があるのかどうかをはっきりさせたい。
長山と峰岸とともに、世良は水谷健三の家を急遽訪れた。前回、健三はいなかったが、土曜の夕刻ということもあって、今回の訪問では在宅していた。
家のなかに通されると、甘い香りが漂っていた。そういえば、一度目のときもそうだった記憶がある。
「どうぞ、召し上がってください」
健三の妻に、そうすすめられた。またケーキかお菓子をつくっていたようだ。
「妻は、菓子作りが唯一の趣味でして」
声の位置から、健三は正面に座り、妻はその右斜め後方に立っているようだ。
「なにか、娘のことで進展があったのですか?」
健三の声からは期待感が伝わってこない。
「あ、いえ……今日も、こちらの世良さんが、水谷さんに聞きたいことがあるようでして」
長山が、答えづらそうに発言した。
しかし、さきに質問したのは世良のほうではなかった。
「本当に、世良さんは眼が見えないのですか?」
以前、会社へ訪問したさいに、帰り際、長山がそう伝えていたのだ。そのときも信じられない様子だったが、いまでも心に引っかかっていたようだ。
「そうですよ」
「え!?」
健三と世良の会話に、健三の妻が驚いたような声を発していた。
「そ、そうだったんですか……!? わたし、そんなこととは……ぜんぜん」
心底、信じられない──といった声音だ。
「水谷さん、もう一度、訊きますが……私のこと、見覚えはありませんか?」
「はい。このあいだ、会社で答えたとおりです」
「では、川崎という名に心当たりは?」
「川崎……ですか? 知りません。もしかしたら、学生時代にそういう名前の同級生がいたかもしれませんが、親しい人間にはいないはずです」
「堤という知り合いはいますか?」
堤が世良の推理どおり公安の人間だったとしたら、ツツミサダオ──という名前は、まちがいなく偽名だ。もし健三が堤を知っているのだとしても、同じ名前で接触しているとはかぎらない。が、ぶつけてみる価値は大いにある。
「堤……堤……」
考えているように聞こえる。
堤、堤……。
「堤……つつみ……」
三度目の『堤』で、色が変わった。
じょじょに赤く。
つつみ──で、一気に黒へ。
「知りませんね……堤という知り合いはいません」
直感的に嘘だとわかった。
声の色が、それを物語っている。
もちろん、なにか証拠があるわけではないし、科学的に説明できるわけでもない。世良だけがわかる感覚だ。
それが絶対に正しいという自信もない。
それでも世良は、健三が偽りを口にしているほうに賭けることにした。
「堤サダオというのですが、もしかしたら、お嬢さんの誘拐に関係しているかもしれません……」
当然、なんの根拠もないハッタリだ。
「ま、まさか……」
「知らないのに、どうして《まさか》なのですか?」
「あ、い、いえ……」
困ったような、ごまかすような声だった。
「正直におっしゃってください。堤という男を知っていますね!?」
「し、知っているわけでは……」
「どういうことですか?」
「名前だけです……会ったことはありません……本当です」
「どういった関係なのですか?」
「仕事関係です」
短く健三は答えた。
どうやら詮索されたくない、なにかがあるらしい。
「貿易の仕事ですか?」
「……そうです」
やはり、歯切れが悪い。
「あ、あなた! 雫の命がかかってるんですよ!?」
命がかかってる──つまりは、娘の無事をいまでも信じているということだ。世良は、彼女の心情を思うと切なくなった。おそらく、正気と現実逃避の狭間で揺れ動いている。
娘になにかがあれば、まちがいなく逃避に堕ちるだろう。
「すみません……仕事関係で聞いたことがあるとしか……」
それ以上、健三の口が軽くなることはなさそうだった。
だが、ある仮説はたてられる。
堤が公安だとして、その公安に眼をつけられたということは、健三のなにかに「公安的な魅力」があったということだ。貿易会社ということを考慮すれば、それは健三の海外ネットワークではないのか。公安は、それに興味をもっていた。
本人が口を割らないのであれば、自力で調べるしかない。
水谷健三の貿易相手は、ほとんどが東南アジアの国々だった。シンガポール、マレーシア、タイ、ミャンマー。国名だけ耳にすれば、別段気に留めるべき場所ではない。
北朝鮮や中東ならいざ知らず、公安が好んで接触するようなところでは……。
ただし健三の会社に裏があった場合は、べつだ。
あれだけ言葉を濁したということは、そういうことも充分考えられる。しかし健三の会社のことは、すでに長山に調べてもらっている。これまでのところ、不審なものはないはずだが……。
水谷家への訪問から一時間ほどが経過したころ、事務所にもどっていた世良のもとに、長山から連絡があった。長山とは、水谷家で別れていた。
『世良さん、水谷健三の取引先をもう一度調べてみましたが、もしあやしそうなところがあるとしたら、マレーシアの広陳という会社ぐらいです』
「それは、どういう会社なのですか?」
『華僑系の企業だそうです。かつて日本にも支店があったそうですが、摘発をうけています』
「罪状は?」
『関税法違反です』
「生活安全部ですか? それとも捜査二課ですか?」
『ちがいます。捜査していたのは、公安のようです』
公安が、そんな案件をあつかうわけがない。
「その会社は、摘発をうけて日本から撤退したのですか?」
『そのようです』
「広陳ですね?」
『そうです。ですが、その会社に黒い部分があるということは確認できていません。二課の知り合いにも聞いてみましたが、記憶にはないということでした』
新宿のホテルで桐野と別行動となるまえに、桐野から長山の人脈の広さを耳にしていた。年代のちがう桐野とも交遊関係を築いていることでもわかるが、各所轄や本庁の一課から三課まで、さらに刑事畑だけでなく、警務や交通にも知り合いが多いらしい。
世良は、長山の刑事としての力量を軽んじていたのかもしれないと反省していた。
「ありがとうございます。『広陳』という名を記憶しておきます」
通話を切ってから、わずか十秒ほどで、また事務所の電話が鳴り出した。
「もしもし?」
数秒、相手はなにも言わなかった。
『ずいぶんと、深いところまでさぐりあてたものだ。感心するよ』
坂本の声だった。
「盗聴か?」
『それは、折り込みずみだろう?』
たしかにそのとおりだった。公安が絡んできた段階で、盗聴されるのは覚悟のうえだ。
「これは、なにかの警告か?」
『ちがう。警告ではない』
坂本は、迷うことなく言った。彼らの言葉を鵜呑みにするわけにはいかないが、それだけは信じてもいいのではないか、と世良は考えた。
「警告でないのなら?」
『……光を無くした君が、どれほどのことができるのか、見極めたかった』
「それで?」
『合格だ』
「どこから試されてた?」
『私に会ったときからだ』
「やっぱり桐野を巻き込めたのには、意図的なものがあったのか」
坂本は、それについては答えなかった。
「坂本さん、あんたは利根麻衣を殺さないほうの側についていると思っていいんだな?」
『それはどうだろうね?』
回りくどい言い方が、肯定していると告げていた。もし殺すほうだとしたら、あからさまに脅しをかけてくるだろう。
「どこまで教えてくれるんだ?」
『その女は、ただの目撃者ではない』
「どういうことだ?」
『目撃者ではあるが、君の眼を潰した殺し屋を見たから狙われているわけではない』
「では、彼女はなにを見た?」
『それを知れば、今度は君自身の命が狙われることになる』
これこそが、あからさまな脅しだ。
『殺し屋を追え』
「どこにいる?」
『女を調べろ』
「彼女は、ただの女子大生ではないというのか?」
『ただの女子大生だよ。ただし、殺し屋が取り込もうとするだろう。そうなれば、ただの女子大生ではなくなることになる』
「言っている意味がわからない」
『君ならば、必ず解きあかす』
「彼女の過去に、なにがあった?」
『だから、見たのだよ』
「なにをだ!?」
世良は、語気を荒らげた。
『さきほどの繰り返しになる。私は、君を失いたくはない』
「彼女と《U》は、いまどこにいる!?」
『ここだよ』
「なに!?」
そこで、一方的に切られた。
部屋の静けさが、不気味に感じた。
どういうことだ?
坂本は、最後に「ここだよ」と答えた。
《U》と彼女は、坂本が匿っているということか?
いや、額面どおりに受け取ってはいけない……。
利根麻衣は、なにを見た?
それは、いつ、どこで?
わからない。
ここにきて、また謎が増えていた。
増えるばかりで、減る気配がない。




